没後80年を経たいま、アンネ・フランクの生を静かに見つめ直す【わたしを忘れないで アンネが日記を書く前の物語】
アメリカを代表する女性作家のひとりで、『ニューヨーク・タイムズ』ベストセラー作家としても知られるアリス・ホフマンによる話題作『わたしを忘れないで アンネが日記を書く前の物語』が7月15日、NHK出版より刊行されました。
不朽の名作『アンネの日記』は、多くの人が手にとったことのある作品ですが、本書はアンネが日記を書き始めるまでの約2年間に焦点を当て、知られざるアンネを描き出しています。
翻訳を担当したのは児童書から文芸まで、幅広いジャンルの翻訳書を手掛ける三辺律子さん。ヤング・アダルト層はもちろん、大人の読者にも響く日本語版に仕上がっています。今回は、本書の魅力を伝える「訳者あとがき」を特別公開いたします。
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没後80年を経たいま、アンネ・フランクの生を静かに見つめ直すノンフィクション・ノベル。その訳者あとがきより
世界一有名な日記──オランダで暮らしていた一少女アンネ・フランクが遺した『アンネの日記』は、戦後まもなく、父オットー・フランクによって出版された。日記は、一九四二年六月十二日、アンネが日記帳をプレゼントされた十三歳の誕生日から始まる。アンネは日記帳に「キティー」という名前をつけて、この「キティー」に手紙を書くというかたちで日々の出来事や思いをつづった。
日記の最後の日付は、一九四四年八月一日。その三日後の一九四四年八月四日朝、フランク一家が隠れ住んでいたプリンセンフラハト通り263番地にゲシュタポがやってきて、隠れ住んでいたアンネを含むユダヤ人八名を逮捕する。アンネはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、さらに姉のマルゴーと共に移送されたベルゲン・ベルゼン強制収容所で十五年の短い生涯を閉じた。
『アンネの日記』は十三歳の誕生日から始まるが、そのわずか一か月後に、アンネたちはナチスの迫害を逃れるため隠れ家に移り住んでいる。つまり、約二年にわたる日記のほとんどは、狭い隠れ家で息を潜めて暮らしていたときの記録だ。学校にも通えず、旅はおろか近所へ出かけることすらできず、会うことができるのも、隠れ家で暮らす八人と、ひそかに支援してくれていた五人だけ。にもかかわらず、彼女の日記は、読む者をひきつけてやまない。
なによりアンネの観察眼と文章力が際立っていたことが、その理由だろう。家族を含め、狭い空間で日々を共にする人々のことを、アンネは冷静、かつ鋭いユーモアを持って書き留める。
また、日記という形式の持つ力も、見逃せない。「キティー」という架空の友人に宛てた手紙のスタイルで書かれているため、秘密の日記をのぞいているような親密さを感じる。アンネの本物の声が聞こえる気がするのだ。
そして、筆者が『アンネの日記』を読むたびにひきつけられるのは、アンネが「ふつうの十代」でありつづけたことだ。恋愛への憧れ、母親との衝突、自分の将来への夢、身体の変化への戸惑い──どの時代の十代にも共通する気持ちだろう。隠れ家という非日常の舞台でも、アンネの悩みはどこまでも普遍的で、自然と自分を重ねてしまう。
前置きが長くなったが、そんなアンネの、隠れ家に移る前の日々を描いたのが、本書『わたしを忘れないで アンネが日記を書く前の物語』だ。書いたのは、『アンネの日記』になによりも影響を受けたというアリス・ホフマン。映画にもなった、魔女の姉妹を主人公にした『プラクティカル・マジック』や、マジックリアリズムの手法を使ってアメリカの田舎に生きる少女たちを描いた『ローカル・ガールズ』などで知られるベストセラー作家だ。
自身があとがきで書いているように、ロシアからニューヨークに移住してきたユダヤ人の子孫だが、子どものころはホロコーストについてはほとんどなにも聞かされていなかったという。そんな彼女が『アンネの日記』に出合ったのは十二歳のとき、本の市でだった。
『アンネの日記』をとおして、ホフマンは、自分と同じルーツを持つ人々の苦しみの歴史を知るが、それと同時に、「文学におけるもっとも偉大な一人称の語り手」を見出す。それまで、学校で男性作家の作品しか読んでこなかった労働者階級の少女ホフマンは、『アンネの日記』を読んで初めて、自分も作家になれると気づいたのだ。
ホフマンはさまざまな資料を読み込み、取材を重ねたうえで、本書を書いた。作家の想像力が描き出す十歳から十三歳までのアンネの姿は、のちにあの世界一有名な日記を記すことになる少女そのものだ。優等生で美しい姉マルゴーへの嫉妬、自分を型にはめようとする母親への反発、よき理解者である祖母オマへの深い愛情、自分と同じ読書家の父への共感が、日々揺れ動くままに率直に語られる。男の子の目を意識した振る舞いや、同級生への客観的なまなざしなども、のちに日記に書かれることになる思春期の悩みや人物観察にそのままつながる。想像力豊かで愛情にあふれ、聡明な一方、目立ちたがり屋でわがままで気まぐれな面もある「ごくふつうの少女」が、ここにいる。
