【山口 由美】1泊38万円なのに「水洗トイレなし、照明なし、ドライヤーなし」トランプ発言で注目のグリーンランドにある「世界最北級のラグジュアリー宿」の正体
トランプの発言で注目を浴びる地
「グリーンランドを所有する必要がある」
アメリカのトランプ大統領がそう発言したことで、世界からにわかに注目を集めることになったグリーンランド。北極圏に位置し、国土の約81%を氷床や氷河が占めるこの島は、日本の約6倍もの面積を持ちながら、人口は約5万5600人にすぎない。
なかでも西海岸の町イルリサットは、世界遺産「イルリサット・アイスフィヨルド」で知られ、巨大な氷山が浮かぶ圧倒的な景観を誇る。
そんなイルリサットを玄関口に、富裕層を対象としたユニークな宿泊施設がある。グリーンランド人のアニカと夫のヨンが手がける「Nomad Greenland」だ。料金は食事やアクティビティを含め、1人1泊1900ユーロから。日本円にして約38万円にもなる。
ところが、案内された客室は、ホテルの建物ではなくテントだった。トイレは水洗ではなく汲み取り式。照明器具もなく、ドライヤーもない。真夏でも朝晩は10度を下回り、風が吹けばテントそのものが波打つ。日本の感覚なら、むしろ「不便な宿」と呼びたくなる条件が並ぶ。
では、いったい何が「ラグジュアリー」なのか。
世界各地のホテルやリゾートを訪ねてきた旅行作家・山口由美氏が、日本人として初めてこの宿を訪ねた。
3本の飛行機を乗り継ぎ、丸2日をかけてたどり着いた先で待っていたのは、快適さを極限まで追求する従来の高級ホテルとはまったく異なる、グリーンランドならではの贅沢だった。
トランプ発言は2つのメリットをもたらした
「トランプ大統領がグリーンランドを購入すると宣言したこと、あの発言は、グリーンランドにとって、2つのメリットがあったと私は思っているの。もちろんとんでもない話であるのは事実だけれど」
意外な台詞を私に語ったのは、グリーンランドでNomad Greenlandという富裕層向けの宿泊施設を手がけるアニカだった。
人口わずか17人の集落で生まれ育ったアニカは、人口の大半を占めるイヌイットの血を引く生粋のグリーンランド人である。
興味津々の私に彼女は言った。
「トランプの発言があるまで、みんなグリーンランドなんて知らなかったでしょう? 少なくとも世界中の人がグリーンランドの国名を知ったことの意味は大きいと思う」
確かにそうだ。
私自身もどこかでトランプの発言に背中を押されて旅を決意した気がする。話題になっているグリーンランドをひと目見てみたいという意識である。あの発言がなかったら、もしかして、私もグリーンランドに来ていなかったかもしれない。
2つ目のメリットとは、デンマークにおいて、グリーンランドの重要性があらためて認識されたことだとアニカは言う。背景にあるのが、デンマークに対してグリーンランドが低く見られてきた歴史である。
グリーンランドは1721年から1953年までデンマークの植民地だった。1979年に自治権を取得。2009年に自治政府法が制定され、政治的な権限と責任はグリーンランド政府に委譲されたが、今も外交と防衛はデンマークが担っている。
植民地支配の終焉後も自治権を得る1979年まで、医療や教育が普及して生活水準が向上した一方、教育現場でデンマーク語が強制されるなど、グリーンランドの人たちのアイデンティティを奪うような政策も少なからずあった。グリーンランドの文化は一段低いものと見なされ、狩猟と採集による伝統的な生活が失われていったという。
今はグリーンランド語で教育が行われ、ホテルやレストランでは外国人向けの英語とあわせてデンマーク語の併記が一般的。空港など公共の場ではグリーンランド語と英語のみが用いられている。赤と白のツートンカラーで真ん中に丸が配置された、日の丸に似たグリーンランドの国旗が、あちこちに掲げられ、土産物屋では国旗をデザインしたグッズが幅を利かせている。日本の国土の約6倍の面積に人口はわずか約5万5600人。国旗を見上げるたびに私は小さな国の矜持を感じた。
3本の飛行機を乗り継ぎ丸2日
