小佐田定雄編『青春の上方落語』(NHK出版新書)
笑福亭鶴瓶・桂南光・桂文珍・桂ざこば・桂福團治・笑福亭仁鶴(以上、登場順)という6人の上方落語の噺家たちが自らの修業時代の秘話や失敗談から、現在の落語の状況や今後についてまで語った一冊。桂南光が美術に造詣が深く、余生はパリに住みリトグラフで絵を描きたいと語っていたり、意外な一面も垣間見える。

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1972年2月14日、当時20歳で京都産業大学の学生だった駿河学青年は、上方落語の六代目笑福亭松鶴に入門した。駿河青年が「鶴瓶」という芸名を松鶴からつけてもらったのはそれから間もなくのこと。「『鶴之』か『鶴瓶』かどっちにする?」と師匠に聞かれて、「『鶴瓶』でお願いします」と選んだのだった。『青春の上方落語』(小佐田定雄編)で鶴瓶本人が語るところによれば、このあとの話が面白い。

《「よっしゃ、二階に『落語家系図』があるから、どんな名前か見てこい」
 て[引用者注――師匠の松鶴が]言わはったんで、さっそく調べてみたらありました。
 「四代目松鶴門人。後に二代目染丸門人となり染八となる」
 と書いてあって、アルコール中毒で死んだらしいんです(笑)》

鶴瓶はこのエピソードを、以前にも「パペポTV」か何かテレビ番組でも披露していたが、肝心の先代鶴瓶の末路は、上から音をかぶせて伏せられていたっけ。

落語家の芸名については、本人が面白おかしくその由来を脚色して、それがさも事実のように伝えられているケースも少なくない。たとえば桂文珍。師匠の五代目桂文枝(当時は小文枝)が手紙を書いているときに、横で座っていた彼に対し文鎮代わりに紙をちょっと押さえておけと頼んだことから、その名がついた――との話があるが、『青春の上方落語』によれば、これはじつはあとづけらしい。

本人が明かしたところによれば、真相は次のようなものだった。師匠は当初「新文枝(しんぶんし)」という名前を考えていたものの、本人が「新聞紙て、弁当包むみたいでんなぁ」と断り、さらに「はん枝(はんし)」を提案されたものの、これも「いやぁ……ちょっと」。「『はん枝』があかんやったら『文鎮』はどや? けど、金偏の『鎮』にするとちょっと重たすぎるなぁ。『珍』の字でどうや」ということで、「文珍」に落ち着いたのだという。

さらに鶴瓶の兄弟子にあたる笑福亭仁鶴は、かつて著書のなかで、タクシーに同乗した師匠の松鶴が「次の次の二番目の角を曲がっとくなはれ」と言ったところで、「あ、そや。おまえ、二角(仁鶴)にせえ」と決まったのだと書いたが、それは冗談であるらしい。鶴瓶のときとは違い、名前の由来について松鶴は一切説明しなかったという。

いまでこそ上方落語の噺家は200名以上いるものの、仁鶴が入門した1960年代初めには20数人しかいなかったという。それでもまだ増えてきたぐらいで、終戦直後には戦前からの名人があいついで亡くなり、上方落語は風前の灯にあった。そのなかで芸の継承に力を注いだのが、前出の六代目松鶴と五代目文枝に、桂米朝と三代目桂春團治を加えた「上方落語四天王」である。

『青春の上方落語』には、先にとりあげた仁鶴と鶴瓶・文珍のほか、桂福團治・桂ざこば・桂南光の6人の落語家が登場するが、福團治が三代目春團治の、ざこばが米朝、南光が米朝の弟子の桂枝雀の弟子にあたり、全員が四天王の系統ということになる。彼らは師匠たちからどのような指導を受け、伝統を継承し、さらに新たなものを加えて上方落語を発展させてきたのか。本書を通して読むと、再興を果たし、1970年前後のブームを経て現在にいたるまでの上方落語の戦後史が浮かび上がってくる。

