鉛筆を使う人が減り、国内文具メーカーが次々と鉛筆削りなどの生産を中国へ移した1990年代。大阪府松原市の鉛筆削りメーカー・中島重久堂も、取引先から「中国で作るから」と発注を打ち切られた。だが、資本も人材も足りず海外進出できなかったことが、結果的に明暗を分けた。従業員14人で年間600万〜700万個を生産し、国内シェア約8割を握る町工場は、なぜ消えゆく市場で生き残れたのか。伏見学さんが取材した――。
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中島重久堂の中島潤也社長。1933(昭和8)年創業、年日本で唯一の小型鉛筆削りメーカーの3代目 - 筆者撮影

■日本で唯一の小型鉛筆削りメーカー

日本有数の難読駅と言われる大阪市高速電気軌道(大阪メトロ)・谷町線の喜連瓜破(きれうりわり)駅から歩いて南下すること約25分。大和川を越えて大阪市から松原市に入ってすぐのエリアに佇む一軒の町工場がある。

扉を開けた奥には大小さまざまな機材が所狭しと並んでいる。年季の入ったものもあれば、比較的新しいマシンもある。工場内では、無駄のない動きでテキパキと機械を操作したり、机の上に置かれた小さな部品に対峙したりする従業員の姿が見られた。その様子を柔和な表情で眺めているのが、中島重久堂の中島潤也社長だ。

「今いる従業員は全員女性です。私はね、彼女たちをマダムと呼んでいるんですよ。本当によくやってくれています」

中島重久堂は日本で唯一の小型鉛筆削りメーカーで、年間生産数600万〜700万個、国内シェアは約8割を占める。一般的なプラスチックの商品から、刃が2枚付いたもの、ボディにアルミを使ったリサイクル可能な鉛筆削りまで幅広いラインナップをそろえる。近年は海外での評価も高く、ヨーロッパ最大級のインテリア・デザイン見本市「メゾン・エ・オブジェ パリ」に出展し、国際的なデザインアワード「iF DESIGN AWARD」の受賞経験も持つ。

従業員14人の同社がこうした地位を確立できているのは、技術力の高さはもちろんのこと、かつて安価な労働力を求めて多くのメーカーが海外に拠点を移した時代にも、日本から出ることなく、実直にものづくりに向き合ってきた結果であろう。

「地域の方々と共に、可能な限り、日本で作る鉛筆削りを絶やさないようにやっています」と中島社長は力強く語る。

90年以上も小型鉛筆削りに情熱を注ぐ、中島重久堂のストーリーに迫った。

■時代に翻弄される鉛筆削り

のっけから悲観的な話になってしまうが、鉛筆削りの市場はダウントレンドである。経済産業省のデータによると、鉛筆(色鉛筆含む)の国内生産量は2025年が約1億579万本で、前年比15%減。なお、ピーク時の1966年は約13億8542万本だった。こうした状況に伴い、鉛筆削りの販売数も減っている。

原因は言うまでもなく、デジタル化である。読者の皆さんは普段どのくらい手書きの文字を書いているだろうか。最近、鉛筆を使い、さらにはその芯を削ったことがあるだろうか。デジタル化に加えて、少子化の影響も大きく、過去には鉛筆のヘビーユーザーだった児童・生徒の数は減少の一途をたどっている。ただし、このような厳しい市場環境が中島重久堂の価値を相対的に高めていった。

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かつては、なくてはならない文房具だった鉛筆だが…… - 筆者撮影

同社は1933年、中島社長の祖父である中島幸雄氏が創業。ダクトロイド樹脂の製造方法を開発し、しばらくはペン軸や煙草パイプを作っていたが、1930年後半には小型鉛筆削りの生産を始めた。

戦後、樹脂成形機を開発して、プラスチックの小型鉛筆削りの製造を再開。そのころには鉛筆削りメーカーが全国十数社ほどあったという。高度経済成長期になると、鉛筆そのものの生産量は増えていく一方で、鉛筆削り自体は単価が下がるなどして稼げなくなった。

