「盗賊の一味だった脱獄犯・武七(33歳)」の刑を「死罪」と判断した長崎奉行が、「長崎追放」に量刑をとどめざるをえなかった理由

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「地裁判決を不服として控訴した」といったニュースを聞くように、現代の日本の司法は三審制をとり、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所はそれぞれ独立して裁判権を行使する。

では、江戸時代の司法はどうだったのか。

江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されておらず、その中で江戸時代全体をカバーするもっとも長期間の記録が、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。

この「犯科帳」で、当時、盗賊の一味として捕まった武七(33歳)が、長崎奉行から裁きを受ける過程を見てみよう。

【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】

江戸時代における裁きの仕組み

長崎での事例を見る前に、まず簡単に、江戸時代という時代における法の仕組みについて見ていこう。

近世日本の司法については、大平祐一の研究により、下級機関から上級機関に伺いが出され、それを承けて上級機関から下される承認あるいは修正の指令にもとづいて下級機関が判決を申し渡したところにその特徴があったとされている(『近世日本の訴訟と法』4頁)。したがって長崎奉行の場合にも単独で判断を下すことはできず、必ず上級機関の指示を仰がなければならなかった。

刑事案件の場合、案件は老中から幕府評定所に下付されて評定所において評議が行われ、その結論が老中にあげられる手続きになっていた。この老中への答申、すなわち評定書を分類整理したものが「御仕置例類集」である。これは非公開で、評定所・三奉行・京都所司代・大坂城代のみが保管を許されていた(小宮木代良「御仕置例類集」『歴史学事典』九)。

すなわちこの「御仕置例類集」は長崎を統治する遠国奉行には交付されなかったのである。それゆえ長崎奉行は何らかの判断を下す場合には、自らの機関が過去に扱った先例を判断の基準の手掛かりとするしかなかった。逆に考えると、法源が老中以下の限られたメンバーによって独占されていたために、「下級裁判機関」は必然的に判決の妥当性を上級に伺わざるを得ない仕組みになっていたのである(大平祐一『近世日本の訴訟と法』70頁)。

江戸が長崎奉行の判決案を覆した例

江戸に伺いを出す場合、長崎奉行は事件の経緯をまとめた報告書に加え、その判決案も添えていた。ほとんどの場合、判決案はそのまま採用されていたが、つぎの例のように長崎奉行が具申した判決案が覆されることもままあった。

久留米上妻村(現・福岡県久留米市)出身で無宿(人別帳に記されていない帳外れの人物)武七(33歳)は、4年前に長崎で盗賊の一味として捕らえられ長崎に隣接する浦上村かっくい原にあった溜(身柄を拘束する施設)に入れられたが、そこから抜け出し逃亡していた。その武七が長崎に立ち帰り、宝暦三(1753)年正月一八日に捕まった。吟味の結果、この時は前日に戻ったばかりで長崎では盗みなどはしていなかったが、溜を抜け出した後、九州内の所々で盗みなどしていたことが判明した。

『御仕置伺集』(上巻 93頁)によると、長崎奉行・菅沼定秀は、「隣国の所々で盗みをしているからには再び長崎に立ち帰ったのもそのつもりに違いない。またそもそもの行状が不届きであり、溜破りへの今後の見せしめにもなるので死罪を申し付けるべきでしょうか」、と江戸に意見を具申した(於隣国所々盗致し候上は全盗可致覚悟ニ而、又々長崎表江立帰候段紛無御座、旁以不届ニ付、以来溜相破リ申候見ごりの為ニも御座候間死罪可申付哉)。しかし「犯科帳」によると、老中・西尾忠尚からの下知は入墨、重敲(百敲)の上での長崎からの追放(「所払」)に止まっている。

なぜこのような量刑になったのか、江戸の判断の理由は不明である。この年には菅沼はこれ以外にも6件の仕置案を西尾に上申している。しかし、この件以外は提案のとおりになっている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)136頁)。数は少ないとしても、長崎奉行から先例が添付されていたからといって必ずしもその案が評定所で承認されるとは限らなかったことがわかる(『近世日本の訴訟と法』41頁)。

先例によらない判断を江戸が行うこともあったということが重要で、それが江戸への伺いに意味を持たせ、地方において幕府の権威を保つ結果に結びついていたと考えることができるだろう。

八代将軍・徳川吉宗が法典の編纂を命じて作られたものが、高校の教科書にも出てくる「公事方御定書」である。これによって従来の厳刑から人命尊重の寛刑へと刑の見直しがはかられ、例えば長崎の場合、それまで抜荷では獄門などの極刑に処せられていたものが、自訴(自首)すれば許されるなどの変更がなされた。この「公事方御定書」は庶民などには閲覧が許されなかったが幕府のみならず諸藩の司法にも大きな影響を及ぼした。

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