日の丸が「米軍の星マーク」に塗り替えられ…「潜水空母」搭載機搭乗員が明かす葛藤

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昭和20(1945)年8月15日日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで31年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「印象的だった言葉」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者は全員、残念ながら鬼籍に入っている。

【前編を読む】「閘門に体当たり攻撃」…「潜水空母」によるパナマ運河攻撃の極秘特攻作戦の全容とその顛末

命令とはいえ、このことだけは釈然としませんでした

出撃準備の整った伊四百一潜は、7月23日、大湊を出港、一路ウルシーに向かった。僚艦伊四百潜とは別行動の上、8月14日に会合し、攻撃は8月17日未明と定められた。

出港に先立って、第六艦隊司令部の指示で、晴嵐の日の丸が米軍の星のマークに描き替えられ、さらに機体の色も、米軍機同様の銀色に塗り替えられた。戦時国際法に違反し、日本武士道にも悖る行為に、隊員たちにはぬぐいがたい後ろめたさが残った。

「信じがたいことかもしれませんが、これは事実です。やり直しがきかない切羽詰まった状況で、攻撃を成功させるため手段は選べなかったんでしょうが……。命令とはいえ、このことだけは釈然としませんでした」

順調に思えた伊四百一潜の作戦行動だったが、思わぬ齟齬が生じる。連絡ミスから、予定の8月14日に伊四百潜と会合できなかったのだ。大湊を出港後に有泉司令が出した針路変更の命令を、伊四百潜が受信していなかったのだ。待てど暮らせど、伊四百潜は会合場所に現れない。

しかも、伊四百一潜には優秀な敵信傍受班が乗組んでいたが、その前日あたりから、日本の降伏を伝える海外電波が頻繁に入ってくるようになった。艦長・南部少佐の手記によれば、1日待って8月15日、日没30分後に浮上したところ、通信長より、無線で傍受した天皇の詔勅が艦長に届けられたという。

「ひと言で言って、アンビリーバブルですよ。わずか3週間前に見送りを受けて大湊を出港してきたばかりなんですから。8月15日午後、浮上したさいに電信でもたらされた陛下の詔勅を読んで、艦長が、『これはデマだ、こんな馬鹿なことがあるものか!』と叫びました」

と、淺村は言う。伊四百一潜はあくまで任務を完遂すべく、ウルシーに針路を向けた。しかし、さまざまな情報から、日本が降伏したことはもはや疑いようのない事実となってきた。

8月16日夜、海軍総隊司令長官・小澤治三郎中将より、〈即時戦闘行動停止スベシ〉との命令に続いて、直属の第六艦隊司令長官からも、第一潜水隊の各艦に、内地への帰投命令が出された。ウルシー攻撃への出撃予定時刻のわずか数時間前のことだった。

晴嵐は一度も実戦に使われることなく

8月19日、海軍総隊指揮下の全部隊は、22日午前零時をもって一切の戦闘行動を停止することとあわせて、詔書渙発以後に敵軍に投降した将兵は、俘虜となったことにはならない、武装の引き渡しも降伏とは見なさないから自重せよ、という趣旨の命令が届く。これで、万一敵艦に拿捕されても、形の上では捕虜になることはなくなった。

続いて、内地に向け北上中の8月26日には、各艦は降伏の印として檣頭(マストのトップ)に黒い球と黒の三角旗を掲げることと、武器弾薬のいっさいを投棄せよとの命令が入った。晴嵐は一度も実戦に使われることなく、翼をたたんだまま、カタパルトで射出されて海に消えた。

8月29日、艦が金華山沖に達したとき、伊四百一潜は、米潜水艦セガンドに発見、拿捕された。8月30日は終日、入港後の引き渡しに備えて、艦内の清掃、整理が行われた。米軍は、翌31日の朝8時をもって伊四百一潜の軍艦旗を降ろすことなどを指示してきた。軍艦旗を降ろすことは、もはや日本の艦でなくなることを意味している。