そもそも、一般の人たちは何個も鉛筆削りを買う必要はないからだ。これは商売にならないということで、鉛筆削り以外の樹脂成形、例えば、プラスチックの日用雑貨品などの領域に鞍替えしていった会社が増え、1970年代には小型鉛筆削りの専業メーカーは中島重久堂だけになったそうだ。

ところが、面白いもので、1970年代後半から1980年代になるといわゆる「団塊ジュニア世代」が小学生になるなどして鉛筆削りの需要が高まり、中島重久堂は多忙を極めた。その噂を聞きつけ、一事業として鉛筆削りの製造に手を出した中堅メーカーも出てきた。

■「中国で作るから」と取引を中止された

1990年代になると、バブル経済が崩壊し、国内景気が低迷。より安価に作ろうと、文具メーカーは中国に生産拠点を移す。

「1990年代から2000年代初頭にかけて円高が続き、デフレも進行したことで、海外で安く作るために中国大陸へ進出する企業が多かったです」と中島社長は振り返る。OEM(相手先ブランドによる生産)供給するメーカーから取引を中止された。「中国で作るからいい」と。

しかし、そうした状況にあっても、中島重久堂は海外に出ていかなかった。なぜその判断をしたのかと尋ねると、中島社長は笑いながら次のように語る。

「もちろん、そういう話はありましたよ。でも、我々の企業規模だと、実際のところ、海外進出するほどの資本と人材もないから行けなかった」

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大阪府松原市にある中島重久堂の本社 - 筆者撮影

ただし、これが明暗を分けることになった。進出した企業はその後、軒並み撤退。それは、鉛筆削りが以前ほど売れなくなったことに加えて、大量生産に対応できなかったからだという。

「戻ってきた文具メーカーに聞くと、無理やったと。ファーストロットは見合うレベルで作ってくるが、2回目、3回目は製品検査が大変やったと。現地での製造は品質に大きな問題がありました」

とはいえ、日本でものづくりを続けていた中島重久堂が勝ち組だったというわけではなく、市場はどんどんシュリンクしていった。そうした真っ只中、中島社長は中島重久堂に入社したのである。

■祖父の遺言、そして叔父の突然の退社

既に述べたように、中島重久堂は中島社長の祖父が立ち上げ、1981年に2代目としてその末っ子、中島良規氏(編註:中島社長の叔父)が継いでいた。一方、良規氏の兄である中島社長の父は損害保険代理店の事業を興していたため、中島社長もその会社で営業マンとして働いていた。

では、なぜそこから中島重久堂へ転職することになったのか。それは祖父の“遺言”だった。

「30年くらい前ですね。祖父が亡くなる直前、この会社を、中島重久堂を何とか継いでやってくれと言われたんですよ。当時よく病院へ面会に行っていたわけですが、ある日、病床で私にポロっとね、頼むと。お前しかおらんからと」

そのことを父に相談すると、特に反対もなかった。なぜなら損害保険代理店では中島社長の兄弟も勤めていたため、人手は足りていた。そこで良規氏に会社を継ぐと伝えたところ、「お前は無理や」と即答されたのである。

「ものづくりは足し算、営業は掛け算。ものづくりの段取りと、営業の仕事のやり方はまったく違うから、お前には無理やと明確に言われまして」

一方で、良規氏なりの気遣いもあった。

「祖父が亡くなったら自分の代でこの会社を畳んでもいいと、叔父(編註:2代目、叔父の良規氏)はよく話していました。彼は独身で後継者もいませんでしたし、苦労して鉛筆削りの事業を築いたから、もう十分だろうと。ものづくりの苦しさを私に背負わせるのは大変だと感じていたようです」

■刃をゼロから作り始めたが…

その時は中島社長も「叔父さんの言う通りやな」と腑に落ちたものの、やはり祖父の代から長く続いた会社を途絶えさせたくない、そこで働く従業員を守りたいという思いが上回った。その後、何度も良規氏の元へ行き、最終的には継ぐのではなく、あくまでも社員として雇用してほしいということで納得してもらった。2005年のことである。

