今からちょうど100年前の1926(大正15)年、昭和への代替わり直前の10月。鳥取県の小さな町で、66歳の退職郵便局長が拳銃3丁を乱射し、親族ら9人を殺傷する事件が起きた。積もり積もった根深い恨みに金が絡み、感情を爆発させての犯行だった。

【実際の写真】親族ら9人を殺傷…凶行に及んだ元郵便局長

 何が彼を凶暴な大量殺傷に走らせたのか--。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全4回の1回目)

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 鳥取県のほぼ中央、東伯郡八橋(やばせ)町(現琴浦町)は日本海に面した町。1899(明治32)年に町制が施行され、人口は事件から10年後の1936年でも3735人(『鳥取県統計書』)。長い間梨の生産が全国一だった鳥取県の中でも主産地の1つだが、ほかには城跡や海水浴場があるぐらいの小さな町だった。

 事件発生は10月17日。その年に収穫された穀物を神に捧げる神嘗祭(かんなめさい)(当時の祝日)の夜だった。鳥取の地元紙・鳥取新報(日本海新聞の前身の1つ、以後、鳥取と表記、他紙についても同様)は18日に号外を発行。19日付社会面には号外用記事の再録と続報、その後の情報が“同居”している。号外用と続報を見る。

元郵便局長が起こした“一大惨劇”

〈 元八橋局長の慘(惨)劇 拳銃を振つ(ふるっ)て死傷者八名を出す 即死者一名原因不明

 17日午後9時半ごろ、東伯郡八橋町、元八橋郵便局長・中井國太郎(66)は同町、中井光蔵ほか4家に侵入。ピストルで中井為次郎の娘まつ(24)を即死させ、中井光蔵(31)、妻のぶ(35)、母ます(58)、戸田みさよ(19)、中井熊太郎(58)、妻とら(55)、錦織正之丞(71)の7人に重軽傷を負わす一大惨劇を演じた。〉


「八名殺傷」事件発生の号外と続報を載せた鳥取新報

ピストル3丁で親戚らの家を襲った

〈 八橋町の大慘劇 拳銃で八名殺傷 僅(わず)か二十分間に三戸を襲つて 犯人直ちに逮捕さる

 元八橋郵便局長・中井國太郎が6連発ピストル1丁、8連発2丁を携えて、親戚らの家を襲って即死1人、重軽傷7人を出す大惨劇を演じた事件は、予審に付されて詳しい続報は分からない。

 17日午後9時20分ごろ、國太郎が隣家の医師・中井光蔵方に乱入。ピストルを突きつけて右前額部に貫通傷を負わせ、次いで妻のぶを撃って右腹部に貫通傷を与えた。逃げ回るのぶの母ますに向かって乱射。右胸部と腹部に貫通重傷を負わせ、同家の看護婦・戸田みさよの左前額部に貫通傷を与えて同家を飛び出した。

 血に狂った國太郎は隣家の錦織正之丞方に至り、正之丞に発砲して左腕に擦過傷を与えたうえ、家に出入りする中井為次郎方に赴いた。為次郎の娘まつの右腹部に貫通傷を負わせて即死させ、逃げ惑う為次郎の妻まさに向かって乱射し、左前頭部に貫通銃創を負わせた。

 約一町(約109メートル)離れた分家の中井熊太郎方に至り、熊太郎に向かって弾丸を撃ち込んだうえ、格闘となって人差し指をかみ切り、妻とらの左胸部に貫通重傷を与えた。急報に接した八橋署員が駆けつけて國太郎を取り押さえたが、この間わずか20分だった。〉

おとなしい人間だったが…

 西部劇さながらのすさまじい乱射劇。予審とは当時の司法制度の一環で、予審判事が調べて有罪となれば本裁判に持ち込まれる。記事は続く。

〈 原因については目下、児玉検事、近田予審判事が取り調べ中で、詳細を知ることはできないが、かねて國太郎は親族と不仲で、常に恨みを抱いていたらしい。國太郎は平素はおとなしい人間だったが、何かに激してこの大惨事を行ったとみられる。凶器のピストルのうち1丁はかねて護身用に許可を得ていたこともあるが、現在は期限切れでいずれも無許可。

