「京都新聞の女帝」と元社長が交わした恐るべき「密約」…そして社内を切り裂いたクーデターは起きた

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京都新聞には女帝と元社長の間で交わされた「密約」があった。しかし元社長の死後、クーデターが発生、白石家の会社支配が進んでいく。

【前編記事】『「えらいことになりましたで…」京都新聞現職社長が青ざめたあの日…社内を恐怖に落とし入れた「女帝の血縁支配」』よりつづく。

白石家の権威の正体

白石家の権威とは、そもそも何だったのか。時計の針を1972年まで巻き戻す。

浩子の養父・白石古京が、戦後の京都新聞を地方有力紙へと押し上げたことは第1部で紹介した。地方紙の経営者として日本新聞協会会長を務めたのは彼ただ一人である。

古京が「社主」という地位に就いた背景には、大株主というだけでなく、中興の祖として京都新聞を率いた新聞人としての実績があった。

だが、古京には、事業の後継者となる嫡出の男子がいなかった。

'72年3月31日、白石家では相次いで養子縁組が行われた。古京の実子ながら、それまで郡姓を名乗っていた英司と、その妻・浩子。さらに、古京の養女・千代子の夫だった津田雪翁も白石家へ入った。

複雑な家系の中に、複数の「白石」が生まれたのである(上図参照)。

雪翁の長男・白石方一は当時12歳だった。

「僕自身も、小学校6年生までは『津田』を名乗っていた。小学校を卒業して、中学へ行く時に『白石』になりました」

方一は幼い頃、京都市北区の家で古京と暮らした。

古京が会社のエレベーターに乗れば、社員が一斉に姿勢を正す-、そんな祖父の威厳を何度も聞かされたという。父・雪翁も京都新聞で、営業畑を歩み、後に会長を務めた。

白石姓を継いだのは、英司一家だけではなかった。

ところが、二つの家系が同じ力を持ったわけではない。

古京が持っていた京都新聞株は英司側への承継が進み、'82年には300万株が、英司が理事長を務める日本文化財団へ無償譲渡された。

こうして、白石家の事業承継は英司を中心に固まりつつあった。

方一は、英司・浩子一家との関係についてこう振り返る。

「『白石家として一緒にやっていこう』というようなことではなかったですね。株は英司さんが持ってはりましたから。京都新聞の経営は全部向こうがやっておられるという形でしたね」

女帝が交わした「確約書」の中身

だが、英司を中心に固まりつつあった白石家による事業承継は、'83年1月、本人の急死によって崩れた。

英司が遺したのは、京都新聞の社長という地位だけではない。子会社・KBS京都には100億円に迫る簿外債務が遺され、その処理をめぐって、後に許永中や山段芳春らフィクサーまで入り込む混乱が始まった。

一方、英司の死後、株式と資産を引き継いだ浩子は、京都新聞の会長に就いた。だが、自ら経営指揮をとろうとはしなかった。

当時を知る京都新聞の幹部OBは、先輩の取締役から聞いた話として、こんな逸話を記憶している。

英司が亡くなった後、経営陣が浩子に「あなたが社主になったらどうですか」と打診した。だが浩子は、「新聞社の社主なんて私に務まるはずがない」という趣旨で断ったという。

その話を伝えた取締役は浩子を褒めていた。

「浩子も、まあ、なかなかのもんやで」

自分にできることと、できないことを分かっている-という意味だった。

浩子は自ら会社を代表する立場には立たない。一方で、英司から引き継いだ株を背景に、影響力を保持し続ける。

その関係を形にしたのが、'85年6月3日に浩子と当時の社長・坂上守男の間で交わされた「確約書」だった。

文書は一方で、浩子側に「資本と経営の分離」を求めた。同時に、坂上には経営・人事全般について浩子の「意思を体して」職責を果たすことを求め、白石家の地位に対抗する勢力が現れれば、その「抑制・排除」に尽力することまで記していた。