Nomad Greenlandは、グリーンランド人のアニカと夫でグリーンランド在住歴が長いデンマーク人のヨンが創業した。大自然の中にある富裕層向けの宿泊施設はラグジュアリートラベルの新潮流だが、それらのどれにも似ていなかった。アフリカのように大型の野生動物と遭遇できる訳ではない。北極圏の厳しい自然条件のもと、営業できるのは夏の2〜3ヶ月だけ。料金はアクティビティや食事を含むオールインクルーシブで1人1泊1900€〜(サービス料10%別途)。だが、客室はテントで、私が泊まったキャンプ・サッカクではチェックインして最初に説明されたのが、水洗ではないトイレの使い方だった。スウェーデン製の最新機器で、気候のせいもあるのか臭いは全く感じなかったが、とはいえ1泊約38万円の宿に水洗トイレがない、というのは衝撃だった。
キャンプ・サッカクは、グリーンランドの西海岸中部、三番目に大きな町であるイルリサットが玄関口になる。コペンハーゲンから首都のヌークまで約5時間、ヌークからイルリサットまでさらに約1時間半。日本からは最低でも丸2日はかかる。
グリーンランドに向かうフライトは、ほぼエア・グリーンランドに限られる。競合がないので航空運賃が高い。コペンハーゲンからヌーク経由でイルリサットに往復する料金が約22万円。東京とコペンハーゲンを往復する航空運賃とさほど変わらない。ヌークの空港は最近ターミナルビルが新築され、スカンジナビア航空が週3便、さらにユナイテッド航空が週2便、ニューヨークから就航するようになった。
イルリサットはイヌイットの言葉で「氷山」を意味する。北半球で最も大きな氷山を生み出す海、世界遺産のイルリサット・アイスフィヨルドがある町だ。20年程前まで最大300mもの氷山があったというが、最近は地球温暖化で大きいものでも50m程になってしまったという。私たちの目には、今も充分な迫力で迫る氷山だが、ここは地球温暖化が地球上で最も深刻な土地でもあるのだ。
照明の代わりにアイマスク
前泊したホテルに迎えに来てくれたのは、滞在中の私の専属ガイドになるシィシィだった。キャンプに隣接する集落、サッカクの出身だというチャーミングな若いイヌイットの女性だ。
チャーターボートに乗って出発する。所要時間は約2時間。イルリサットからアイスフィヨルドのあるディスコ湾を進む。その日は風が強く、ボートはかなり揺れた。
キャンプ・サッカクに桟橋はない。岩場にボートを着岸させる。風が強く、ボートの着岸は無理と判断したキャプテンに命じられ、シィシィがゾディアックボートを操船する。これに乗り移り、岩場に上陸する。宿の到着それ自体がすでにアドベンチャーなのだった。
迎えてくれたのはマネージャーのハナ。モンゴロイドの顔つきからイヌイットなのかと思ったが、なんと韓国人だった。
コペンハーゲンから搭乗したエア・グリーンランドの機内で、フライトアテンダントから聞き慣れない言語で話しかけられたことを思い出す。私がぽかんとしていると、すぐ英語に切り替わった。あれはグリーンランド語で、もしかしたら私もイヌイットに間違えられたのかもしれない。私たちは同じモンゴロイドなのである。
案内されたテント内でもうひとつ驚いたのは、照明器具がないことだった。夏のグリーンランドは白夜。夜も太陽が沈まない。そうか、照明なんて必要ないのだ。ベッドサイドにはアイマスクが置かれていた。
電気は寒さ対策のヒーターと電気毛布、給湯とスマホやカメラの充電用が最低限。ドライヤーもないことに気づくと「空気が乾燥しているから髪はすぐに乾くわ」とハナは笑った。トイレの説明をした時と同じく、ここでは当然のこと、という表情で。
キャンプ・サッカクは6つの客室用テントとレストランとラウンジを兼ねた大型テントからなる。シーズンが終われば土台だけ残してテントは全て撤収される。
宿の名称になっている「ノマド」は、英語で「定住地を持たず移動して暮らす人」を意味する。最近は、場所にとらわれず移動して働く人を称することが多い。時代のトレンドを感じさせるワードだが、響きがかっこいいからという命名ではない。彼らが「ノマド」のスタイルにこだわっているからであり、その象徴であるテントに泊まることでグリーンランドの自然を体感してほしいからだとアニカは語る。真夏でも朝晩の気温は10度を切る。風が吹けばテントは波打ち、雨が降ればテントに雨音が響く。だが、それこそがグリーンランドの自然と一体化することなのだと気づかされる。