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工場内の様子 - 筆者撮影

中島重久堂に入社するも、ものづくりは素人同然だ。良規氏から最初に課せられた仕事は、鉛筆けずりの刃を作ることだった。

「鉛筆けずりの部品は、主にプラスチックの本体と刃で、当社はこれを内製化しています。プラスチックの成形に関しては、叔父がまだ現役で動いていて、これは俺がやっておくからいいと。後でも成形を学ぶことはできるけど、刃物は鉛筆削りにおいて何よりも大事だから、先に仕事のやり方を覚えておけと言われました」

工場長を務めていた親戚の指導の下、刃をゼロから作り始めたものの、当然、最初からうまくはいかない。どのような苦労があったのだろうか。

「責任の重さを感じました。刃の出来次第で大量に不良品が出るわけですよ。刃を作るための材料を投入すると、一度に1万5000〜6000本近くの刃ができるんですね。そのすべてに対して責任を負わなければなりません。そして、中島重久堂の看板を背負うわけですから、これが強烈なプレッシャーでしたね」

■「お前、準備しとけよ」

現に、何度か大量の刃を無駄にしてしまったことがある。また、廃棄するまではいかずとも、製造過程において良規氏からの厳しい指摘が多々あった。

「工場にいる叔父から金曜日の晩に電話がかかってくるんですよ。『どないしたんですか?』と聞くと、『お前な、こんなやり方で刃が作れると思ってんのか。今調整してるから』と言って、ガチャンと電話が切れるわけです。すぐに工場へ飛んでいき、夜中0時ごろまで指導を受けたことが数回ありました。そういう経験をして、どうすればうまく刃を作れるかを理解するまで半年はかかりましたね。理解してようやくスタートラインに立てたという感じです」

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中島重久堂が製造する鉛筆削りの刃。「JAPAN」と「NJK」(同社のブランド名)が刻印されている - 筆者撮影

それから数年が経ち、仕事も板についてきたころ、良規氏から突然、驚くべき宣言があった。

「リーマンショックの翌年ですわ。1月に叔父が『わし60歳やから、今年誕生日が来たら辞めるからな。お前、準備しとけよ』と言われまして。さらに、会社の帳簿を見ると、今までにない悪い売り上げで……。それに対して叔父は、『今がどん底やから、後は上がっていくだけや。(社長を)やれるんやったら、やったらええで』と。叔父は誕生日が2月末だったので、3月には退職して、そこから社長は私ですわ」

こうして2009年春、中島社長が3代目として代表に就任。コストを抑えるために、分散していた拠点を集約。大阪市平野区にあった本社および工場を、元々は第2工場だった現在の場所に統合して再起を図った。逆風の中での船出だった。

■なぜ鉛筆削りで生き残れたのか

ここで疑問が浮かぶ。市場が低迷し続ける中にあって、なぜ中島重久堂は鉛筆削りの専業メーカーとして生き残れたのか。最大の武器は、刃物の精度の高さだった。これは2代目である良規氏の時代に磨き上げたものだという。

「1970年代前半、叔父が技術革新を起こしました。独自の切れ味によって軽く薄く削れる鉛筆削りを開発し、かつ大量に生産できる体制を確立したのです。そこから大手文具メーカーへの販路がより広がりました」

従来、鉛筆削りはドイツ製が有名で、当時の国内文具メーカーはドイツから輸入していた。そこに中島重久堂の商品が割って入る格好になった。ドイツ製と比べても劣らない品質で、さらに日本製で安価という点が評価され、メーカーに選ばれるようになっていった。

中島重久堂の鉛筆削りとは、具体的にどのような切れ味なのだろうか。中島社長は西洋と日本の刀の違いを例に説明する。

「ドスンと押して切るような西洋刀(ドイツ製)に対して、日本刀(中島重久堂)はスッと引いて切るイメージ。そうすると、削った後の鉛筆の木肌がザラザラではなく、ツルツルと美しく整っています」

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日本刀のような切れ味だという - 筆者撮影

■OEM事業が成長の支えに

こうした刃の技術革新によって文具メーカー向けのOEM(編註:相手先のブランドで製品を製造すること)事業が急伸したほか、一般の鉛筆削り以外にも、化粧品メーカーのコスメペンシル用削りなどの開発オファーが増えたという。

