『愛菜学(まなまな) 芦田愛菜ちゃんに学ぶ「なんで?」の魔法』講談社

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1月15日にはじまった途端、話題沸騰の連続ドラマ「明日、ママがいない」(NTV、水曜22時〜)。
親のいない子供たちを一時的に引き取って、里親探しに力を貸す施設・グループホーム「コガモの家」で生活する子供たちの姿を描いている。
演じるのは、子役界の大スター芦田愛菜ちゃんを中心に、今、注目の子役たち。
彼らは、親のいない寂しさ、それでも負けないたくましさなどの様々な感情を、実に鮮やかな表情で見せてくれる。
第3話(1月29日)の放送を前に、ママをなくした「コガモの家」の子供達の物語の魅力をおさらいしてみよう。

まずは1話と2話のあらすじ

1話は、母親が傷害事件を起こしたため、グループホーム・コガモの家にやってきた少女真希(鈴木梨央)の視点から、子供達も施設長(三上博史)もワケありで、やたらとあやしげなコガモの家の様子を紹介。
最初は母親に捨てられたことを認めたくなかった真希だが、施設の子供達に影響を受けて、自分の状況を自覚し、コガモの家で生きていくことを決意する。

2話では、里親探しの困難さにスポットが当たる。
子供が資料から里親候補を選び、「お試し」期間を経て、最終的に里親を選ぶというシステムの中で、コガモの家の住人のひとりパチ(五十嵐陽向)が、実の母親の思い出と里親との間で心が引き裂かれてしまう。
子供の複雑な感情が、大人は全然わかっていないという、大人と子供の断絶が寂しい。

芦田愛菜がオトコマエ!

1話の真希も、2話のパチも、彼らを救うのは、コガモの家のリーダー的存在ポスト(芦田愛菜)。
ポストの名前の由来は、赤ちゃんポストに捨てられていたことから。
でも彼女は、決して自分を悲劇の主人公にしていない。

「失恋は自分から振らないとあとを引く」

これは、1話で発せられたポストの名言だ。
自分は捨てられたのではない。自分が捨てたんだ。と考えることで、彼女は前を向こうとする。
赤ちゃんポストに捨てられた時、親が彼女に残した唯一のものである「名前」を捨てて、彼女は自ら「ポスト」という名を選んでいるのだ。

9歳にしてかなりの自立心の持ち主ポストは、斜に構えた少年のような雰囲気をもっているが、演技が上手で、か弱い子にも瞬時でなれる。嘘泣きなんかお手のものだ。
里親のお試し期間の時は、フリフリドレスを着て、素直な可愛らしい女の子に変身。

が、その内側には、自分を捨てた親への恨み、絶対幸せになってやるという反骨心、無理解な大人たちへの不信感などを熱くたぎらせ、ひとたび自分や仲間に危機が起こると、全力で噛みついていく。

1話では、里親がやばい精神状態だったことが判明した時、必死で抵抗を試み、2話では、苦しむパチを救うために、マンションのベランダによじ上り、窓をレンガ(?)で割って、部屋の中に侵入するという活躍を見せた。

貧しくても、落ちているものを食べない、というプライドをほかの子供たちにも示すところもオトコマエである。

とはいえ、ナイーブな面ももっていて、親の顔を知らないことを本当はコンプレックスに思っている。
1話で真希がそのことで挑発すると、殴りかかっていくのだ。
自分の中で折り合いのつかない思いを抱えながら、それでも、折り合いをつけながら、心の傷を自分で治していこうとするポストには、見習うところが多い。

ポストの意味はわかった。ロッカーにボンビにドンキは?