この期に及んでもなお、降伏を潔しとしない有泉司令は、早暁、拳銃で自らの頭を撃ち抜き、自決した。銃声に気づいた南部艦長が司令室に飛び込んだとき、司令は、草色の第三種軍装に威儀を正し、左手に軍刀、右手に拳銃を持った姿で事切れていた。机上には遺書が置かれ、ハワイ九軍神(真珠湾攻撃のさい、特殊潜航艇に乗り、湾内に潜航した10名のうち、戦死した9名。有泉中佐は、軍令部参謀としてこの作戦を推進する立場だった)の写真が飾られていた。遺体は遺書にしたがって、監視員の目を盗んで軍艦旗に包み、ひそかに水葬に付された。

「遺書に、艦長以下乗員は郷里に帰り、祖国再建に邁進せよ、帝国海軍の受けた恥辱は、小官の血を以てこれを雪ぐ、と書かれていたのは憶えています。その時点で洋上にあった海軍の最高指揮官として、責任をとって自決されたんでしょう。インド洋の通商破壊戦で、戦犯に問われるのを怖れたのではないかと憶測する人もいますが、私はそうじゃないと思う。自決されたときはまだ、戦犯がどうのという情報もなく、そんなことを考える状況じゃありませんでした。有泉司令は、いわゆる古いタイプの海軍軍人でしたから、日本がアメリカの軍門に下るということがどうしても承服できなかったんだと思います」

8月31日朝8時、房総半島の突端が見えてきたところで、伊四百一潜は静かに軍艦旗を降ろし、横須賀軍港に向かった。ちょうどこの日、連合軍の大艦隊が東京湾に入っている。相模湾から東京湾にかけ林立するおびただしい数の米軍艦艇のマストが、淺村の目に焼きついた。

潜水艦搭載の攻撃機というのは、世界のどこにもない

伊四百一潜、伊四百潜、伊十四潜の3隻は、ともに昭和20年9月15日付で日本海軍から除籍され、翌昭和21(1946)年1月、佐世保から米国に向けて回航された。そして、調査と実験の末、5月28日から6月4日にかけ、ハワイ沖で海没処分とされた。

米軍がこれら潜水艦の処分を急いだのは、終戦まで連合軍がその存在にすら気づいておらず、いずれ弾道ミサイル搭載潜水艦に結びつく「攻撃機搭載の超大型潜水艦」の技術情報が、すでに対立が始まっていたソ連に漏洩するのを恐れたからだと言われる。

海没処分から59年後の2005年3月、ハワイ大学の研究チームによって、伊四百一潜の船体が発見された。続いて2009年2月、伊十四潜が、2013年8月には伊四百潜が、それぞれオアフ島南西沖の海底で発見された。さらに2015年8月、三番艦の伊四百二潜が五島列島沖で発見された。

また、晴嵐も、2003年12月、ライト兄弟による動力飛行100周年を記念して、アメリカのワシントン・ダレス空港近くにオープンしたスミソニアン国立航空宇宙博物館新館に、「後世に残すべき飛行機」の一つとして、製造された28機のうち現存するただ1機が復元され、展示されている。

「なぜ晴嵐がアメリカで着目されたか。それは、世界のどこでも攻撃できるという、いまの原子力潜水艦の発想を、すでに日本海軍が具体化していたこと。そして連合軍は、その存在に終戦まで気づいていなかった。しかも、搭載される飛行機の性能たるや、従来の潜水艦に搭載されていたようなチャチなものではなく、攻撃機のなかでも名機に入るような素晴らしいものであった。潜水艦搭載の攻撃機というのは、世界のどこにもないんです。私は、こんな飛行機があり、潜水艦があったということを、一人でも多くの人に知ってほしいと思っています」

と、淺村は言う。晴嵐によるパナマ運河攻撃、ウルシー攻撃は幻に終わったが、旧敵国であるアメリカでその価値が評価され、歴史遺産として保存されることになったのだ。

戦況にはそぐわなかったが、壮大な発想と、それを実現するためのオリジナリティあふれる兵器の開発に見せた、いかにも日本的な「凝り方」。それをつくり上げた基礎技術が、戦後日本の復興の一助になったと捉えれば、以て瞑すべし、と言えるだろうか。

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