この技術力をベースに、中島社長がさらに改良を加えたのが、二枚刃の鉛筆削りだ。開発のきっかけはOEM先からの要望で、完成までに約1年半を費やした。中島社長は回想する。

「片刃で削るのと比べて抵抗は2倍になるわけですから、その重さを感じさせないように、例えば、刃の長さや形、厚みなどを細かく調整するのが難しかったですね。二枚刃の利点は、鉛筆を早く削れること。スピードに文具メーカーがこだわっていて、叔父の代から相談は受けていたのですが、なかなか量産化できませんでした。私の代でようやく実現できたのです」

このような商品開発は、そう易々と他社は追随できない。これこそが中島重久堂の大きな強みであり、鉛筆削りの専業でもやっていける経営の礎になった。

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二枚刃の鉛筆削り - 筆者撮影

■念願だった海外展開

もう一つ、中島社長の代になってから力を入れているのが、海外展開だ。

社長就任時から、日本の優れた製品を海外で販売したいという思いを抱いていたものの、中小企業基盤整備機構に相談したり、中国のアリババが運営する越境ECサービスに登録したりしても突破口を開けずにいた。そうした中でジェトロのセミナーに参加し、担当者に訴えたところ、紹介されたのが、ブランディングの専門家であるクレアツォーネ・草野信明代表だった。

草野氏は中島重久堂の鉛筆削りを見るなり、「美しい」と感嘆の声を上げ、この製品であれば海外マーケットでも通用すると確信した。そこで次に中島社長と会った時に、フランスの見本市「メゾン・エ・オブジェ・パリ」への出展を勧めたのである。2013年に中島重久堂は初出展し、鉛筆削りを実演したところ、切れ味などが高評価を受けた。その一つが「ペンシルフレーク」である。これは鉛筆の削りカスを指すのだが、まるで芸術作品のような美しさだとの反響があり、その後、2015年に出展した時からはこのような名称で定着している。

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グッドデザイン賞を受賞した「TSUNAGO」 - 筆者撮影

海外展開と並行して、会社としてのブランディング活動にも注力。「メイド・イン・ジャパン」や「メイド・イン・大阪」を世界にアピールしていくようになった。そうした過程で生まれた新商品が「TSUNAGO」だ。

“もったいないの精神”を体現した鉛筆削りで、短くなって使いにくい鉛筆をつなぎ合わせ、最後まで使い切ることができるといった特徴を持つ。2015年に発売するや注文が殺到。しばらくは入荷待ちが続いたヒット商品で、同年のグッドデザイン賞を受賞したほか、「大阪製ブランド」の優秀優良製品にも認定された。

■大阪でものづくりを続ける理由

創業以来、大阪の地でものづくりに打ち込んできた中島重久堂。地域密着の恩恵は雇用面でも受けている。

高い賃金を払って多くの正社員を採用するようなことはできないため、従業員の大半はパートタイムで働く地元の女性である。しかし、彼女たちがスキルを身に付け、今では鉛筆削り作りの屋台骨を担う。元々は普通の主婦だった人たちが、今では立派な“職人”になっているのだ。

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“職人”として働く女性 - 筆者撮影

「長年ここで根を張っているからできたこと。ものづくりの品質って、働いている人なんですよ。『人格が品質』です。だから、この人を替えてしまったらゼロからやり直し。うちの会社のマダムたちは、質の高い鉛筆削りを作ることで、お客さまが喜び、それによって仕事が回っていることをきちんと理解しています。そうした薫陶を会社の先輩たちからも受け継いできたわけです。同じことを、人のつながりのない違う場所でやるなんて不可能ですよ」

海外は言うまでもなく、日本の中でも大阪しか考えられないと、中島社長は断言する。

「自社商品のパッケージには『Made in Osaka, Japan』と入れています。大阪の人間ですから、やはりこの街が好きなんですよ。なぜ好きかといえば、東京や名古屋とは違った活気、文化がある。大阪には先人たちが培って、育んできたものづくりの基盤がある。ものづくりの末席として今、鉛筆削りを任されているわけだから、この街であることへのこだわりはあります」