実務経営は坂上に任せる。しかし、株主としての白石家の地位は守る。ここに、その後の京都新聞を規定する奇妙な構図が生まれた。そして、確約書を交わした坂上が経営の第一線から退く'03年6月前後になると、増田・寺井の存在感が強まっていった。

その兆候は、すでに同年2月に表れていた。

「お別れ会」で企図されていたクーデター

のちに社長となる山内康敬は、当時、労働組合委員長として、社長の野村、専務の増田との労使懇談会に臨んだ。

京都新聞本社南館5階の役員室で、楕円形の机を囲み、7名ほどの組合員と、経営側の野村・増田が向き合った。労使交渉とは異なり、意見や情報を交換する和やかな懇談

の場のはずだった。

だが、山内は思わぬ光景を目の当たりにする。

久御山の印刷工場の建設についてお尋ねしたい」

話題は、新聞の多ページのカラー印刷に対応する最新鋭の高速輪転機を備えた京都・久御山の新工場建設だった。

新聞広告はすでに下り坂にあった。新工場を歓迎する声が社内にある一方、労組側には、経営環境が悪化するなかで巨額投資に踏み切ることへの懸念もあった。

経理畑を長く歩み、京都新聞の台所事情を知り尽くしていた野村は、こう答えた。

「うちにはそんなことをやる体力はない」

その瞬間、専務の増田が野村の言葉を遮るようにこう言ったという。

「皆さん、それでいいんでしょうか。このまま新聞が苦しくなるのを待つのではなく、こちらから新しい新聞づくりをしていく必要があるんじゃないでしょうか」

のちにこの印刷工場は、その過大な設備能力から社内で「戦艦大和」と呼ばれるようになる。だが、この時点で山内らが驚いたのは、設備の是非以上に、社長と専務の経営方針が真っ向から食い違ったことだった。

山内ら労組委員はただ目を丸くして、顔を見合わせるしかなかった。

翌'04年5月11日、坂上がこの世を去った。6月14日に京都宝ケ池プリンスホテルで開かれた「お別れの会」には1800人が参列した。番頭として長らく坂上に仕えてきた野村は、弔辞を読みながら号泣したという。

関係者によれば、「お別れの会」の前には、冒頭の「クーデター」の準備が進んでいたとされる。「増田がホテルの一室に取締役を呼び込んでいた」との証言もある。

同日に開かれた取締役会で野村は相談役に退き、増田が社長に、寺井が専務に就いた。

こうして、坂上と浩子の間で保たれてきた「資本と経営」の均衡は崩れ、白石家の外戚が経営の前面に立つ体制へと移った。

それは何のためだったのか。

女帝の長男が写真部に配属され……

クーデターが起きる6年前、一人の若者がカメラマンとして京都新聞に採用された。

イギリス留学の経験はあったが、最終学歴は高校卒業だった。当時、新聞社の採用では大卒が一般的だった。

白石京大。古京の孫であり、英司と浩子の間に生まれた長男だった。

京大は写真部に配属され、やがて販売部門へ異動していく。社員たちの目には、その人事は将来の経営を見据えたものと映った。

浩子が次代へ引き継ごうとしていたのは、株だけではない。京都新聞の経営権そのものを子に渡そうとしたのだ。

'04年、増田と寺井が経営の前面に立ったことで、その道は開かれたかに見えた。

だが、新体制の発足から1年もたたないうちに、その構想は最初の破裂音を響かせることになる。

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(文中敬称略・以下次号)

取材・文:藤岡雅 (ふじおか・ただし)/'75年、福岡県生まれ。編集プロダクションを経て、'05年12月より週刊現代記者。キヤノンをめぐる巨額脱税事件など経済分野を幅広く取材。'21年に『保身 積水ハウス、クーデターの深層』(KADOKAWA)を出版

週刊現代」2026年9月14日号より

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