◆準備時間がほとんどないままオーバーエイジを使うことの難しさを露呈し、敗者としてアテネを去る

 アトランタ、シドニーに続いて3大会連続で五輪本大会出場を決めた日本。山本監督は世界で勝てるチームにするために、「アテネ経由ドイツ行き」というスローガンを掲げ、選手たちを一段と強く鼓舞した(結果的にはドイツではなく南アになったのだが…)。

 そこで問題になったのが、オーバーエイジをどうするかだった。黄金世代が世界で勝ち続ける姿を間近で見続けてきた指揮官は迷うことなくカードを切った。小野伸二(当時フェイエノールト)、高原直泰(当時ハンブルク)、曽ヶ端準(鹿島)の79年組3人を加える決断を下したのだ。

 シドニーの時、小野は落選、曽ヶ端も補欠帯同にとどまっており、高原も2002年日韓W杯を病気で棒に振っている。そんな悔しさをアテネにぶつけてほしいという期待も大きかったに違いない。

 小野という伝家の宝刀を起用することで、結果的に押し出されたのが、予選時のキャプテンだった鈴木啓太(浦和)だった。山本ジャパンの中盤は、は阿部勇樹(当時千葉)、森崎浩司(広島)ら複数ポジションのできる選手が多かったが、鈴木はボランチのスペシャリスト。その専門性が足かせになったのだ。しかし世界を戦う上で、鈴木啓太の闘争心はやはり必要不可欠だった。結果的にこの決断が裏目に出るなど、2004年7月中旬のメンバー発表時には指揮官自身も予想さえしていなかっただろう。

 山本監督にはさらなる誤算が続いた。絶対的な点取屋として期待していた高原の病気が再発したことだ。沖縄キャンプに参加した際には若い選手たちに刺激を与えていた彼の離脱は想像以上に影響が大きかった。加えて頼みの小野の合流が大会直前になってしまった。鈴木を外した以上、小野を軸にチームを再構成するしかなかったが、それだけの時間的余裕はなかった。本大会を前に突貫工事を余儀なくされた山本ジャパンは、準備不足という不安材料を抱えたまま、本番に入った。

 日本はパラグアイ、イタリア、ガーナと同組。初戦・パラグアイ戦はギリシャ北部の町・テッサロニキで行われた。那須大亮(当時横浜FM)がキャプテンマークを巻き、小野がゲーム全体をコントロールすれば、彼らは何とか戦えるはずだった。

 だが、極度のプレッシャーに見舞われた日本は試合の入り方を誤った。開始5分、那須がボール処理をミスし、走り込んできたパラグアイのエース・ヒメネスに至近距離から先制点を決められたのだ。那須はいつの間にかボールウォッチャーになっていた。これが五輪という大舞台の恐ろしさなのだろう。いきなりの失点ショックが癒えないうちに畳み掛けられ、日本は前半だけで3失点。小野のPKで1点を返したが、あまりにも苦しい45分間だった。後半に入って高松大樹(大分)が得たPKを小野が再び決め、1点差に迫ったが、パラグアイはどこまでも老練だった。FWトーレスが阿部のクリアミスを突いてミドルシュートを決め4点目を挙げたのだ。日本は大久保がもう1点を返して3−4にしたが、そこでタイムアップの笛。重要な初戦を黒星スタートという最悪のシナリオを余儀なくされた。

 劣勢をひっくり返すには、ボロスで行われた第2戦・イタリア戦で勝つしかなかった。しかし相手にはジラルディーノ(当時ミラン)にデロッシ(ローマ)、オーバーエイジのピルロ(当時ミラン)まで加えたドリームチーム。簡単に勝てるはずがない。そこで山本監督はパラグアイ戦で痛恨のミスを犯した那須を外し、公式戦では、ほとんどやったことのない4バックを採用する奇策を採ったのだ。

