(※写真はイメージです/PIXTA)

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投資の大失敗や突然の出費など、人生における「お金のピンチ」は誰にでも訪れます。40代で億り人となった元大学教授・榊原正幸氏は、シュンペーターの経済学概念を応用した「私流の創造的破壊」という思考法を提示します。それは、一見絶望的に思える大損や人生の挫折こそが、その後の大きな資産を築くための「不可欠なお膳立て」になるという考え方です。絶望的な状況からいかにして立ち直り、お金と人生の主導権を取り戻すか。同氏の著書『60歳までに億り人になる思考法 なぜ富裕層は好んで借金をするのか?』(PHP)より、お金の失敗を成功へのエネルギーに変える思考法を解き明かします。

あと5センチずれていたら即死だった…26歳のときのバイク事故

私は26歳になる少し前(1987年4月23日)に、バイクで大事故を経験しています。ホンダの1000ccのバイク(ホンダCBX)で、名古屋市内の片側4車線の広い道路を直進していたところ、その道路沿いの駐車場から出てきて、反対車線に行こうとした車が真横から突っ込んできて、その車に跳ね飛ばされてしまったのです。

私も走行中だったので、過失割合は「相手:私=9:1」で、私にも1割の過失が認定されてしまいました。ただ、交通事故に詳しい方ならご存じのように、合法的に走行中の「9:1」の事故は、「1」の過失の私の側には、実質的な過失はほとんどなくて、ほぼ不可避の事故です。ほとんど不可避の事故でも、走行中であれば、「1」の過失が認定されてしまうのです。

この事故で、私は脾臓を摘出する大怪我をしましたので、この事故はもちろん、すごくイヤなことです。

脾臓摘出のための緊急手術をするに当たって、急速に効く麻酔を経管で口から肺に注入され、ほんの数秒で意識を失ったのですが、意識を失う直前に、「これで二度と生き還らないのだけは勘弁して〜!」と思ったことを覚えています。

自分はほとんど悪くないのに、大怪我をさせられましたが、摘出手術から目を覚ました瞬間に、「あ〜、生きていた。よかった〜。よ〜し、これからは好きなように生きるぞ! 好きなように生きたおかげで何がどうなろうと、今、この事故で死んだと思えば、たいしたことではないわ」と痛感することができたのです。

そして手術から数日後、診察を受けている時に、「打ち所が、あと5センチずれていたら、肝臓破裂で即死するところでしたよ」と主治医に言われた時には、「やっぱり、あとは、生きているだけ丸儲けだ」「自分が生かされた意味が、何かあるのだろう」と強く思いました。

ですから、この事故を境に、それまで以上に「自由奔放に」生きることを決意できたのです。

家業を継がずに1年間の就職浪人、イギリスで就職兼留学

この事故に遭ったのは大学院博士課程(後期課程)の1年生の時でした。3年後に、大学院博士課程を終えたら、家業の税理士事務所を継ぐことになっていたのですが、「好きなように生きよう」と決意した私は、家業を継がずに、大学に研究助手として残り、その後に就職浪人をしました。

母は家業の税理士事務所を継いで欲しいと願っていたようです。しかし、1年間の就職浪人を経て、イギリスに就職兼留学をする好機を得ましたので、「好きなように生きる」ということを信条としていた私は、海外に飛び出すことにしました。

あの大事故がなかったら、母親の願う通り、家業の税理士事務所を継いでいたと思います。大事故という「すごくイヤなこと」があったおかげで、自分が思う通りの人生を歩めたという「とても良いこと」に繋がったのだと確信しています。

税理士事務所オーナーの子どもは、99%が後を継ぐ

なお、後に海外留学中の1995年に知り合った教授で、当時、青山学院大学経済学部で財政学を担当していたH教授から伺った話を付け加えます。

H教授がおっしゃるには、H教授の下に集まってくる社会人の大学院生さん達は、全員が税理士試験の税法科目の試験免除を目的とする人ばかりだ、とのことでした。当時、財政学を専攻して修士の学位を得ると、税理士試験の税法科目が3科目とも免除になったのです(この制度は改変され、2026年現在は、特定の条件を満たしつつ税法学の修士の学位を得ると、優遇措置を受けられるようです)。