 國太郎の家は最近不運続きで、娘が離婚されて(國太郎は)老いの身を悲観していたところ、最近、郵便局長の交代問題が起きていた。それらが原因とも思われるが、このような大惨劇を起こす理由としてはあまり薄弱だという。(特派員発、八橋電話)〉

 小さな町にとっては空前の大事件。「特派員発」とあるが、記者が駐在していたわけではなく、警察にも顔が利くような事情通の地元住民に普段から情報提供を依頼していたと思われる。他紙も同様だろう。当時の新聞社会面の性格もあり、警察筋の未公開情報だけでなく、街のうわさや個人的な悪口など、さまざまな不確定情報が記事になった。

妻同士の仲が悪かった?

 鳥取の記事は「加害者と被害者の妻君は姉妹同志(士)でありながら平生仲悪 被害者の一人とは二十年の宿怨」の中見出しを入れて一族内部の関係を記す。

「被害者中井光蔵の妻のぶと加害者國太郎の細君(妻)とは姉妹同士でありながら、普段から非常に仲が悪かった。また、被害者の1人である錦織正之丞との間にも20年前からの恨みがあるということだが、詳細は不明」。

 さらに「被害者また死亡」の中見出しの後には「中井光蔵の妻のぶは18日午前11時40分、ついに死去した」との続報が。死者は2人になった。

 鳥取は見出しを「8名殺傷」としているが、本文を読めば9人殺傷。もう1つの地元紙・因伯時報(因伯、日本海新聞の前身の1つ)をはじめ、隣県・島根県の松江市で発行されていた山陰新聞(山陰)、松陽新報(松陽)=いずれも山陰中央新報の前身、大阪発行の大阪朝日(大朝)、大阪毎日(大毎)は全て「9人殺傷」でそろっており、鳥取新報も翌日から「9人殺傷」に変わる。

 時事新報が大阪で発行していた大阪時事のみ当初「10人殺傷」とした。警察の正史である『鳥取県警察史第1巻』(1981年)も文中は「2名殺害、6人重傷」としているが、記述を集約すると9人殺傷になる。なお『鳥取県警察史第1巻』は関係者全員を仮名にしている。

 犯行に至る経緯について同じ10月19日付山陰朝刊は「救済を拒絶した親族を鏖殺(おうさつ=皆殺し)」の中見出しで次のように書いている。

〈 犯人國太郎は同地の門閥家(格式の高い旧家)で相当資産もあり、長い間、同地の郵便局長を務め、裕福に暮らしていた。だが、最近株に手を出して失敗し、そのために先月上旬、郵便局長を辞職した。

 國太郎は急場を切り抜けるために親族に救済を懇願したが、全て拒絶されたのでカッとなり、いっそ親族を皆殺しにして自分も死のうと考えて護身用のピストルを持ち出し、機会を狙っていた。被害者9人のうち、熊太郎ととら以外はいずれも瀕死の重傷(八橋電話)〉

いつか恨みを晴らそうと

 同じ日付の大朝の続報は「八連發(発)と六連發で三十發を發射 反目から局長の争奪」の見出しで次のように伝えた。

〈 最初に銃撃された中井光蔵の妻のぶは左腹部を撃ち抜かれ、18日午前11時40分死亡し、看護婦・戸田みさよは腰に盲貫銃創(銃弾が体内にとどまっている傷)を受け重体。聞くところによると、國太郎と被害者たちは以前から不仲だったが、徐々に露骨になっていた。國太郎は株の失敗その他の事情で郵便局長を辞めなければならなくなったため、名古屋で会社員をしている息子を後任にしようと計画していた。

 それに対し、被害者の1人、中井熊太郎が異論をとなえ、2人の間にはかなり激しい局長争奪戦が演じられていた。結局、別の人間が後任に就任することが決定。16日に事務の引継ぎを終えた。