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地域のつながりが中島重久堂を支えている - 筆者撮影

■「儲かりそうな時が一番危ないんですよ」

とはいえ、地元・大阪の人間であれば誰でもウエルカムかと言えば、決してそうではない。中島重久堂の採用条件は厳しく、真剣にものづくりに打ち込める者だけに門戸を開く。これは自惚れでも何でもなく、易々と辞められては困るという、小さな町工場の現実である。そのためにも身の丈にあった経営をしなければならない。中島社長が何度も口にしたのが、儲かりすぎては駄目だということだ。

「商売においては加減が大事。例えば、好景気の時にはどこにでも鉛筆削りは売れたと思うのですが、そうはせずに、きちんと商品の価値を理解してくれる会社だけと取引しました。それが今でも生きていますし、私たちが苦しい時でも途切れずに注文をいただきました。当時、派手にバーンっと売っていたら、結局それで事業は終わってしまったかもしれません。儲かりそうな時が一番危ないんですよね。できるだけ急激に売り上げが大きくならないようにしたことで、不況の波にも耐え得る財務体質を築くことができたのです」

一呼吸おいて、中島社長は「そもそも急激に儲かるような時代とちゃいますもん。鉛筆削りでね。伸びる業界はどんどん儲けてもいいんですよ。でも、私たちはそうじゃないので」と豪快に笑い飛ばす。

■「商売とは、おかげさまですわ」

この堅実な経営スタンスがコロナ禍でも生きた。国や自治体からの給付金を使うことなく、事業を継続するだけの売り上げを確保できたという。それによって後年、給付金の支給金額をそっくりそのまま大阪府へ戻そうと、大阪・関西万博に寄付をした。

興味深いのは、中島社長だけでなく、同社では代々、寄付をすることが“常識”になっている。

創業者である幸雄氏は、大阪府立中之島図書館に所蔵されていた米国の技術書を読み、製造技術を学んだことが創業のきっかけとなった。それに対する感謝として、後年、中之島図書館に寄付を行った。2代目の良規氏は、大阪府から受けた融資に恩返しするため、1億円を大阪府に遺贈した。中島社長も上述した給付金のほか、「TSUNAGO」の商品の売り上げの一部を森林保全団体に寄付している。

なぜここまで社会に貢献しようとするのか。中島社長は即座に答える。

「商売とは、おかげさまですわ。働いている人に感謝、お客さんに感謝、協力工場に感謝、家族に感謝、地域に感謝することが大事やと思います。自分一人では生きていかれへんから、社会で少しでも役立たないといけない」

中島社長は続ける。

「ものづくりは感謝されるんですよ。いい商品を作ってお客さんにお渡しすれば喜んでもらえる。喜んでもらったことでお金がもらえるんやから、やり甲斐はあります。そのためには手を抜かずに、しっかりと質の高い商品を作らなければ駄目です」

■「我々の代で途絶えさせたらあかん」

日本のものづくりが脚光を浴びる中、中島社長が痛感しているのは、「メイド・イン・ジャパン」というブランドにあぐらをかいている会社が散見されることである。メイド・イン・ジャパンの価値は、先人たちが築いてきたものであり、そこに乗っからせてもらっている事実を忘れてはいけないという。だからこそ、日本のブランド価値を毀損しないよう、世界に通用するものづくりに対して使命感を持っている。

「先人たちが日本製は良いものだということを築き上げてこられた。それを我々の代で途絶えさせたらあかんという自覚はあります。世界のどこにもないアドバンテージを終わらせちゃいけない」

小さな町工場の堅持。この姿勢こそ、今の日本にとって大切なものではないだろうか。中島社長の言葉は重く、しかし、この国の未来に光を差し込んでくれる金言だった。

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これからも「メイド・イン・ジャパン」のブランド価値を守り抜く - 筆者撮影

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伏見 学(ふしみ・まなぶ)
ライター・記者
1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。
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(ライター・記者 伏見 学)