そして、私が税理士事務所の跡継ぎのポジションにいながらにして、跡を継がずに海外に飛び出したことを全くご存じなかったH教授は、こう付け加えました。

「私が知る限り、税理士事務所の跡継ぎのポジションにいる方は、99%が跡を継ぎますね。開業医と似たようなものでしょう」

この言葉を聞いた時、私は、「自分は残りの1%なのだな」と思いました。当時は、税理士事務所の跡継ぎのポジションにいながら、跡を継がないのは、そのくらいレアなことだったようです。

そして、H教授のこの言葉を聞いた時、私は日本で終末期の病床に就いていた父のことに想いを馳せました。

現実主義者だった母は、私に後を継いでくれることを願っていましたが、父は私が大学の経済学部に入った頃から、「まさくん(私のことです)は、世界に羽ばたいて、天下国家を論じるような男になりなさい! 家業のこんな小さな税理士事務所を継ぐことなんか考えなくていいから」と、いつも言ってくれていました。

私は単に「好きなように生きた」だけであり、1%のレアな人材だったのは私の亡き父だったのです。そういう父をリスペクトしています。

母だけではなく、父までもが「後を継いでくれ」と言っていたら、私はきっと好きなようには生きられなかったと思います。好きなように生きるためには、それを阻害する環境にいてはいけないのだと、今では思っています。

また、好きなように生きさせてくれた両親に感謝しています。

大事故の保険金1500万円をもとでに株式投資をスタート

大事故で、1500万円くらいの保険金を手にした私は、その資金を元手にして、かねてからのバブル経済に乗るかたちで、株式投資を始めました。1987年の年末頃だったと記憶しています。1987年の10月には、NYでブラックマンデーが勃発して、日本株も比較的大きく下落しました。

その少し後から株式投資を始めて、1500万円の初期資金は、1990年初にバブルが弾けるまでの2年とちょっとで、4000万円くらいまで増えていました。ビギナーズ・ラックということもありましたし、なにより、あの真性バブルが後押ししてくれていましたから、そのくらいのことは、あちこちで起こっていたようです。

そして、1990年の年初から、バブルが弾けたので、私もご多分に漏れず、年初からの2ヶ月ほどで、数百万円規模の損失を経験しました。

そしてその頃、折り悪くと言いましょうか、その時点で2年ほどの株式投資経験があったので、信用取引というものがあって、その中の「空売り」というものは株価が下がれば儲かるという仕組みだということを知っていたのです(逆に、株価が上がると、その分だけ損をするというのが、「空売り」の制度です)。

1990年の年初からの下落の勢いがあまりにすさまじいので、1990年の2月くらいからは、主に「空売り」を手がけ始めました。

「最初のうち」は面白いように儲かった空売り

最初のうちは、空売りで面白いように儲かり、数百万円規模の損失はすぐに埋まり、総資金はアッという間に5000万円を超えました。1990年の6月、私が29歳の頃です。

そして、調子に乗った私は、3ヶ月くらいの短期間に株価が800円から1600円に2倍近くまで上昇した銘柄を発見して、今後は株価が下がるだろうと予想したその銘柄に空売りを仕掛けました。

それからも、株価がどんどん上がっていくので、追加で空売りを仕掛けました。含み損は数百万円になったのですが、その後、一度だけ損益がトントンになるところまで状況が改善しました。株式市場において、「神は一度だけ救う」と言われている現象が生じたのです。

しかし、青二才だった私は、月並みながら、「一時的とはいえ、数百万円の含み損を抱える羽目になったのだから、損益がトントンでは、やってられない!」と考えてしまい、そのトントンのところで決済することをしませんでした。

