「父ちゃんが死んで、バンザイした」戦争から帰還した父は夜中に日本刀で娘を追い回し、大人になった娘は我が子に手を上げるように…戦後日本の家庭に潜む“戦争トラウマ”の悲惨な連鎖〉から続く

「おやじのことは、大っ嫌いでした」

【写真】この記事の写真を見る(4枚)

 俳優の武田鉄矢氏の父は、フィリピンや中国を転戦した復員兵。帰国後は、酒を飲んでは暴れ、「首を斬り落とす快感」や戦場の惨状をうめくように語っていた。そんな父を恥じ、取っ組み合いの喧嘩もした武田氏だったが、父の死後、彼が抱えていた“深い心の傷”に気づくことになる。

『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』の特別公開第2弾。高度経済成長期の陰で、言葉にできない戦争トラウマと闘い続けた男たちの真実を武田氏が語ったパートを紹介する。

武田鉄矢(たけだ・てつや)
1949年、福岡市生まれ。1972年にフォークグループ「海援隊」でデビュー。1979年に始まったテレビドラマ『3年B組金八先生』シリーズでは、主人公の坂本金八を演じた。『101回目のプロポーズ』『龍馬伝』など、多くの映画やドラマに出演している。


俳優の武田鉄矢氏 ©︎文藝春秋

◆◆◆

戦場の記憶の断片

 おやじのことは、大っ嫌いでした。

 目がギラギラしていて、不満があると大声を出して。それが全部、恫喝するような口調なんです。復員兵で、骨の髄まで軍隊に染まった人でした。戦後はなんだか、不機嫌に生きていましたねえ。

 戦争中は、フィリピンと中国北部の戦線にいたそうです。おやじ曰く、「日本一、勇猛果敢な連隊」だったんだとか、繰り返し言っていました。

 記憶の中のおやじは、酒を飲んでは戦場体験を話していました。いや、語るなんてもんじゃなく、何というか「うめき」みたいなものかな。「フィリピンの上陸作戦では、連隊の先頭を切って走った」とか、「マッカーサーを捜してバナナ畑をさまよった」とか、バラバラの断片の記憶が、お酒を飲んでうめき声と一緒に漏れてくる。そういう感じです。でもじきに、圧倒的な米軍の逆襲が始まるわけです。悲惨な経験もしたのでしょう。

 ある時、川を渡る最中に流れ着いた戦友の遺体を踏んだそうです。博多弁で言うと、「靴がいぼる(埋まる)ったい、腹の中に」。内臓が腐ってズブッと腹に入るんでしょうね。その悪臭と無残さは、想像を絶するものがあったんだと思います。

 捕虜になってからは、ネギばかり食わされたそうです。過酷な記憶がよみがえるのか、料理にネギが入っているとものすごく怒るわけです。「こんなモノを食わせるな」と、母を怒鳴りつけていました。

「中国の匪賊(ひぞく)の奴らを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を斬り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんはおやじの横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。

 彼の夢は、大日本帝国の勝利だったんです。敗北によってアメリカの時代がやってきて、それに対する不満と怒りが渦巻いていたんでしょう。おやじの戦後は、皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていったんじゃないですかね。

酔って暴れ「切腹する」

 ところが、母は進駐軍の将校の家でベビーシッターをして1晩1ドルも稼いでくる。日本円にして360円。当時からすれば大金ですよ。男が10時間肉体労働をやって「ニコヨン」、つまり240円をやっと稼ぐ時代です。

 母のアメリカびいきは相当なものでした。母にとって戦時中の日本軍の思い出は、それはもう不快なものばかりだったようです。「軍部は威張ってばかり。それに比べてアメリカの将校さんはマナーがよくて。負けるはずたい。負けてよかったったい」て。

 次男坊の私もアメリカ大好きでね。戦争ドラマ『コンバット!』ばかり見て、(主人公の)サンダース軍曹に夢中だった。ヨーロッパ戦線の戦いぶりとか、もうワクワクして見ていました。それを見たおやじはイライラした声で「こげんうまくゆくか、バカちんが!」とか「鉄砲の音が1発でも鳴ったら、人間動かなくなるったい」とか吐き捨てていました。

 12歳上の兄が大学を出て地元の新聞社の試験を受けた時のことです。おやじが兄に「新聞社の試験に出るから、歴代天皇の名前だけは覚えておけ」と言うんです。悲しい声かけですよ。兄が「そんなものが出るわけない。出るならアメリカの歴代大統領たい」と答え、つかみ合いのけんかになりました。まだ小さかった私は、本当に嫌でした。おやじと折り合いの悪い兄は家を出て、姉たちもやがて家を出て行きました。私もおやじと取っ組み合いのけんか、しましたよ。

 当時の光景をいま遠くに思い浮かべると、分かるような気がします。おやじには「居場所」がなかったんだと。戦争に負け、軍が解散し、博多に帰ってきた次の日から鉄工所の旋盤工として油まみれで働いてきた。2等兵のごとく自分に従うはずだった息子たちは自分にはまったく理解できない「戦後民主主義の子」になっているわけですから、混乱したことでしょう。そして、米軍将校の家に「女中」のように仕える女房に対する怒りをため込んでいたのだと思います。

 おやじは月給1万円そこらの旋盤工でした。子ども5人を抱えて金は出て行くばかりなのに、少ない給料を全部はたいて、飲んでしまうんです。やけ酒ですよ。飲むと暴れ出してお膳をひっくり返す、鉄拳をふるう。そのうち包丁を持ちだして、「飲んだ俺が悪かった。これから切腹する」なんて芝居がかったことを言う。みんなで止めて、母ちゃんはわんわん泣いてね。