ポストが、自分を捨てた親への決別の意志を込めて、この名前を名乗っていることに影響された真希は、1話の最後で、「ドンキ」というあだ名を受け入れる。

「ドンキ」と言ったって、陽気な音楽のかかっている雑貨屋ではない。
母親が「鈍器」で傷害事件を起こしたことが由来である。
パチは、母親がパチンコ依存症だったから。
ロッカー(三浦翔平)は、ロックミュージシャンではない。コインロッカーズベイビーだからだ。
それから、貧乏だからボンビ(渡邉このみ/「寺内貫太郎一家」のパロディをやってることが気になってならない)、ピアノを習っていた元お嬢様は、ピア美(桜田ひより)、17歳の最年長の子はオツボネ(大後寿々花)。
コガモの家の住人の名は、まんま過ぎるほど、まんまである。

1話には「かわいそうだと思う方がかわいそう」というセリフも出てくるが、いいとか悪いとかではなく、ありのままを受け入れようということなのだろう。
このあだ名によって、役名とキャラをすぐ覚えることができる。

このように様々なバックグラウンドをもった子供たちが、子供がたくましく(特に愛菜ちゃん)、里親を自分で選ぶのだという信念の元に生きていることが、「明日、ママがいない」の特性である。
さらに、印象的だったのは、人間関係を恋に置き換えていることだ。

前述のように、ポストは、親に捨てられた状況を「失恋」に例えるだけでなく、何かと、人間関係を「失恋」「片思い」などと、恋に例える。
そういう混同が、子供らしい可愛さのようにも思うし、里親との「お試し」システムは、男女の交際期間と同じと考えてもおかしくはない。
お見合い。試しにつきあってみる。結婚。みたいなことはふつうにあることだ。
すると、単純に「親に捨てられた子供の物語」であるだけでなく、すべての「捨てられた者たちへのエール」であると拡大解釈もできる気がしてくる。

童話の魔女みたいな三上博史

コガモの家の施設長・佐々木友則の通称は「魔王」。
登場の仕方がすごかった。片足をひきずって、杖の音をやたら大きく響かせてくるのだ。
「魔王」というより、童話に出て来る意地悪な魔女みたいな感じを漂わせ、やたらと子供達に厳しく当たる。

悪いことをすると、お仕置きに、風呂場にバケツをもって立たせるなんていう、時代錯誤なこともする魔王だが、何かトラウマがあるらしく、煩悩の数108人分、子供に里親を探さなくてはいけないという十字架を背負っていることが既に1話で明かされている。
目標達成の暁には、魔法が解けて王子様にでもなるのだろうか。

子供を犬に例えるなど、口は悪いが、意外と常識的なことも言っていて、「誰かに手をあげたら、これだから親のいない子は・・・となる」からと「先に手だしたら負けだ」と言い聞かせ、芸のひとつもできないと、もらい手がつかない、と演技力を鍛えさせる。
1話の泣きの演技レッスンしているところは、昔のサーカスや大道芸人の元締めのようでもあった。

余談だが、この演技レッスンシーン。
脚本監修の野島伸司が原作者として週刊少年サンデーで連載中の「NOBELUー演ー」という子役のことを描いた漫画を彷彿とさせる部分もある。
野島ドラマの、思春期に出会う「もうひとりの自分」との関係、傷つけ合う他者との関係などひりひり感の強い作品なので、野島作品ファンは要チェックだ。

魔王よりは、いやな感じに描かれているのは、
親たちだ。
1話の真希の母は、恋人(真希の父ではない)との結婚のために娘を捨て、2話の里親は、
パチの大切な思い出の品を無理に捨てようとする。
これから毎回、子供と里親との簡単にはいかない関係性を描きながら、ポストたちの本当の幸福を探していくことになるのだろう。
ポストの出生の秘密やキラキラネームらしい本名、魔王の秘密なども絡んだミステリー展開方面にも期待したい。

とかく、状況をプラスに捉えるかマイナスにとらえるかは、自分次第。
捨てた大人によって運命を決定づけられてしまったと嘆くのか、自分から捨てて、これからの道は自分が選ぶと決断するのか、ロールシャッハテストのようなドラマ「明日、ママがいない」から、どんな絵が浮かび上がってくるか見続けようかな、と思う。
(木俣冬)