ステージで演奏するはっぴいえんど。中央でアコースティックギターを手に歌う大滝詠一

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 幅広い世代から支持され続けるシンガーソングライターの大滝詠一が、今、あらためて注目を集めている。大滝のレーベル「ナイアガラ」が2025年に50周年を迎えたことも大きいが、今年に入ってもその勢いは止まらない。3月に大滝のTシャツや書籍などグッズを販売する「NIAGARA POP UP STORE」が東京・御茶ノ水のRITTOR BASEで開かれたほか、昨年開催された一夜限りのプレミアムコンサートのブルーレイが6月に発売、これに合わせて東京、大阪、名古屋でライブフィルム上映の記念イベントも開催された。

 日本の音楽業界に大きな足跡を残した大滝。デビュー・アルバムを制作した音楽プロデューサーの三浦光紀氏、大滝と共に「ナイアガラ」を立ち上げたフジパシフィックミュージックの朝妻一郎氏ら関係者に、その才能を改めて語ってもらった--(はっぴいえんど在籍時や作曲・プロデュース時の名義は「大瀧詠一」だが本稿では大滝に統一、作品名などは原表記に従った)。

ステージで演奏するはっぴいえんど。中央でアコースティックギターを手に歌う大滝詠一

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「難解」「地味」と思われたはっぴいえんど

 1970年8月。アジア初の国際博覧会「日本万国博覧会」が大阪で開催されているそのさなかに、岐阜県の椛の湖畔では、「第2回全日本フォーク・ジャンボリー」が8日と9日にわたって行われ、2日間で全国から8,000人を超えるファンが詰めかけた。

 出演アーティストは、赤い鳥、五つの赤い風船、遠藤賢司、岡林信康、加川良、斉藤哲夫、杉田二郎と一億分の4、ソルティー・シュガー、高田渡、六文銭、はしだのりひことマーガレッツら50組超。その中に、「はっぴいえんど」もいた。

 改めて述べるまでもないが、ボーカルを務めた大滝詠一のほか、メンバーは後に世界を席巻したYMOの細野晴臣、日本を代表する作詞家である松本隆、そして世界的ギタリストの鈴木茂の4人である。

 彼らは、このイベント開催の3日前に、日本で最初のインディーズ・レーベルとして知られたURC(アングラ・レコード・クラブ)レコードからアルバム「はっぴいえんど(通称=ゆでめん)」を発売したばかり。いわば「フォーク・ジャンボリー」は、実力を示す大舞台であり、ステージでは「12月の雨の日」「春よ来い」「かくれんぼ」などを披露。さらには岡林信康のバックバンドも務めた。

 だが、彼らの音楽に「難解」「地味」という印象を抱いた観客もいたようだ。

「存在感は確かにありましたけれど……岡林のバックで迫力のある演奏は評価が高かったものの、はっぴいえんどとしては、当時のフォーク・ファンには素直に受け入れられていなかったかもしれません」(当時を知る関係者)

 一方で、「新しい和製ロック」として注目する音楽関係者もいた。その1人が、キングレコードに入社して3年目の三浦光紀氏だった。当時26歳の三浦氏は出演アーティストのライブ録音を会場で引き受けていたが、はっぴいえんどのステージに、これまで味わったことのない衝撃を覚えたという。

 すぐにURCレコードに連絡をとり、彼らの2枚目のアルバムを担当させてほしいと説得。これが「風街ろまん」につながった。

 担当するにあたり、「難解」とされたはっぴいえんどを理解してもらうためにはどうしたらいいのかという課題があった。たどり着いた答えが大滝のソロ・アルバム。「はっぴいえんどの大衆化につながる」と考え、企画したという。

「メンバーの中で大滝さんが一番ポップだったのです。次に細野さん、最後に茂さんと考えました。ところが大滝さんは、当初、シングル盤6枚を毎月出し、それをまとめてオムニバス・アルバムにしたいと言い出したんです。2枚のシングル盤を立て続けに出したのですが、宣伝部の担当者から『宣伝が追いつかない』と言われましてね。結局は断念し、オーソドックスな形で大滝さんのデビュー・アルバムを出すことになりました」(三浦氏)

 レコーディングは東京・目黒のモウリスタジオ(現モウリアートワークススタジオ)で行われた。

「モウリスタジオを使ったのは、日本初の16チャンネルの機材が導入されたばかりだったことが大きな理由でした。結果的に、日本人アーティストで最初に16チャンネルで録音したのは大滝詠一となりました。しかも日本人アーティストで最初にCDを出したのも大滝さんだったのです」

 かくして72年11月25日発売されたデビュー・アルバム「大瀧詠一」は、「恋の汽車ぽっぽ」「空飛ぶくじら」など、大滝らしいポップな曲ばかりではなく、ストリングスを効果的に使ったバラード曲の「乱れ髪」など、アメリカンポップ感のある楽曲も収録された。発売したのは、その年の4月にキングレコード内に三浦氏が発足させたばかりのベルウッド・レコードだった。はっぴいえんどの他、小室等、高田渡、あがた森魚、細野晴臣、はちみつぱいなど日本ロックの歴史に残る作品を次々と生み出したレーベルである。