 株に失敗、後任局長選びでも負け、親族からは疎んじられて自暴自棄に陥った國太郎はいつかこの恨みを晴らそうと機会を狙っていた。長年自分が経営していた郵便局が人手に渡った17日は居ても立ってもいられず、その晩の夕食に、いつもは飲まない酒を1合半ほどあおり、その勢いを駆って大惨劇を演じた。〉

「人殺し」女の悲鳴が次いで起こった

 大朝の記事は逮捕後の國太郎について「極度に興奮した國太郎は検事の取り調べに対して口を閉じ、まだ何も語らない」とした。同じ10月19日付因伯の記事の書き出しは「時しも(折しも)晩秋のものすごい断雲(ちぎれ雲)に包まれた月光を浴びつつ、地方にはかつて見なかった、聞いただけで戦慄させる一大凶行事件が突発した」。さらに「兇行者狂ひ(い)飛び 悲鳴各所に起る 全町民をして恐怖せしむ」の中見出しで現場周辺の雑観を記述した。

〈 平和な海浜の八橋町に起こった未曾有の殺人事件について、加害者の自宅付近の町民は顔面にまだはっきり恐怖の色を漂わせながら語る。

「ピストルの音が50~60発連続的に起こって、何事だろうと思ってびっくりしていますと、『人殺し~』という、絹を裂くような女の悲鳴が次いで起こった。加害者は20年間郵便局長を務めた人だったが、あまり付き合いはなかった。どちらかといえば、神経過敏らしい人だった。何か平素のうっぷんが突発的に爆発したのだろうと思われる」〉

「鬼熊事件」の影響?

 これと同じ記事は19日発行20日付山陰夕刊にも載っており、両紙の間で提携があったのか、あるいは通信社の配信か。さらに因伯は、「加害者國太郎は平常憂鬱な性質で熱しやすく、地域では一流の紳士でありながら、にわかに心情の急変から鬼熊のような犯行をあえてするに至ったのではないかとうわさされている(八橋電話)」と書いた。

 この記事もやはり山陰に掲載されているが、興味深いのは「鬼熊」が登場すること。10月20日付大朝朝刊山陰版も「九人殺傷-八橋の惨劇」の連載記事の第1回に「『鬼熊』から思ひ(い)付き」の中見出しを立ててこう書いた。

「(國太郎は)『自分の狙っている8人に対して、もし一度に復讐ができなかった時には、その場を逃げ出してどこかに逃れ、最後の目的を果たすまでは付け狙う考えだった』と自供している。これは千葉県で起こった例の鬼熊のやった方法から思いついたものである」。

鬼熊、治安維持法…当時の時代背景は

「鬼熊」とは--。2カ月前の1926年8月20日、千葉県香取郡久賀村(現多古町)で、荷馬車引きの岩淵熊次郎が親しかった女性ら2人を殺害して逃走。追跡した警察官も殺害し、毒物を飲んで死亡するまでの42日間、大量の警察官を動員した警察の捜査を振り回した。連日大々的に報道され、「鬼熊」の名前は全国に知れ渡った。國太郎もそれを知り「鬼熊」にならったという見方だ。

 当時の日本は3年前の関東大震災からの復興を目指す中、昭和恐慌を先取りした不況が進行。農村では小作争議、都市では労働争議が頻発していた。前年の1925(大正14)年には、25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が公布され、軍国主義の足音が響き始めていた。

 大正最後の年となったこの1926年は大阪・松島遊郭をめぐる贈収賄事件と、大逆罪に問われた朴烈と金子文子夫妻の怪写真事件が世間を騒がせ、政局は政友会と憲政会の2大政党が権謀術数をめぐらす泥仕合。国民の間には現在にも似た閉塞感が広がっていた。そんな中、「権力の大捜査陣を1人で翻弄した鬼熊」は当時の人々に一種の爽快感を与え、さまざまな形で影響を及ぼした。(つづく)

「なぜお父さんは死んでくれなかったの」妻と娘は涙ながらに…八橋9人殺傷事件・エリート郵便局長が陥った“2500万円の借金”と一族の確執〉へ続く

(小池 新)