こんな報道番組はもう見られない…「ニュースステーション」最終回に一人でビールを飲んだ久米宏の味わい深さ
■久米宏が1人でビールを飲んで終わった最終回
久米宏がメインキャスターを務めた『ニュースステーション』(テレビ朝日系)(以下、『Nステ』)が終了してから、ちょうど20年。そしてその最終回は、報道番組らしからぬ実に破天荒なものだった。と同時に、そこには『Nステ』という番組の新しさ、そして久米宏という稀代のテレビタレントの凄みが凝縮されてもいた。
自分の椅子からいきなり立ち上がり、セットの後ろのほうにある冷蔵庫から瓶ビールとコップをとってくる久米宏。「今日はね、僕にご褒美をあげようと思って」と言い、席に戻ると手酌でビールを注ぎ始めた。
隣の席のサブキャスター・渡辺真理が「僕へのご褒美って……あっ……またもう……しかも(コップ)ひとつじゃないですか!」とあきれたように言う。
久米は動じることなく、「当たり前ですよ!」と返し、これまで番組を見てくれた多くのひと、特に番組への厳しい批判を寄せてくれたひとに感謝の弁を述べ、「じゃ乾杯!」と言ってビールを美味しそうに飲み干す。そして手を振りながらこう番組を締めくくった。
「本当にお別れです。さよなら」
2004年3月26日。全4795回、約18年半にわたって続いたテレビ朝日『Nステ』が迎えた最終回。そのラストの場面である。長いテレビの歴史で、メインキャスターが1人でビールを飲んで終わる報道番組というのも、後にも先にもこの番組くらいだろう。
■テレビ朝日にとって社運を賭けた番組
番組開始は1985年10月7日。月曜から金曜夜10時(初期金曜日は11時)から始まる報道番組である。
夜10時台の報道番組はいまでこそ当たり前だが、当時はそうではなかった。視聴率を見込めるゴールデンプライム帯は、ドラマやバラエティを放送するのが常識だったのである。それゆえ『Nステ』を始めること自体が大きな賭けだった。
初回の視聴率も9.1%(関東地区世帯視聴率。ビデオリサーチ調べ。以下同じ)。
これはいまの感覚だとそれほど悪くないが、当時としては低かった。夜10時台ともなれば、14%前後あってほしいところだった。その後、久米をはじめスタッフたちは、連日深夜まで議論したという。だが視聴率はなかなか上昇しなった。
変わるきっかけは、海外での大きなニュースだった。
■世界史が変わる瞬間を見せた
なかでも記憶に残るのは、1986年2月にフィリピンで起こった市民革命である。当時のフィリピンは、マルコス大統領による長期独裁政権。そこに反マルコス派のリーダーとして市民から高い支持を受けていたベニグノ・アキノの暗殺事件が起こる。これを機に、反マルコスデモが一気に拡大した。そしてその革命の波は、アキノ夫人の新大統領就任という結末を迎える。
このアキノ新大統領の就任宣誓が、現地の午後10時。日本とフィリピンの時差はほぼないので、『Nステ』の開始と同時刻である。一方、政府軍と反マルコス軍の戦闘は続き、マルコス前大統領の国外脱出が伝えられるなど、まだ状況は刻々と動いている。
この日の『Nステ』は、アメリカCNNの映像や各所からの中継を織り交ぜながら、全編フィリピン情勢のニュースを伝えた。リポーターだった安藤優子は現地で取材を続け、国際電話で最新の情報を伝え続けた(久米宏『久米宏です。』)。この日の視聴率は19.3%を記録した。
こうして浮上のきっかけをつかんだ『Nステ』は、その後30%を超える視聴率もとるほどの番組へと成長していく。
テレビは「生」に限るとはよく言われることだが、この“革命の実況中継”は、その極みだった。生放送中に世界史にも残る出来事の現場が家に居ながらにして目撃できる。これほどテレビの持つ威力を実感させたケースもまれだろう。
■「僕はニュースキャスターではなく、司会者」
とはいえ、そうしたニュースを生かすも殺すも最終的にはキャスター次第。なによりも、久米宏の存在は大きかった。
久米は1944年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、TBSの局アナになった。しばらく頭角を現せずにいたものの、ラジオ『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』の中継リポーターをきっかけに、テレビでもコント55号と共演した『ぴったし カン・カン』の軽妙な司会で一躍注目される存在となった。