CMソングをやりたい」

 その後、「CMソングをやりたい」と言い出した大滝は、CM制作会社「ON・アソシエイツ」の大森昭男氏と知り合う。宣伝用楽曲候補の中から「表通り」(その後「ウララカ」と改題)を聴いた大森氏は、瞬時に「これからは大滝さんで行こう」と言ったという。

「ソロ・アルバムを72年出したものの、大滝は、73年、74年と自身のアルバム制作をしませんでした。その代わりか、CM音楽に全力をつぎ込んでいましたね。そのキッカケとなったのは、大森さんが大滝に依頼したアサヒビールの人気商品『三ツ矢サイダー』のCM曲だったと思います」(当時を知る音楽関係者)

 その曲とは「三ツ矢サイダー'73」のこと。当時、大森氏は「資生堂ディスカラー」「資生堂サマーローション」「日立キドカラー ポンパ」「グリコ コメッコ」「ブルボン ココナッツコーン」「三菱電機 JEAGAM」など、十数本のCM曲を大滝に依頼したという。だが、クライアントの覚えはめでたくなかった。

「まだ世間は大滝のことをよく知らず、中には楽曲の差し替えを言い出すクライアントもあったようです。実際に『資生堂サマーローション』のCM曲はボツになり、『サイダー73』もボツになりかけたとも聞きます。けれども、大森さんが大滝の作品をCMに使うことにこだわったからこそ、その後の大滝サウンドに結びついた側面はあるのではないでしょうか」(前出の音楽評論家)

 実際、大滝自身が「大滝ポップスの最初の完成作品」と自負したのが「サイダー74」だった。自著「オール・アバウト・ナイアガラ」(81年=八曜社刊)に〈(この曲には)“はっぴいえんど”も、2年後の『夢で逢えたら』、6年後の『ロング・バケーション』も、全てが含まれていると思います〉と記している。

「『サイダー74』は、伊藤アキラが作詞し、大滝は多羅尾伴内と言う別名で曲を書き下ろした曲ですが、ドラムを林立夫、ベースが細野晴臣、キーボードが松任谷正隆、ギターが伊藤銀次、さらに山下達郎がハーモニカで加わり、コーラスがシュガー・ベイブとシンガーズ・スリーと、実に豪華なメンバーでした。大滝が目指していた“ナイアガラ・サウンド”はこの曲で産声をあげたと言っていいかもしれません」(音楽関係者)。

 ちなみに山下達郎が作曲した「サイダー76」を除く「サイダー77」まで、大滝は同シリーズを担当。また、多羅尾伴内と言うペンネームは、大映・東映のミステリー映画「七つの顔を持つ男」シリーズ主演の片岡千恵蔵扮する探偵の名に由来する。エンジニアをするときの別名に、笛吹銅次というものもある。

そして「ナイアガラ」設立

 日本の音楽業界には、75年に小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるが新しいレコード会社「フォーライフレコード」を設立するなど、新たな流れが生まれていた。フォーライフ設立にも陰で尽力した三浦氏は、ベルウッド・レコードを辞め、株主兼・小室等のプロデューサーとしてフォーライフに参加。その後は「日本フォノグラム」(現ユニバーサルミュージック)に移籍し、矢野顕子や喜納昌吉などを世に出し、さらにジャパン・レコード(現徳間ジャパンコミュニケーションズ)を設立している。

 そんな時期に大滝が立ち上げたレーベルが「ナイアガラ」だった。手がけたCMソングをレコード化しようと考え、自らの楽曲を管理していたフジパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)の朝妻一郎氏(現名誉会長)に相談したという。

 三浦氏が当時を振り返る。

「当時の音楽関係者で大滝さんの作品を本当に理解してくれていたのが、朝妻さんと『オールナイトニッポン』のプロデューサーだった亀渕昭信さん(元ニッポン放送社長)でした。ですから、僕が最初に大滝さんを手がけた時に楽曲管理をお願いしたのも朝妻さんだったのです。大滝さんは朝妻さんを心底、信頼していましたからね」

 有力な理解者に恵まれてはいたが、当時について大滝本人は、「誰からも相手にされない状態だった」と後日談で語っている。

〈確かにテレビではオン・エアーされていると言う効果はありましたが、それが大滝個人の音楽活動に結びつくものではなかったのが残念なことでした〉(「オール・アバウト・ナイアガラ」より)。

「ナイアガラ」の発足に向けて各方面との交渉に動いた朝妻氏に興味を示してきたのが、拓郎や泉谷を抱えていたフォーク系のインディーズ・レコード会社「エレック・レコード」だった。大滝本人は気乗りしなかったとも伝えられるが、ともかく同社と契約を結んだことで「ナイアガラ・レーベル」は本格的に産声を上げることになった。

