難病を抱えながら名古屋で子育てを続けていた三遊亭あら馬さん。専業主婦として一度は夢を諦めたものの、新たに見つけた落語の世界で再び自分を取り戻していく。彼女の転機と落語との出会いを追います。(全4回中の2回目)

【写真】「胆管細胞がんの疑い」で入院した三遊亭あら馬さん「これが転機に」(全21枚)

「自分の夢はもうこれで終わったんだ」と

元気だった妊婦時代

── 胆道閉鎖症という生まれながらの難病を抱えていらっしゃるなか、妊娠や出産に影響はありませんでしたか?

あら馬さん:それが意外かもしれませんが、妊娠中も出産時も驚くほど調子がよかったんです。妊娠7か月目までスポーツジムに通っていたんですけど、だんだんお腹が目立ってきてジムのスタッフさんに「妊婦さんですね」と気づかれてしまって(笑)。それでジムをやめて名古屋の市民プールに切り替えて出産4日前まで泳いでいました。

常に病気と隣り合わせの人生のせいか、体の痛みには慣れていたので、陣痛が来ても自分で車を運転して病院に行ったんです。もともと人に頼るのがあまり好きではなくて、自分のことは自分で何とかする、という気持ちが強かったですね。

── 妊娠中も相当アクティブだったんですね。

あら馬さん:ええ。じっとしているのが苦手で、派遣社員として愛知万博で働いていましたし、将来的に社会復帰を考えて簿記3級を取ったり、自宅サロンも考えていたのでネイル教室に通ったりしました。常に何かしていないと落ち着かなかったんです。

長女とスイミングをする2人目妊娠中のあら馬さん

── 出産後の体調はいかがでしたか。

あら馬さん:出産後も元気でしたよ。産後すぐにエアロビクスを始めたり、2人目の出産後は早く体型を戻したくて水泳に励んだり。子どもを連れてよく外出もしました。自分はきっとマルチタスクが得意なタイプなんだと思います。子どもを習い事に通わせたり、家事をしたりと忙しくはあったんですが、どこかで物たりなさを感じていました。

もともとアナウンサーになりたくて鹿児島から東京に飛び出して、芸能界にも挑戦したけど、28歳で夫の転勤で東京を離れたときは「自分の夢はもうこれで終わったんだ」と思っていたんです。時代もあるのかもしれませんが、そのころ、私の役割は専業主婦として子育てに専念することだろうって。

でも、韓流ドラマにハマって韓国語の勉強を始めたりして、子育てで働き盛りの友人に差をつけられたくない気持ちがあったんですね。結局のところ、このままで終わりたくないという思いが、ずっと心の奥に強くあったのだと思います。

保護者の前で話すことさえ、しどろもどろに…

子どものピアノ発表会。親子連弾はママがいちばん下手

── そこからどのように転機を迎えられたのでしょうか。

あら馬さん:転機となる2つの出来事がありました。

まず、娘の幼稚園の保護者会で、自分の子どもの話をする機会があったんですが上手く話せなくて。周りの先輩ママたちは堂々と子どもの自慢話をするのに(笑)、私はしどろもどろになって。もともと人前で話すことは得意だったはずなのに、こんなに話せないなんてショックで悔しくて。それで「もう一度、話し方をちゃんと学び直さなきゃ」と強く思ったんです。

ちょうどそのころ、東京に住むパイロットの友人から「お前、司会できるよね?」と六本木での結婚式の司会を頼まれて。司会の仕事からしばらく遠ざかっていたので、最初は「え、私が?」という気持ちがありましたが、同時に「おもしろそうだな」という気持ちが湧いてきました。

それで、まずはリハビリ感覚で名古屋の結婚式司会を学ぶスクールに通って、話し方のトレーニングを始めたんです。そしたら、すごく楽しいんですよ。「あぁ、やっぱり話すことは自分に向いているな」「今、すごく自分らしいな」って感じたんです。

── 子育てとはまったく異なる環境ですもんね。東京での司会の仕事はいかがでしたか?

あら馬さん:六本木で司会の仕事をしたとき、「やっぱり東京が私の居場所だ」と強烈に感じました(笑)。子どものころから東京への憧れはあったんですけど、改めて再確認できましたね。友人からも「このまま名古屋にいてはもったいない」と言われていて。それで、思いきって夫を名古屋に残したまま、子ども2人を連れて東京に戻ることにしたんです。

── それは思いきった行動ですね。ご家族の反応はいかがでしたか?