その人気は、黒柳徹子とともに司会を務めた人気音楽番組『ザ・ベストテン』で不動のものになる。しゃべりの達人である黒柳に一歩も引かないトーク力、そして慌ただしい生放送をきっちり時間内に収める仕切りの技は他の追随を許さないものだった。1979年には、TBSを退社してフリーに。
『Nステ』は、そんな久米宏が取り組む初の報道番組だった。久米はバラエティや音楽番組のイメージが強く、『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ系)という情報番組も担当したが、かなりエンタメ色の強いものだった。それゆえ、久米が本格的な報道番組のキャスターを務めることを不安視する声も少なくなかった。
だが久米本人は、自分をニュースキャスターとは考えていなかった。
■お手本にしたのはタモリ、さんま、たけし
現場取材の経験がある人間が編集権を持って報道番組にかかわるのがニュースキャスターとすれば、久米は違った。
「僕は番組の進行にほとんどの神経を注ぎ、残りのわずかでニュースを理解し、コメントを考えていた。つまり司会者としてはプロでも、キャスターとしては素人だった」(前掲書、261〜262頁)。
あくまで自分はテレビ司会者というスタンスで臨んだわけである。久米がお手本にしたのも有名ジャーナリストなどではなく、タモリ、ビートたけし、明石家さんまといったすぐれたエンターテイナーたちだった(前掲書、262頁)。
その点、久米宏は生粋の「テレビ人」であり、「中学生にもわかるニュース」という番組コンセプトは、テレビ最大の武器であるわかりやすさがニュースにも必要という考えからだった。
だから久米は、映像メディアであるテレビならではの情報の伝えかた、伝わりかたには細心の注意を払い、工夫を施した。それを久米は「神は細部に宿る」と表現する。
たとえば、ミニチュア模型などはそのひとつ。フィリピン革命のような出来事を伝えるときに、言葉や断片的な映像だけでは伝わりにくい。その難点を克服するため、建物の位置関係などがわかるマニラの街の模型をつくる。手持ちカメラを使って特定の建物にズームしたりすることで臨場感も出せる。
■徹底された視聴者第一主義
1985年8月に起こった日航ジャンボ機墜落事故を振り返った際には、航空機内を模したセットをスタジオにつくった。そしてそこに、久米のアイデアで犠牲者520人の年齢や性別に合わせた520足の新品ではない靴を用意し、実際の座席表に合わせて並べた。
自民党総裁選のニュースで、積み木で情勢を説明したのも斬新だった。各派閥の人数に応じた高さの積み木をつくり、それを重ねたり崩したりすることで視覚的に伝える。その際、候補者の似顔絵がついた人形を積み木の傍らに置くことで、派閥政治の生々しさをイメージしやすくした。
また、ニュースとは無関係な細部についても同様だった。
それまで無機質な感じの多かった報道番組のセットに対し、『Nステ』では高級木材を使ったテーブルが置かれ、背後に応接セットもあるおしゃれなリビングのようなセットになった。テーブルも、サブキャスターの小宮悦子やコメンテーターの小林一喜と久米の目が合い、会話が弾むように湾曲したブーメラン状のデザインにした。
自分の服装やちょっとした持ち物、しぐさの一つひとつにも気を遣った。
『Nステ』が東京・六本木に当時できたばかりのアークヒルズからの放送だったので、服装は都会を意識した流行のスーツファッション。さらにトップニュースの内容によっても服装を変えた。いつも手に持つペンの色も、服に合わせた。
こうしたことはすべて、視聴者目線に立つがゆえである。だから番組中のVTRがわかりにくいときは、見終わった後「小林さん、いまのリポートはよくわかりませんでしたね」などとはっきり言う。そんな視聴者第一主義が、長く支持された最大の理由だっただろう。
■こうして伝説の最終回は始まった
そして迎えた最終回。その日は、随所で番組の歴史を振り返る場面があった。
