明治維新で「殿様御殿」は”不夜城”に様変わり! 富山藩主別邸《千歳御殿》の辿った運命とは

写真拡大 (全3枚)

かつて全国に500ヵ所以上も存在したという「花街」。各地の遊興空間創出の経緯を辿り、「紅灯の巷」に渦巻く人間たちの欲望の正体、そして近代都市形成の秘密を明かすのは、『花街』を著した加藤政洋氏。ここでは、明治維新によりその運命を大きく変えた「殿様御殿」の数奇な運命を辿る。

「殿様御殿」の明治維新

明治4(1871)年7月の廃藩置県によって誕生した富山県は、同年11月の新川県の設置にともないわずか4ヵ月あまりで消滅、その新川県は明治9年4月に石川県に合併され、富山県として再び自治が開始されるのは明治16(1883)年5月まで待たなければならない。

その間、維新後に新設されていた旧富山城近傍の藩庁が明治4年の置県にともない県庁へと移行、同年の新川県の誕生に際して新県庁が魚津に置かれるや、富山に新設されたばかりの県庁は支庁となり、さらに明治6年7月には旧富山城内に新川県庁が移転してくるなど、藩政時代には物理的にも権威的にも都市の象徴であった富山城とその周辺は、行政上の変動にあわせてめまぐるしく揺れ動いた。

なかでも興味をひかれるのは、富山城の東側に隣接した「千歳御殿」と称する旧藩主下屋敷の跡地である。

「新ニ殿宇ヲ東出丸ニ築造シテ千歳御殿ト号シ、利保移住ス、当時木町西側ノ民家ニ立退ヲ命ジ、鼬川ノ東ニ移ス、之ヲ若木町ト称ス、又寿緑天満宮ヲ三ノ丸東桝形ノ北千歳殿ノ南ニ創立シ、繞スニ梅樹百種ヲ以テス、明治ノ初年マデ尚四十余種ヲ存シタリ」(『富山市史』)

東側の出丸にあった「千歳御殿」は、越中富山藩の10代目藩主前田利保の別邸(隠居場所)として嘉永2(1849)年5月に建造された。領内にある4ヵ所の御用山から木材を切り出したうえに京阪地方にも良材をもとめ、著名な大工や彫刻師をあつめて建設にあたらせ、邸内には螺旋状の山を築くなど、豪奢なつくりであったという(塚田仁三郎編『北陸の産業と温泉』)。

そのさまは、なかば伝説的に語り継がれる。

「堀に続いて東部一帯なる桜木町は、今の百円以上を投じて旧藩公が築きたる千歳御殿の在りし所、結構壮麗、軒高く神江〔神通川〕に蒞みては、水底の影に龍の宮居も斯くやと思はれけん、巍々たる堂々たる、囷々焉たる盤々焉たる、日本的大建築なりしを、惜しむべし火焰高く烏有に帰しぬ。其庭園も亦数寄を凝して、京都の金閣寺銀閣寺等に劣らざりしもの有りきを伝ふ、当時園中の蠑螺山、今尚ほ形を残して二丁目に在り。」(竹内水彩『富山風景論』)

この御殿は、安政2(1855)年2月に発生した大火によって焼失したが、すぐさま焼け跡に再建され、明治維新をむかえる。

旧藩主の下屋敷は遊廓再編の受け皿に

維新後の混乱のさなか、近世的な都市空間がほころびをみせる。鳥取城下の《衆楽園》と同じく主を失ったこの下屋敷も、おもいもよらぬ空間用途の受け皿となる。

幕末以来、「紅烟翠柳の巷」、すなわち遊廓は市街地周縁の各町(稲荷町、北新町、辰巳町など)に「散在」していたことから「取締上不便」となり、明治4(1871)年、「芸娼妓貸座敷ヲ一廓ニ聚合」させようとする議論がおこる。各町の貸座敷に対して出された明治5年12月を期限とする移転命令では、驚くべきことに、「千歳御殿」の跡地が移転先として指定された。都市周縁に散在していた貸座敷を整理統合するべく、旧藩主の下屋敷をあてがった結果、旧城郭のあしもとに新遊廓が登場したのである。

御殿の庭園、あるいは「百種の梅樹」が植えられていたという寿緑天満宮の社地に、桜も植樹されていたのだろうか。遊廓として再開発されると同時に《桜木町》と命名され、以後、遊廓の代名詞となる。

大火、そして市外への移転

《桜木町》は「店頭漸くに増加し高閣楼台年々に築営せられ頗る繁盛を極」めたものの(浅地倫編『富山案内記』)、市街地の大火をきっかけとして、この街は大きな転機をむかえる。明治32(1899)年8月12日未明、一軒の石油商から出た火はおりからの烈風にあおられてまたたく間にひろがり、市街地とその周辺で約5000戸が焼失する大火となった。《桜木町》とて例外でなく、100を超える貸座敷が灰燼に帰す。