最新式「汲み取り式」トイレに憧れる
到着の翌日、シィシィがまずはサッカクの集落を案内してくれた。
彼女の毎日の通勤路だという海岸沿いの道を歩く。海には氷山が浮かび、海岸にそのかけらが転がっている。
「サッカクの人口はどのくらい?」
「150人くらい。そのうちの4分の1は私の親戚です。もうちょっと多いかな」
実際、集落を歩いていると、彼女の親戚によく会った。学校も彼女の母校だ。集落の説明はおのずとシィシィ自身の、もしくは家族の話にリンクする。
サッカクに限らずグリーンランドの集落はどこでも学校や診療所のほか、郵便局を併設した商店と、共同のシャワーとコインランドリーがある公共の建物が整備されている。上下水道はなく、給湯設備や洗濯機のない家が多いからこその施設である。水は共同の給水場からポンプとホースで各戸に引いている。トイレが全てくみ取り式であるとは言うまでもない。
「キャンプのトイレは最新式で憧れるわ」
シィシィが言う。スウェーデン製のあのトイレはここでは最新の機器なのだ。
海岸沿いに鎖につながれた犬が何匹もいる。犬ぞりに使うグリーンランド犬である。イルリサットの町外れにも同じような場所があったことを思い出した。
犬ぞりは今もイヌイットの人たちの生活に欠かせない。国土の約81%が氷床や氷河に覆われたグリーンランドでは町や集落を結ぶ道路がほぼない。氷の大地で犬ぞりを走らせるか、沿岸の海路しか交通手段はない。そして近年はエア・グリーンランドが運航する国内線とヘリコプターである。
「冬は毎日忙しいから、夏はこうしてのんびりしているのよ」
犬たちを見ながらシィシィが言う。
「でも散歩はするんでしょう?」
「そんなことしないわ」
「夏の間に身体がなまってしまって、冬になって急に走れないんじゃないの?」
「大丈夫よ。冬になれば彼らは走れるの」
温暖な日本で室内飼いされたペット犬とは身体の作りが違うのかもしれない。
「カヤック」はイヌイット語が語源だった
前日からの荒れた天候が少しおさまってきた。午後はゾディアックボートで周辺の海域の氷山を見た後、カヤックでムール貝を捕りに行くことになった。
英語でFaraging、日本語に訳すと「食料探し」はNomad Greenlandの主要なアクティビティである。この体験を通して狩猟採集を生活の糧にしていたイヌイットの生活を知ることができる。陸上ではハーブ、季節限定だがベリーを摘むこともできる。
カヤックが大好きというシィシィはとても楽しそう。私は海流の速さに対抗するのに必死である。気がつくと目の前に氷山が迫っていて、「きゃー、タイタニックになる!」と焦る。そんな私をシィシィは優しく指導してくれる。海に出ると彼女はたくましい。
実は「カヤック」はイヌイット語が語源。現在、私たちがレジャーやスポーツで使用するカヤックの原型は、もともと彼らが生活で使っていたものなのだ。シィシィがカヤックを好きなのもDNAゆえなのか。
それにしてもこんな面白い、どこにもない宿泊施設、どんな経緯で誕生したのだろう。アニカにたずねると「そうね、ちょっと長い物語になるわね」と答えた。
◇北極圏のラグジュアリーホテルは、グリーンランドの自然と一体化し、狩猟採集を生活の糧にしていたイヌイットの生活を知る「体験」を与えてくれるものだった。世界中を旅する山口さんが、「どこにもない宿泊施設」と感じたNomad Greenlandが、どのような経緯で誕生したのだろう。
後編「『トランプのグリーンランド購入発言』を現地のイヌイットはどう受け止めた? 1泊38万円の“水洗トイレなし”超高級宿で知った、極北の人々が守ってきたもの」で詳しくお伝えする。
【後編】「トランプのグリーンランド購入発言」を現地のイヌイットはどう受け止めた? 1泊38万円の”水洗トイレなし”超高級宿で知った、極北の人々が守ってきたもの