 しかし、現実はパラグアイ戦以上に残酷だった。開始わずか3分、イタリアは精度の高いクロスからデロッシが左足オーバーヘッドで目の覚めるような先制点をゲットする。その5分後にはジラルディーノがいとも簡単に茂庭照幸(当時FC東京)との1対1をかわしゴール。アズーリの決定力の高さに山本ジャパンは脱帽するしかなかった。

 4バックが失敗に終わった山本監督は19分に早々と徳永悠平(当時早稲田大)を下げ、那須を投入したが、この采配を見るだけで指揮官の慌てぶりがうかがえた。「世界基準」を合言葉にチーム作りを進めてきた指揮官だったが、「監督の方が世界基準を分かっていなかった」と揶揄(やゆ)されたほどだ。最終的に阿部と高松が1点ずつを返したが、ジラルディーノにもう1点を奪われ、2−3で完敗。2試合目で早くも1次リーグ敗退が決まってしまった。この展開は2001年ワールドユース(アルゼンチン)と全く同じだった…。

 最終戦のガーナ戦(ボロス)で一矢報いたのが、日本にとってせめてもの救いだった。この大会で初めて先発した菊地直哉(当時磐田)のロングパスにエース・大久保が反応し、頭で合わせて先制。この1点を守り切って、何とか勝点3をもぎ取ったのである。

 しかし、この勝利もノープレッシャーだったからこそ奪えた。選手たちの最後の粘りは評価できるが、指揮官は顔を曇らせたまま。「初戦の入り方が一番悔いが残る。早い時間帯の失点で守備陣が落ち着けなかったのが誤算だった」と話すのが精いっぱいだった。

 その指揮官自身の決断や采配が裏目に出続けたのも事実である。頼りしていた那須や徳永が大事な場面でミスを犯し、平山相太(当時筑波大学)も不調から抜け出せなかった。小野もチームになじむ時間が不足していて、完全に持ち味を出せなかった。準備時間がほとんどないままオーバーエイジを使うことの難しさを、アテネ五輪代表は露呈したといえる。

 そんな一方で、控えに回していた菊地や石川直宏(FC東京)が最後の最後で大活躍し、落選寸前といわれた松井大輔(当時京都)が創造性の高いプレーで数々のチャンスを作り出した。不運もあったが、それでも勝負の世界は厳しい。日本は敗者としてアテネの地を去るしかなかった。

 山本ジャパンが最終予選を勝ち抜いてから本大会まで得られた時間は4カ月。オーバーエイジを加えた合宿を最初に行ったのが6月だったから、今回のロンドン五輪代表よりは日程的に恵まれていた。関塚ジャパンは5月〜6月のトゥーロン国際トーナメントに出た後、7月11日に壮行試合・ニュージーランド戦を消化し、現地でメキシコ戦など2試合を含むの事前合宿をこなすという準備期間しか与えられていない。オーバーエイジを使うのはほぼ確定しているが、今のところは候補者をも明確になっておらず、本格合流できるのは7月だけだという。海外組にしてもトゥーロンと月の直前調整だけというタイトなスケジュールになる。それだけ時間がない中で、チームのまとまりや一体感をどう構築していくのか。アテネ五輪の二の舞になる可能性も大いにあるだけに、大いに懸念されるところだ。

 そしてキャプテンをどうするかも大きな問題だ。関塚ジャパンで予選時にキャプテンを務めたのは山村和也(鹿島)だったが、彼も鈴木啓太同様に落選の危機にひんしている。今のチームには強烈なリーダーシップを持つ権田修一(FC東京)がいて、アテネ五輪代表よりキャプテン離脱の影響は小さいかもしれないが、オーバーエイジが加わるとチーム内の力関係も微妙に変わる。そのあたりのバランスをいかに取るか。極めて難しい仕事を遂行しなければならない関塚監督には、アテネ五輪代表の事前準備の事例をしっかりと研究してもらい、ベストの策を講じてほしい。

記事提供:
速報サッカーサッカーEGhttp://sp.soccer24.jp/