信長に翻弄され、家康にハシゴを外され、秀吉に攻められても生き残る…長宗我部元親を支えた弟・親泰の実力
■元親をささえた弟・親泰
天正13(1585)年初頭までに四国の大部分を平定し、あと一歩で「四国一統」を成し遂げる寸前までいった武将が、長宗我部元親だ。

四国全土を手中にするのを目前にしながら天正13(1585)年6月、羽柴秀吉の侵攻を受ける。秀吉の軍勢は10万超。総大将は弟の羽柴秀長だった。
この四国征伐は、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」9月20日放送回で描かれた。番組では徹底抗戦か降伏かで苦悩する元親を秀長が懐柔し、最終的に元親が秀長に心を開き降伏するという脚色だった。
ただしこの戦い後、実際に元親は秀長を頼りとし、秀長もまた後見として長宗我部を引き立てた。
例えば天正14年12月、豊臣は九州の平定を巡り薩摩の島津と戸次川の戦いにのぞむ。長宗我部が参加したこの戦闘で、元親の嫡男・信親が討ち死にする。しかし秀長は息子を失った元親に報いるため、九州を平定した暁には長宗我部に大隅国(鹿児島県東部)を与えようと考えていたが、元親は固辞したという(和田裕弘『豊臣秀長』中公新書)。
一方の元親も秀長が没した天正19(1591)年、法要を催し、秀長を悼んだ(『蒲庵稿』/臨済宗の僧・古渓宗陳の語録集)。
両者には特別なつながりがあったのだろう。そして、元親の対外関係を支えた人物に、「豊臣兄弟!」の関連番組「長宗我部兄弟!」に登場した元親の弟・香宗我部親泰(こうそかべちかやす)がいたと考えられる。
■兄とは別働隊を率いた
香宗我部親泰は父・長宗我部国親の三男で、元親の同母弟にあたる。『土佐国古城伝承記』などに文禄2(1593)年に享年51(数え年)で没とあるため、逆算すると天文12(1543)年生まれになるだろう。元親の4歳下だ。
永禄元(1558)年、兄・元親の命令で土佐国香美郡(高知県香美市全域と香南市などの一部)の名門氏族・香宗我部の養子となった。香宗我部は親泰を迎えるにあたって家中の反対勢力を粛清したというから、血で血を洗ってまでも結びたい養子縁組だった。
長宗我部と香宗我部の合体は、乱世の土佐にあって勢力伸長に貢献した。強力な地盤を築いた元親は永禄12(1569)年、土佐東部の安芸氏を滅ぼし、親泰に安芸城(高知県安芸市)を与えた。親泰は「香宗我部安芸守親泰」を名乗る。
続いて阿波国(徳島県)へ侵攻する「軍代」として、海部城(徳島県海部郡)を拠点とした。
長宗我部の軍勢は元親が本隊(土佐軍)、親泰が別働隊(阿波軍)で、この2隊が交互に各地へ出兵し、つねに連携していたという(『長元記』)。
■国衆から信長まで、交渉を担う
親泰は外交に長けていた。親泰が中心にいただろうと考えられる外交文書をもとに、活躍を紹介したい。
日和佐氏は長宗我部の阿波侵攻に降伏した国衆だった。服属してはいたものの、いつ離反するかわからなかった。そこで親泰はつなぎ止めるため、立場を保証するとした書状を送り、元親の名で起請文も届けている。
元親が石谷頼辰(室町幕府末期の奉公衆)に宛てた書状。文中に元親嫡男が信長から「信」の字を賜ったことが記されている。この息子が信親だ。偏諱(へんき)を信長に依頼した人物が、親泰だったといわれる。
阿波の実力者・三好氏との仲介を信長に要望。これはつまり、阿波の領有を長宗我部に認め、三好を抑えつけてほしいと信長に頼むことを意味していた(山本大編『長宗我部元親のすべて』)。
これらの書状から見えてくるのは、領土を広げるだけでは支配は固まらない、という長宗我部兄弟の認識だろう。降伏した日和佐氏には立場の保証を示し離反を防ぎ、中央の信長には四国での勢力拡大を認めてもらおうとした。
親泰は、元親の意向を伝えるため自ら書状を送るにとどまらず、ときには元親の名代として安土城にも赴いている。足元の国衆をつなぎ止める折衝と、中央の有力者に働きかける交渉。その両方を担ったところに、兄を支えた親泰の働きが見える。
■本能寺で命拾い、次の敵は秀吉
ところが天正9(1581)年6月、信長は突然、親泰宛てに印判状を出し、阿波の統治は長宗我部と三好で協力しろ、つまり単独での支配を認めないと心変わりしてしまう。この指示に元親は難色を示した。関係は悪化し、信長は四国攻めの準備を進めることになる。
その矢先、本能寺の変が起きた。四国征伐は中止となり、元親と親泰は命拾いする。
だが、それもつかの間、次は秀吉が立ちはだかるのである。
長宗我部兄弟は本能寺の変の後、一貫して反秀吉の立場だった。この時期、親泰が関わった書状は20通以上あるというが、ほとんどが反秀吉陣営とのやりとりだ。その中から小牧・長久手の戦いに関連した2点を紹介したい。
「長宗我部勢には淡路島まで出兵し、西から秀吉の背後を撹乱してほしい」
「長宗我部が淡路出兵を引き受けてくれて、とても満足している」
つまり3月に信雄から、8月に家康から、それぞれ書状を受け取り、その間のおそらく6月頃に親泰が「出兵する」と、返信を書いていたとわかる。
ただし「出兵する」と返信はしたが、実行はしなかった。おそらく戦況の行方をうかがっていたのだろう。実際に兄弟は信雄・家康と連携する一方で、秀吉との和睦を模索していたらしい。