まずは、U2のテーマ音楽、そしてアークヒルズの桜並木の映像からスタート。その映像をバックに久米が「こんばんは。最後の『Nステ』です」と挨拶し、その桜並木が番組スタートと同じ1985年に植えられたものであることを説明する。
その日のニュースを伝え終わると、久米は「『Nステ』続けるなかで一番苦労したって言うか、辛かったことって言うのは、「いつ終わるかわからない、この番組は」ということでした」と切り出す。そして「過去の自分にこの番組が終わるということを伝えたい、とふと思いつきました」と続ける。
すると第1回の映像が流れ、そのなかに現在の久米宏が登場。開始当時の久米は40歳。そして現在は60歳間近。さらに気づくと50歳の久米宏も同じ映像のなかにいる。こうして合成技術を使い、“3人の久米宏”がひとつの画面のなかに出そろった。
絶妙に計算された3人のやり取りの後、現在の久米宏が40歳と50歳の自分にねぎらいの言葉をかける。「本当にお疲れ様」。そして1985年の阪神タイガース日本一に始まり、昭和天皇崩御、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、さらに2004年の自衛隊イラク派遣まで、それらを伝える久米の映像とともに振り返った。
■「僕は民間放送を愛している」
そしてエンディングへ。渡辺真理の挨拶の後、久米による最後の挨拶が始まる。
久米は、民放という存在について持論を語り出す。
「民間放送はね、原則としてスポンサーがないと番組が成立しないんです。そういう意味じゃ、民間放送というのはかなり脆弱で、弱くて、危険なものなんですけど」としたうえで、「僕はこの民間放送が大好きと言うか、愛していると言ってもいいんです」「なぜかと言うと、日本の民放は、原則として戦後、すべて生まれました。日本の民放は、戦争を知りません。国民を、戦争に向かってミスリードしたことがありません。これからもそういうことがないことを祈っております」
その表情は、真剣ではあるが深刻なものではない。淡々と民放への愛、その理由を語る姿が印象的だ。
さらに久米の話はこう続く。直接番組を制作するスタッフだけでなく、民放の場合何千人といるスポンサーの社員も広い意味ではスタッフである。もっと言うなら、そのスポンサーの製品やサービスを買ってくれるもっと多くの人たちもスタッフと言えるかもしれない。
そしてここからが久米節の真骨頂。突然自分の小学校時代の通知表の話題に。
通信欄には「落ち着きがない。飽きっぽい。協調性がない」とずっと書かれていた。だが、と久米は、カメラ目線で当時の先生たちに向かって「18年やりましたよ」と語りかけ、「本当に偉いと思うんだよ、僕は」と言い出す。渡辺真理がそのあたりで話を収めようとするが、久米はそれを振り切って席から立ち上がる。そして冒頭の1人ビールの場面になっていくわけである。
■愛すべき「物わかりの悪さ」
最終回を見て改めて思うのは、「久米宏を忘れるな」ということである。
思うに久米宏を久米宏たらしめているのは、その愛すべき「物わかりの悪さ」だ。
時の政府や政治家などに対してもそうだったが、和気藹々(わきあいあい)であって然るべき長寿番組の最後に自分だけ堂々とビールを飲み、あえて波風を立てるその姿からは、誰とも群れない一徹さが感じられる。まさに反骨精神の塊である。
ただそこには、ユーモアがあった。そんな偏屈な自分を十分わかったうえで自ら突き放して見ているようなユーモアがあった。最終回の“3人の久米宏”からもそれが見て取れるし、その点1人ビールは久米宏の番組の最後にふさわしくもあった。
いま見渡しても、そんな愛すべき「物わかりの悪さ」を発揮しているキャスターは見当たらないように思う。もし現在の報道番組が物足りないと感じるのであれば、私たちは久米宏というニュースキャスター、いやテレビ司会者のことを折にふれて思い出す必要があるに違いない。
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太田 省一(おおた・しょういち)
社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。
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(社会学者 太田 省一)