 そして、記念すべき第1号のアーティストとなったのが山下達郎率いるシュガー・ベイブだった。75年4月25日にデビュー・シングル「DOWN TOWN」とアルバム「SONGS」を同時発売すると、そのおよそ1ヶ月後には、大滝の念願だった「サイダー73」「74」「75」などCMソングも収録された2枚目のソロ・アルバム「ナイアガラ・ムーン」が発売される。

 ところが、レーベル発足の矢先も矢先、エレック・レコードが放漫経営で倒産してしまう。暗礁に乗り上げてしまったナイアガラだったが、日本コロムビアが手を差し伸べ、新たに76年にレーベル契約が成立。当初の契約内容は「3年で12枚のアルバム制作契約」だったという。

 また、79年には日本コロムビアの契約が終わってしまう。再びフリーの状態になっていた大滝に声をかけたのが、朝妻氏だった。本人が当時を次のように振り返る。

「われわれ音楽出版社の仕事は、いい作品を、どうプロモートしていくかが重要ですからね。改めて確認してみると、大滝さんはどことも契約していないと言う。そこで真っ先に『CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)にお願いしよう』と思ったのです。道理で言えば、われわれの系列であるキャニオン(現ポニーキャニオン)だったのかもしれませんが、大滝さんの作ろうとしている音楽とはギャップが大き過ぎる。で、私は、大滝さんの才能を引き出すならソニーしかないと思ったのです。出す以上は売れなきゃしょうがないですからね」。

制作費は通常の4~5倍

 こうして81年、大滝はCBS・ソニーと正式に契約。「A LONG VACATION」が3月21日に発売された。当時、CBS・ソニーで制作宣伝の担当役員だった稲垣博司氏(現音楽プロデューサー)が苦笑いしつつ語る。

「大滝君は野球から落語、相撲、何でも詳しかったんだけど、僕が思うに映画が一番詳しかったかな。で、話をしていたら、映画会社は東宝が一番好きだと。で、CBS・ソニーはイコール東宝だって言い出した。やっぱり明るいイメージでお金を持っていることが彼にとっては魅力だったのでしょうね。だから楽曲を出すならソニーだと思っていたんじゃないでしょうか。実際、いざ始めたら彼の音楽制作費は莫大でした。通常の4~5倍はかかったんじゃないかな。今だから言えますが、他では出来ませんよ。結果的にウチでよかったわけです」

 社内からは高額な制作費に疑問を呈する声もあったというが、稲垣氏は「いいものを作るだけじゃなく、新しいノウハウも得られる」と周囲を説得したという。

 初回出荷は3万5,000枚だった「A LONG VACATION」は、最終的にはミリオン・セールスとなった。

「コンスタントに売れ続けた結果です。オリコン・チャートでアルバムは1年を通して100位以内にランクし続けたほどですからね。セールスのうち40万本はカセットテープで、売上の3分の1を占めました。このアルバムを車の中で聴きたいと思った人が多かった。ドライブ・ミュージックとして抜群の人気を誇りました」(稲垣氏)。

 以降、80年代から90年代に大滝は多岐にわたる作品を手がけるようになる。太田裕美「さらばシベリア鉄道」や松田聖子「風立ちぬ」、森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」、薬師丸ひろ子「探偵物語」「すこしだけやさしく」、小泉今日子「怪盗ルビィ」、さらには、木村拓哉と松たか子が共演したフジテレビ「ラブジェネレーション」の主題歌「幸せな結末」など……演歌からポップスに至るまで次々にヒット曲を生み出していった。

急遽、両A面に

 井上陽水「少年時代」(共作)や松田聖子「瑠璃色の地球」などを手がけたことで知られる作曲家の平井夏美氏は、大滝を「作曲家になるキッカケを作ってくれた人だった」と評する。実は「ナイアガラ」の所属作曲家の第1号だったのだ。

「大滝さんが松田聖子の『風立ちぬ』を書き上げた時のことです。当時は新曲が出ると、まず『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)で歌うことになっていました。聖子もデビューから毎回、出演していた音楽番組なのですが、この曲はグリコのポッキーのCMソングだった。森永がスポンサーの『夜ヒット』では歌えないということになったんです。で、急遽、私の作ったカップリングの『Romance』を両A面にしたのです。今、思うと考えられない出来事でしたね」

 2013年に65歳で急逝した大滝。その5年後の2018年3月21日に、コンピレーション・アルバム「EIICHI OHTAKI Song Book Ⅲ 大瀧詠一作品集 Vol.3『夢で逢えたら』(1976~2018)」がリリースされた。その発売を見届けるように、数日後、大滝と数多くのCM音楽をともに手がけたON・アソシエイツの大森氏も静かにこの世を去った。日本の音楽業界に新たな風を吹かせた大滝と、その才能を信じ、支え続けた人々。彼らが残した音楽は、半世紀の時を超え、今も新たな世代の耳に届き続けている。

渡邉裕二(わたなべ・ゆうじ)
芸能ジャーナリスト

デイリー新潮編集部