■家康と連携し、秀吉との和議も探る
『柴田合戦記』(秀吉と柴田勝家の戦いを記録した軍記物)に、次の一文がある。
・土佐では長宗我部元親が(赦し)を願ってきている。
ただしその後、こう続く。
・四国は奪い取って武功を立てたい者たちへの褒美として与えるように定めている(したがって元親は許さない)。
これと呼応するかのように秀吉が元親と交わした書状[天正11(1583)年末]が、『毛利家文書』に所収されており、そこにもこうある。
・伊予は毛利に渡す。
のちに元親が秀吉に降伏する際の「四国国分」で、伊予は毛利家の小早川隆景が領することになる。つまり小牧・長久手の戦いが始まる前から、秀吉は長宗我部に四国全土を支配させようなどと、考えていなかったのである。
親泰が信雄・家康との連絡役を担い、協力体制を築いていたことは数々の書状から確認できる一方、秀吉との和議にどこまで関わったかは確認できていない。それでも常に外交の中心にいた経験豊かな存在感を考えると、秀吉との意見調整にも主導力を発揮していたと見るのが妥当ではないかと、筆者には思える。
しかし、敵はさらに一枚上手だった。秀吉は小牧・長久手の戦いが長引くのを嫌がり、織田信雄に和睦を持ちかけ、信雄はあっさりのんでしまった。信雄が戦いをやめたからには、戦いを続行する大義は家康にない。家康も和議に応じる。
信雄・家康の誘いに応じていた長宗我部兄弟は、梯子を外される格好になった。さらに前述の通り、秀吉は四国を長宗我部に与える気などさらさらなかった。
■「土佐一国のみ」元親が呑んだ条件
大軍を率いて秀長がやって来たのは、天正13(1585)年6月。
元親はそもそも秀吉軍との合戦を望んではいなかった。本願寺の右筆・宇野主水が記録した『宇野主水日記』によると、
・長宗我部は和議を「渇望したが芸州毛利家より存分あり」(毛利の意向を秀吉が汲み)、「あい破れた」(和議が成立しなかった)
--とあり、その結果、羽柴軍が海を渡ることになったと記している。しかも戦闘が始まると、瞬く間に長宗我部の城が落ちていく。