興味深いのは、四天王と並び称される師匠たちが、芸の継承に熱心なことにはみな変わりはないものの、その稽古のスタイルは人それぞれであったことだ。

仁鶴の師匠・六代目松鶴の稽古は、噺の骨格を教えるというものであった。お手本はやってくれるものの、それを一言一句違わずにやらなくても細かいことは言われなかったという。これに対して、仁鶴が一時期、毎週稽古に通っていた米朝はきっちりしていて、手本どおりに言わなければならなかった。ときには弟子に本棚から本を取って来させ、それを見ながら、噺に出てくる時代の物価についてまで丁寧に教えてくれたという。いかにも、古典から発掘して復活させた噺も多い米朝らしい稽古のしかただ。

もっとも、米朝との稽古でパッとアドリブを口にしたところ、「あ、そらおもしろいな」と言ってくれたとの福團治の証言もある。福團治の師匠である三代目春團治はそれすら許さなかった。そもそも春團治はシャレを言っても「コラ、冗談言うな」「冗談は舞台だけにせぇ」と叱るような人だった。それだけに稽古にも厳しいものがあったようだ。弟子があまりに間違うと、たまりかねてタバコをぶつけることもあったという。

その厳しさは米朝も変わらない。弟子のざこばが稽古で間違え続けると、米朝はキセルを灰吹きに打ちつけ、苛立ちをあらわにした。ただし、ちゃんと覚える人には何も言わない。たとえば枝雀に対しては、注意するときも普通の調子で、「あぁそうそう……そこちゃうな……そうそう」と冷静であったらしい。

相手によって、ほめて伸ばしたり、反対にボロクソに言って伸ばしたりと使い分けをしていたのは、五代目文枝も同じようだ。弟子の文珍によれば、《弟子を育てるのは盆栽育てるようなもんや。中には曲がったやつもおりまんねや。針金でいがめたらいかんやつもおるしね。違うとこへ延びてきたら、バサッと切りまんねや》とよく言っていたという。

仁鶴や福團治・ざこば・文珍・南光らの修業時代、師匠たちは30代〜40代の男盛りだっただけに、弟子たちにも体当たりで接していたのだろう。そのことは本書の随所からうかがえる。桂枝雀にいたっては、南光に対し弟子ではなく同志という意味合いで、自分のことも「師匠」ではなく「兄さん」と当初呼ばせていたという(ただしこれは、米朝から世間に示しがつかないと叱られてやめることになる)。

枝雀は上方落語のブームの一端を担っていただけに、本書でも南光のみならず、折に触れて話にのぼる。仁鶴のくだりでは、入門以前からラジオの素人参加番組でよく一緒になった仲だけに、芸名ではなく本名の「前田(達)くん」として登場する。

古典を大げさな口調や表情、しぐさで演じて爆笑をとった枝雀は、全国的な人気を集め、いまなおファンも多い。仁鶴が「自分も理屈っぽいが、前田くんはもっと理屈っぽかった」と語っているように、独特の理論でも知られ、それらは著書の『らくごDE枝雀』や『桂枝雀のらくご案内』、あるいは本書と前後して同じく小佐田定雄が上梓した『枝雀らくごの舞台裏』でも触れることができる。

ただ、枝雀の大胆な芸は、繊細な性格の裏返しでもあった。南光によれば、普段は穏やかだが、抑えてる分だけ怒りを爆発させることもあったらしい。あるときなど、ささいなことで怒って、当時弟子たちとともに下宿していた家の部屋中のガラス障子を割ってしまったことがあったという。

人気を集めたオーバーなアクションによる落語も、あまりにそればかりが求められるので不満が募っていたようだ。じつのところ枝雀は、《決まり事も破ったらあかん、ウケるからというてシグサや表情を派手にしたらあかん》と福團治と語り合うなど、きわめてオーソドックスな落語観の持ち主だった。晩年、ふたり会でリアルに噺を演じた福團治に、「わし福さんうらやましいなぁ……。ええなぁ福さんは」と泣きそうな声で言ったという。

枝雀は1999年、60歳になるのを前に亡くなった。その後、上方と東京の噺家たちの交流も増え、また2006年には、長らく上方の落語家たちの夢だった落語定席「天満天神繁昌亭」が開場、上方落語は再びブームを迎えている。それも、枝雀やあるいは四天王と呼ばれた噺家たちなど、先人による積み重ねがあってこそだろう。本書に収録された証言からは、その過程がありありと伝わってくる。

※小佐田定雄編『青春の上方落語』

(近藤正高)