父親の老後のための土地を手放す羽目になった超絶・親不孝

そこから、その銘柄の株価は鬼のように上昇していき、母親に頼んで、銀行から借金をしてまで、いわゆる「追い証」を入れまくったのです。しかし、仕手株化した株価の上昇力は半端ではなく、株価が「3890円」になったところで、力尽きて玉砕。

5000万円の自己資金はゼロになり、残ったのは銀行からの借金1500万円。この1500万円は父親が老後に別荘暮らしをしようと思って買ってあった、三重県長島町の温泉付きの土地を担保にして借りたものだったので、その土地を手放す羽目になりました。超絶・親不孝です。

せめてもの救いは、その時点でも、不動産市況はまだバブっていたため、その長島町の土地は、最高値で売れたことですが、そんなことよりも、この大破綻劇は、それはそれは壮絶なものでした。

一時は、本気で首をくくろうかと思い詰めるところまでいきました。

「3年前に、バイクの大事故では命拾いをしたけれど、もはやこれまでか。あの事故から3年も生き長らえることができて、やっぱり儲けものだったではないか。だから、ボクの人生をここで終わらせても、3年くらい得したじゃないか」と思ったものです。

しかし、「それでは、さらに究極の親不孝になってしまうではないか!」ということにも気づいたので、なんとか思いとどまりました。そして、その時に、心に固く誓ったのです。

「この大損は、必ずや取り返してやる! この大損は、証券取引所に預託金として預けただけだ。利息をヤマほど付けて、必ずや引き出してやるゾ!!」

あの時の仕手株の空売りで焼け野原になったという経験があったからこそ、この執念を燃やすことができたのです

そして、この執念があったおかげで、私は現在までに株式投資で、ある程度の財を成すことができたのだと確信しています。最後に、あの時の大損は、預託金として預けた証券取引所から利息をヤマほど付けて、とっくの昔に取り返した、ということを付言します。

人生初の挫折…どん底の就職浪人も、イギリスの大学で博士号に

名古屋大学経済学部の研究助手として2年間勤務した後、1992年4月から私は就職浪人を経験しました。

ちょうどその年から、経済学部系の大学界も就職氷河期に突入して、私の同期7名のうちの6名が就職浪人をするという事態に陥りました。

私自身は、横浜市立大学商学部の公募に応募しただけで、他には何の就職活動もせず、「きっと採用されるだろう」という甘すぎる考えでいたのが、就職浪人に至る原因でした。

私は、大学院の前期課程(修士課程)で1年留年をしていますが、それは学生生活を延長したくて、自主的に選択した留年でしたので、この研究助手2年間の後の就職浪人が、実質的には初めての「人生の挫折」でした。ですから、すごくイヤなことだったのは言うまでもありません。

その1年間は、名古屋大学経済学部で「大学院研究生」という身分になりました。それは要するに、研究者の世界の「就職浪人」という身分です。その1年間は、かなり一生懸命になって就職活動を続けましたが、一向にうまくいきませんでした。ドツボです。

そして、その就職浪人の期間に、日本学術振興会という文科省に属する組織が募集している「PD」という研究者養成コース(任期2年)にも応募したら、それには採用されましたので、研究者としての任期を、あと2年だけ延長することができました。

そして、その日本学術振興会の「PD」の1年目の秋から、イギリスに就職先が見つかり、渡英することになりました。

この渡英では、かけがえのない経験と研鑽を積むことができて、この経験のおかげで帰国して1年後の1997年に、東北大学経済学部に助教授として採用されました。また、それから4年後にはイギリスの大学から博士号(PhD)を授与されました。

あの時期(1993年9月〜1996年3月)に渡英して教鞭を執る傍らで、博士号(PhD)のコース(programme)で研究をしたことは、私の人生におけるかけがえのない経験と無形の財産として、今も私の中で燦然と光り輝いています。あのどん底の就職浪人がなければ、渡英もなかったのです。

榊原 正幸

元・大学教授/会計学博士/税理士