もはや降伏しかない。焦点は降伏の条件に絞られた。
「豊臣兄弟!」9月20日放送回では、秀長と元親のあいだを長宗我部の家臣・谷忠澄が奔走し、粘り強く元親に降伏を説いた。忠澄の活躍は『元親記』(元親の一代記)にも記されている。
条件は、長宗我部を土佐一国に封じ、伊予・讃岐・阿波は召し上げるというもので、元親もこの条件をのむ。
■秀長が交渉相手に選んだのは誰か?
ただし前述の通り、この条件は天正11(1583)年12月、すでに通告されていた。秀吉・秀長からすれば、長宗我部がこの条件をいつ承諾するか、そのタイミングを待っていたわけで、谷忠澄は「いまそのタイミングを逃したら、もうあとはないですよ」と、駄目押しする役割だったと思う。
この場面で交渉すべきはそれ以外で、第一に人質--秀吉は元親の実子をふたり、家老からひとり、要求していた。第二に秀吉が、秀長が「許さない」と決めたなら皆殺しにしても良い。その際は自らが土佐に行き、元親の首を刎ねると、強硬だったのを翻意させることにある。
降伏にあたっては領地分割の件で元親に迫ることと、人質を差し出すこと、さらに秀吉に強硬策を撤回させること、それらをすべて満たす必要があった。この交渉を谷忠澄ひとりが担ったのだろうか。史料には見えないものの、長宗我部一門の重鎮・親泰が水面下で秀長と関わっていた可能性は十分にある。元親は8月19日、人質を差し出し戦いを終えた。
■宗家断絶、流浪の果てに救いの手
長宗我部兄弟の「その後」も紹介しよう。
香宗我部親泰は文禄2(1593)年12月21日、文禄の役に伴い渡航した朝鮮半島で死去した。
親泰の死は大打撃だった。何しろ元親に意見をいえるのは彼だけである。また悪いことに、元親はすでに50歳をこえており、さらに嫡男はすでになく、長宗我部は後継者選びに迷走した。そして、四男の盛親に白羽の矢を立てる。
慶長4(1599)年、元親が没すると、盛親は関ヶ原、大坂の陣で選択を誤り続け、敗者となって斬首される。ここに長宗我部宗家は断絶した。

一方、親泰の子・貞親(さだちか)は、盛親の一門ということもあり、土佐に留まることができず、堺に去って浪人となったのち、肥前唐津藩・寺沢氏に500石で仕えた。さらにここも辞し、江戸に浪居しているところを3代将軍・徳川家光の側近、堀田正盛に客分として招かれた。堀田に斡旋したのが春日局。長宗我部元親の妻が春日局の父・斎藤利三の縁者だったからである。
このとき、貞親45歳。長い流浪の旅の果てだった。
■土佐に残した財産
貞親の養子で家督を継いだ香宗我部重親は万治3(1660)年、堀田家が改易となったため、仙台藩の親戚を頼って同藩に士官する。この親戚が柴田外記(げき)--元親の娘・阿古姫の子である。なお、柴田を長宗我部盛親の実子とする異説もあるが、真偽は不明だ。
直系男子が断絶した長宗我部氏は、庶流の香宗我部の子と女系の子が仙台で再会。その後、重親が古河藩(茨城県)に移るなど紆余曲折を経ながら、血をつないでいく。
なお、香宗我部の一門に、中山田泰吉(なかやまだやすよし)・秀政(ひでまさ)の兄弟がいた。ふたりは土佐を離れず、関ヶ原の戦い(慶長5/1600)の後にやって来た新領主・山内家に仕える豪士となった。山内統治時代の土佐では、長宗我部旧臣の身分は低い。それでも、忠義者として重用されたと伝わる。
幕末、土佐豪士たちから武市半平太、そして坂本龍馬が出る。長宗我部の遺臣たちは、土佐に貴重な“財産”を残したといえよう。

参考図書
・平井上総著『長宗我部元親・盛親』(ミネルヴァ書房、2016年)
・山本大編『長宗我部元親のすべて』(新人物往来社、1989年)
・和田裕弘著『豊臣秀長』(中公新書、2025年)
河内将芳著『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版、2025年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