あら馬さん:よく「反対されなかったんですか?」と聞かれるんですが、実は夫にはほとんど相談してないんです(笑)。私は昔から、やると決めたら即行動するタイプ。夫も私の性格をよく理解しているからか、特に何も言いませんでしたね。子どもが小学校に上がる前に新しい環境でスタートを切りたいという思いもあって、私のなかでは自然な流れだったんです。

それと、ちょうどそのころ、父が亡くなって。父は生前「いつかお前にマンションを買ってやる」と言ってくれていたんです。その父との約束を果たす形で、 父の遺産で東京に土地を購入。3階建ての家を建て、そこで新しい生活を始めました。

託児所を使い、落語教室に3年通うも弟子入りを断られ

35歳のとき、胆管細胞がんの疑いで入院

── 東京に戻られてから、落語との出会いはどのようなものだったのでしょうか?

あら馬さん:東京に戻ってきてから、アナウンサーを目指していた自分を思い出すことが増えてきたんです。人前で話したいという気持ちが、まだ心の中でくすぶっていたんですね。それで、20代のころに通っていたアナウンサー事務所に顔を出してみたところ、偶然にも落語教室が開かれていて。「おもしろそうだな」と、最初は軽い気持ちで興味を持ったんです。

ただ、子どもたちがまだ小さかったので夜の教室に通うのは難しいと思っていたんですが、ママ友が「子どもたちを預かるから、気晴らしに行っておいで」と背中を押してくれて。それで週に一度通うことになりました。もちろん、毎回ママ友に子どもを頼むわけにもいかないので、託児所も使いながら3年間通いました。

── 落語のどこに魅力を感じたのでしょう。

あら馬さん:やっぱり自由に演出できるところですね。アナウンサーの仕事は放送禁止用語など、いろんな制約があったり、役者だと演出家の指示どおりにやらないといけないので自由にセリフは言えません。でも、落語は違うんです。自分の言葉で、その場の空気を読みながらノリでアドリブが入れられる。「これ、私にすごく合っているな」と感じました。15分の長ゼリフをもらうことは今までなかったので、こんなに自由で楽しい時間があるんだと本当に新鮮でした。

── そこから、本格的に落語家を目指す決意をされたのには何か理由があったのですか?

あら馬さん:実は35歳のとき、医師から胆管細胞がんの疑いがあると言われて。死を覚悟するような状況だったんです。上の子が小学生で、下の子はまだ幼稚園の年長。「ママはいなくなるかもしれないから、自分たちで家事ができるように」と、娘たちに火の取り扱い、味噌汁の作り方を教えたり、身の回りのことを自分たちでできるようにしていたんです。

さいわい、開腹手術をしたところがんではなかったんですが、「いつかまた死と向き合うときが来るだろう」と強く感じて。それで娘たちに「ごめん。ママは人生を後悔したくない。」と伝えたら、「私たちも笑点に出るママが観たい!」と背中を押してくれて。落語に本気で取り組もうと決意したんです。

でも、最初は簡単にはいきませんでした。落語教室でお世話になっていた今の師匠の三遊亭とん馬に弟子入りをお願いしたんですが、断られてしまったんです。

── なぜ断られてしまったんですか?

あら馬さん:ただ「今は取らない。」と(笑)。師匠はめんどうくさがりなので。かわいがってくださっていた他の師匠のところへも行きましたが、そこは年齢制限が30歳まで。

そして39歳のとき、再び師匠・とん馬に「そろそろ私を弟子にしてもらえませんか?」とお願いしたら、「わかった、取るよ」と言ってくれて。当時、年齢制限が「35デコボコ」とあやふやだった今所属している落語芸術協会のおかげもあり、本当の意味での入門が叶ったわけです。

三遊亭あら馬さん

PROFILE 三遊亭あら馬さん

さんゆうてい・あらま。落語家。女子大生タレント、ラジオパーソナリティ、コンサル会社総務、フリーアナウンサー、劇団スーパーエキセントリックシアター研究生を経て、2017年、三遊亭とん馬に入門し落語家に。2021年5月に二ツ目昇進。2019年杉並区立小学校PTA連合協議会会長。2022年11月より宝島社女性ファッション誌『GLOW』専属読者モデル。2023年4月、フジテレビ『めざまし8』、2024年9月、NHK『視点・論点』でPTA会長4回経験の解説者として放映。2024年10月より調布FMレギュラーとして出演。

写真提供/三遊亭あら馬