気づかなかった「心の傷」

「トラウマ」なんて言葉、あの頃は私たち知りませんでした。私が兵士のトラウマのことを知ったのは、ベトナム帰還兵を描いたハリウッド映画『ランボー』(1982年)を見てからでした。

 全部振り返ると、おやじは戦争によるトラウマの傷のうずきに耐えながら、油まみれになって高度経済成長期の中で働いていたんだなあと。きついですよね。戦争で負けて帰ってきて、日本経済を立て直すために安い給料でアリのように働いて。トラウマのヒリヒリするような痛みを抱えて、それを酒でしか癒やせない境涯だったんだろうなあ。

 しかし私は、おやじの生前、彼との関係をどこかで断ち切っていました。高校生ぐらいになると、戦争の話をしても何の反省もないおやじが恥ずかしくてね。ほら、元兵士がメディアに出て「平和が一番」とか言うじゃないですか。うちのおやじは、そんなこと一言も言わないんです。いつまで経っても「うちの連隊は連戦連勝だった」とか、「武器さえあれば勝っとう」とか、そんな話ばかりでした。

 私の鉄矢という名前だって、「もう1回アメリカと戦争になるだろうから、その時は武器に恵まれますように」とつけたものです。戦争はいけないとか、まったく思っていませんでした。

「フィリピンで死にました。見事な最期でした」と答えた母ちゃん

 大学在学中に「フォークシンガーになりたい」と家を出て、上京しました。「1年だけ」という母ちゃんとの約束でした。おやじは「お前、まさか美空ひばり(1937〜1989年)の仲間になれると思うとか」と不機嫌な顔で言っていました。

 そして出した博多弁の歌『母に捧げるバラード』(1973年)で人気に火がつきました。母ちゃん、大喜びでね。週刊誌の方が我が家まで取材に来たことがありました。どうやら、私の歌から「母子家庭のにおい」がしたらしく、記者が母に尋ねたんです。「お父様はどの戦線でお亡くなりになられたのですか」って。母ちゃん調子に乗って、「フィリピンで死にました。見事な最期でした」と答えたそうです。

 家の奥に隠れていたおやじがこれを聞いて、記者が帰った後で大げんかですよ。母ちゃんが言い放ったのが「あんたが死んどった方が、あの歌が盛り上がるったい」。もう、喜劇ですよね。

 この頃、戦友会に出たおやじが、雲の上の存在だった連隊長から「武田!」と呼ばれたんです。直立不動になったところ、「あの武田鉄矢は、貴様の息子か」と握手を求められたそうです。おやじ、涙を流しながら何度も話していました。彼の人生での喜びは、私の存在ではなくて「連隊長に褒められた」だったんですね。

 1980年に日本武道館で開いたコンサートに両親を呼びました。集まったお客さんを見たおやじは、「これ、みんなお前ば見に来た人か」と感想を漏らしていました。それから3年ほど後に、病に倒れて死んでいきました。

死後に訪れた「和解」

 生きている間、おやじとは和解できませんでした。死後、彼の不機嫌の正体がゆっくりと「解けてきた」気がします。

 たとえば、戦争を経験した司馬遼太郎(1923〜1996年)や阿川弘之(1920〜2015年)の作品を読むと、文章の中でおやじとよく似た人にすれ違うような気がするんです。おやじの不機嫌や無念というようなものが、どこか伝わってくる。戦後の日本の中で、言葉では言い表せないトラウマと生きた男たち、おやじと同時代を生きた人たちの言葉から、おやじを探り当てる作業というのかな。

 私が住む芸能の世界の先輩に、吉田正(1921〜1998年)という大作曲家がいます。シベリア抑留を体験しました。歌手の三波春夫(1923〜2001年)も抑留経験者です。彼らのむやみに明るい歌の中に、何か渦巻く感情を感じるんです。嫌というほどトラウマを抱えた戦争経験者たちが、そのトラウマから己を引き離すためにつくった華やかな世界が戦後日本の芸能界なんじゃないか。私はそんな気がするんです。

 心の傷を芸術に昇華できた、そうした人たちの奥に、物も言わず沈んでいった多くの人がいる。そこに、戦争のトラウマを抱えたすべての人の顔が並んでいる気がして、おやじもその1人だと感じた時に、すごく許せる気がしたんですよね。

 おやじは確かに問題でした。私はずっと、その問題を抱えて生きてきました。どうしてあげん不機嫌やったとやろか。あげん暴れないかんかったとやろか。その問いを捨てずに持ち続けていると、答えが次々思いつくようになりました。

 死んでからの方が、おやじとよく語り合っている気がします。いまは「あんたもつらかったねえ」と言ってあげられる。こんな友だち感覚の言葉をかけたら、おやじ、また不機嫌になるかもしれないけれど。

 なぜ父は不機嫌に生きていたのか――。武田鉄矢さんが語った父の姿は、氷山の一角に過ぎない。悪夢、酒、家庭内暴力に苦しんだ元兵士たち、その姿に怯えた子どもたち、そして初めて語られる孫世代の「戦争体験」……。これまで沈黙されてきた声が明かす戦争の実相は、朝日新書『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』で。

〈「この指1本で何人を殺してきたのだろう」部下に肉弾攻撃を命じ、自分だけ生き残った元日本兵の父が明かす“生存者の本音”〉へ続く

(大久保 真紀,後藤 遼太/Webオリジナル(外部転載))