【舘ひろし・芸能生活50周年インタビュー】忘れられない松田優作さんの言葉「35ミリを埋められる俳優さんだな」 渡哲也さんと勝新太郎さんが見せたそれぞれの“優しさ”
石原裕次郎、勝新太郎、そして渡哲也……伝説的な師から多くを学び、俳優として活躍してきた舘ひろしが、芸能生活50年の軌跡を語る──。舘は、松田優作が本格的なアクションに挑んだ作品として知られる映画『暴力教室』で、松田が演じる教師と対峙する生徒役として俳優デビューした。デビュー当時の思い出、渡哲也と勝新太郎との親交について語ってくれた。(文中敬称略)【全3回の第1回】
松田優作にかけられた言葉
今年、芸能生活50周年を迎える舘ひろしは、映画でデビューし、フィルムで育った俳優である。
「僕のデビューは松田優作さんと共演した『暴力教室』(東映)です。僕は不良生徒で、ボコボコにされる役だったんですけど、ラグビーをやっていたので、ぶん殴られて転ぶのは平気でした」
この作品で優作は高校教師を、舘は生徒を演じているものの、優作は1949年、舘は1950年生まれなので2人の年齢差は1歳。ただし、デビューは優作の方が3年早い。
「撮影所近くの喫茶店で一緒にお茶を飲んだとき、松田さんに『舘さんは35ミリを埋められる俳優さんだな』と言われたんです。僕は映画は初めてだったし、この人は何を言っているんだろうと。意味はまったく分からなかったけど、松田さんの言葉は鮮明に覚えています」
いまや優作が予言した通りの存在感を放つ俳優になった舘だが、当時の彼に俳優を長く続ける意思はなかった。
「その頃はクールスという暴走族の仲間がいて、彼らを食わせるのはどうしたらいいんだろうと考えていた時期で、バイク屋とか引っ越し屋とか、何かちゃんとした仕事をやらなくては、と色々考える一環で映画に出演した気がします。とりあえず、お金を貰えれば、みんなで旨いものが食えるので。ただ、アクションだけはやっていて楽しかったですね」
この時の舘は26歳。千葉工業大学工学部建築学科の4年生だった。
「父が医者なので、自分も家業を継ぐことが運命のように思っていたのですが、医学部の受験に失敗したんです。そもそも実家の舘家は元々が士族で、家屋は古い武家造りでした。ただ、祖父が英国かぶれで、英国紳士を模範としていたので『男子たるもの常に紳士たれ』と教えられました。自己犠牲の精神ですね」
映画デビューしてから大学は休学状態だった。籍が残っていたのは、母親が密かに授業料を払い続けてくれたおかげだ。
「32か33歳くらいまでかな。退学したのは、『西部警察』(テレビ朝日系)に出演していた頃です」
渡哲也と勝新太郎の「優しさ」の違い
それまで東映を中心に映画出演を重ねてきた舘は、テレビドラマ初出演となる『西部警察』で渡哲也と出会う。
「あるとき、渡さんが『おまえには華がある』と言ってくれたんです。俳優として初めて褒められたので、凄く嬉しくて。ただ、演技については『芝居がうまくなってはダメだ』と注意されましたが」
渡の人間性に惹かれた舘は1983年、石原プロに所属。以降、渡と舘の40年近い親交が続く。
「渡さんの優しさは分かりやすいんです。例えば、雨が降っているときに1本の傘を差すのなら、渡さんは『一緒に入ろう』と言ってくれる。だけど、勝(新太郎)さんは違います。僕が傘を差し掛けたら、勝さんはそのまま歩いていく」
勝新太郎は、石原裕次郎と親交が深く、互いに"兄弟"と呼び合う仲だった。石原プロで勝を接待する役目を任されたのが舘である。
1987年9月、裕次郎の納骨式が行われた日のこと。雨が降る中を寺の本堂から墓地まで関係者たちが歩いて行く。まき子夫人、渡のあとに勝が続いた。
「沿道に並ぶ人たちが見守る中、勝さんは僕に『今度、おまえと2人で映画を作りたいな』と話しかけてくる。傘を差し掛けた僕は『いいですね』とか答える。雨に濡れている僕の姿を周囲の人に見せることが、勝さんの優しさなんです」
表面だけを捉えれば、大スター勝新太郎が、舘を従えて威張っているように映る。だが、勝は裕次郎亡き後、石原プロを渡と共に支えていく舘の礼儀正しさ、誠実さ、そして格好良さを衆人に示したかった。たとえ自分が悪役になってもだ。
「勝さんにも本当に可愛がっていただきました」
(第2回につづく)
【プロフィール】
舘ひろし(たち・ひろし)/1950年3月31日生まれ、愛知県出身。1976年、映画『暴力教室』(東映)で俳優デビュー。『西部警察』『あぶない刑事』シリーズをはじめとする映画やドラマ、歌手業などで幅広く活動。今年、芸能生活50周年を迎えた。
取材・文/松田美智子(作家) 撮影/西條彰仁、ヘア&メイク/岩淵賀世、スタイリスト/中村抽里
※週刊ポスト2026年9月25日・10月2日号