それと共に、一九四〇年から一九四二年のアムステルダムの状況も語られる。学校へ通い、アイスクリーム店に寄り道し、友だちとスケートをしていた日常が、だんだんと日常でなくなっていく。逃げてきたはずのオランダも、ドイツの爆撃を受け、ナチスの支配下となってしまう。
時間がたつにつれ、規則は増えつづけた。図書館の本を借りてはいけない、公園ですわってはいけない、公共の建物に入ってはいけない、プールで泳いではいけない、休暇で出かけてはいけない、ホテルに泊まってはいけない、ユダヤ人は学校や大学で教えてはいけない、ユダヤ人は会社を所有してはいけない、ラジオを聴いてはいけない。(中略)ユダヤ人がつけない職業が決められ、車に乗ることも禁じられた。路面電車にもバスにも電車にも乗れず、そのうち自転車も禁止になった。ボートを漕いだりホッケーをしたりもできず、スポーツに参加することを禁じられた。夜の八時以降は、自分の家の庭に出ることさえ、できなくなった。
ここでアンネが奪われたのは、人間としての尊厳だ。「おまえたちは影だ、もはや人間ではない」。それがなによりもアンネを苦しめる。カリフォルニアに行って女優になる(のちには、作家になる)というのは、ごくふつうの少女の夢だろう。そんな夢を生き生きと語るアンネの姿も、だんだんと夢をあきらめていくアンネの姿も、結末を知っている読者の胸をしめつける。
ホフマンは、アンネの物語をあえておとぎ話ふうの語りを交えて描いた。それについて、インタビューでこう答えている。
起こる出来事はあまりにも恐ろしく、信じがたいものです。だからこそ、この物語を語る唯一の方法は、おとぎ話や神話のように語ることだと思いました。わたしにとっておとぎ話の役割とは、世の中に存在する恐ろしいものを伝えつつ、それに立ち向かう勇気のあり方を示すことです。子どものころに読んだおとぎ話には、ほかの児童文学にはない深い心理的真実があると感じていました。残酷さと同時に希望も描かれているんです。
確かにそのとおりだと思う。アンネのたどった人生の結末は、もちろん悲劇だ。しかし同時に、彼女の日記は今も多くの人々に希望を、勇気を与えている。そして、本書も同様に、読む者に希望と勇気を与える。
愛はすべてだ。愛がすべてなのだ。それだけは、彼らにも決して奪うことはできない。
この一行が絵空事に響かないのは、アンネ・フランクという、特別でありながら同時にごくふつうでもあった一少女を描き切ったホフマンの筆力によるものだ。
今は、勇気と希望を持ちつづけるには困難な時代かもしれない。世界各地で戦争が起こり、人間はまた同じ過ちを繰り返そうとしている。残念ながら、わたしたちがアンネから学ばなければならないことはまだたくさんある。アンネ・フランクの物語は、むかし、ナチスの時代に起きた特別な出来事として読むだけでは足りない。人間の尊厳とはなにか、尊厳を奪うというのはどういうことか。これは特定の人々や国や時代の話ではなく、どの時代にも、どの社会にも関わる問いだ。本書はそのことを静かに、でも、強く教えてくれる。
本書『わたしを忘れないで アンネが日記を書く前の物語』では、10歳のアンネが13歳で隠れ家に入り、日記を書き始めるまでの年月に光をあて、その内面と日常を丹念に描き出します。物語は史実に基づくパートと創作パートが交差しながら進み、アンネの成長と揺れる心を立体的に浮かび上がらせていきます。
著:アリス・ホフマン(Alice Hoffman)
アメリカ・ニューヨーク市生まれの作家。現実の世界に幻想的な要素を織り交ぜた「マジックリアリズム」の作風で知られ、家族の絆や愛、喪失と再生といった普遍的なテーマを詩的な筆致で描く。ヤング・アダルトから大人向けまで幅広い作品を発表し、読む人の心に寄り添い、勇気を与える物語を書きつづけている。代表作には、魔女の血を引く姉妹の物語を描いた『プラクティカル・マジック』(集英社)、人魚の少女との友情を描いた『恋におちた人魚』(アーティストハウス)、心に傷を抱えた少女の成長物語Green Angelなどがあり、前2作は映画化もされている。登場人物の内面や心の揺れを丁寧にすくい上げる作品は、世代を超えて支持されており、アメリカを代表する作家のひとりとして高い評価を受けている。
訳:三辺律子(さんべ・りつこ)
英米文学翻訳家。児童文学、ヤング・アダルト、海外作品などを幅広く翻訳。訳書に『エヴリデイ』(小峰書店)、「嘘つきのための辞書』(河出書房新社)、『月のケーキ』(東京創元社)、「ズィーラーン国伝」シリーズ(評論社)、『ムーンライズ』(岩波書店)など多数。共編著書に『BOOKMARK 翻訳者による海外文学ブックガイド』1&2(CCCメディアハウス)など。〈10代がえらぶ海外文学大賞〉選考委員