この火災に対する市議会の対応はすばやかった。救恤金が下賜された同月15日、市議会ならびに市参事会は9項目にわたる決議をする。その主眼は、「市区改正ヲ為ス事」、つまり街路の整備を中心にすえた都市計画を立案し復興事業にあたることにあったのだが、付帯事項として「遊廓桜木町ヲ市外ヘ移転セシムル事」をも決定したのだ。

「市区改正」を断行せよという決議は、時宜にかなった当然の判断であろう。その大事業と併記されるのであるから、市議会と市参事会は《桜木町》の移転を相当に重要視していたものとみてよい。決議の迅速さからすれば、移転問題は長年の懸案だったのかもしれない。

結果的に、「市の中央に貸座敷を置くは風俗取締に害ありとの議」は受け入れられ(『富山案内記』)、《桜木町》の貸座敷免許地指定は取り消された。同年中には代替地として神通川対岸の《愛宕》が指定され、明治33(1900)年出版の『富山案内記』には、はやくも移転先の「愛宕免許地」に成立した遊廓が紹介されている。

「婦負郡愛宕村〔現・富山市〕にあり神通川を隔て桜木町と相対す昨三十二年桜木町の代地として指定せられたる免許地なり地稍々偏在すと雖も境域広濶にして風光頗る絶佳楼に登り杯を引き妓を呼んて低唱するあらんか万斛俗中脱塵の想あり他日縉紳富豪の驕奢を戦はし粋客通さの豪遊を争ふは蓋し此地なるへし」

を参照すると、旧遊廓《桜木町》のちょうど対岸に《愛宕新地》が位置している。また市街地の東には、「東新地」という名の街区もみられる。この一連の出来事にさきがけて、明治28(1895)年4月におこった北新町の火災をきっかけとして、「是レマデ北新町ニアリシ遊廓ヲ清水町字水引割竹花割ヘ移転スベキ」ことが決定されていた(『富山市史』)。明治初年に整理されるはずだった貸座敷が北新町に残り、一廓をなしていたらしい。これによって、市街地東部の縁辺に新遊廓《東新地》が建設されたのである。

《愛宕新地》に目をもどすと、神通川の中島のようなこの土地には、北陸本線の「富山駅」も立地していた。いまだ市街地の形成は途上にあるとはいえ、《愛宕新地》が駅前の遊廓であることに変わりはない。早晩、駅前も発展し、遊廓が問題視されることは自明であった。結論からいえば、《桜木町》の分身たる《愛宕新地》は再び移転を命ぜられ、《東新地》に吸収合併されるのである。

花街《桜木町》の再興

大正初年に発行された『富山案内』は、「千歳御殿」の場所の履歴を次のように記す。

「「千歳御庭跡」──今の桜木町之なり。旧藩主の先代龍澤院利保の別荘にして嘉永二年五月の建築にかゝり結構壮麗を極めしが安政二年の大火に焼失し其後再び築造せられしが廃藩となり共に毀たれ其後青楼軒を並べ所謂不夜城の花街となりしが、明治三十一年の大火に灰燼に帰してより寂寥静閑なる巷となり今は僅に富山ホテルの外数軒の料理店を存するに至れり……。」

藩主の別荘から「不夜城の花街」となった《桜木町》は、明治32年の大火によって焼失し、貸座敷の再建を禁じられた結果、「寂寥静閑」の巷へと変じていた。

ところが、それからわずか1年後には、「今や続々料理店の設立ありて往時の観を復せんと」するほどのにぎわいをみせはじめる(『富山案内記』)。おそらく、市全体の復興と連動していたのだろう。貸座敷の移転後もとどまって営業をつづけた料理屋に、新しく参入した店もくわわり、高級な料理屋街として再興したのである。花街となるのは時間の問題であった。

この段階では、芸妓置屋の設置は認められていないものの、いつとはなく料理店が独自に芸妓を置くようになり、旧遊廓たる《桜木町》は、《東新地》の「廓芸妓」に対する「町芸妓」の本場、つまり花街にうまれかわった(吉田清平編『富山市商工案内』)。

《桜木町》のこうした既成事実を追認するかのように、大正14(1925)年3月、芸妓置屋の営業が許可された。下屋敷から遊廓へと転じた《桜木町》は、遊廓が移転してから20年以上の歳月をへて、戦後までつづく町芸妓の花街となったのである。

(『花街』より)

全国の「花街」の記憶を辿る旅はこちらから!

【鹿児島】「「墓地」と「花街」の奇妙な関係 不吉な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発」

【東京】「「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶」

【鳥取】「“駅前遊郭”《衆楽園》 風紀取締りの厳重な鳥取の城下町に生まれ、消えた、遊蕩の巷」

「墓地」と「花街」の奇妙な関係 “不吉”な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発