〈桐島聡と逃走した男・独占インタビュー〉東アジア反日武装戦線「さそり」元メンバー・宇賀神寿一が語る「闘争の原点」と「さそり結成まで」

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今年1月、1974~75年の連続企業爆破事件で指名手配された男は、約50年の逃亡生活の末、「最期は、本名で迎えたい」と自ら名乗り出た。男の名は桐島聡。彼がかつて所属していた東アジア反日武装戦線「さそり」は何を目指し、桐島はなぜここに合流したのか? 「さそり」の元メンバーで、桐島と同じ日に逃亡した宇賀神寿一さんが独占インタビューに応じた。

【画像】「9月に会おう」宇賀神寿一と桐島聡が待ち合わせを約束していた神社

「桐島聡」と同じ日に逃亡した男

「自分は、桐島聡」「最期は、本名で迎えたい」――今際の際で、男性はそれだけを伝えた。この世における、最期の言葉として。そして4日後に、息を引き取った。
 
今年1月25日、「桐島聡」の名が一気に全国を駆け巡った。「東アジア反日武装戦線」というワードが降って湧いたように世に浮上し、「三菱重工爆破事件」がいかに悲惨であったかがお決まりのように語られ、「間違ったことをしたと、自分の人生を明確に否定してほしい」と、事件の遺族の声までもが拾い上げられもした。

だが、桐島さんはそもそも、「三菱爆破」(1974年8月30日)には一切、関わっていなかったし、逮捕容疑とされた「韓国産業経済研究所爆破」(1975年4月19日)にも関わっていなかった。

「三菱」は東アジア反日武装戦線「狼」の犯行であり、「韓産研」は同「大地の牙」によるものだ。東アジア反日武装戦線には3つの部隊があり、桐島さんが所属していたのは、最後に闘争に参加した「さそり」だ。

「さそり」が行なった爆破闘争は、1974年12月23日の「鹿島建設資材置き場」、1975年2月28日、3部隊合同作戦での「間組本社」、4月28日の「間組江戸川作業所」、5月4日の同・江戸川作業所でのコンプレッサー爆破の4件、わずか半年にも満たない闘いだった。

「さそり」はなぜ、東アジア反日武装戦線に合流し、何を目指したのか。なぜ、桐島さんは「さそり」メンバーになったのか。今年1月の報道では「さそり」のリーダー、黒川芳正さん(無期懲役囚として、宮城刑務所に収監中)の名すら、見つけることは困難だった。

1975年5月19日、東アジア反日武装戦線主要メンバーの一斉逮捕直後、桐島さんは21歳で逃亡生活に入り、半世紀もの間、別人として生きてきた。その人生のすべてを辿ることは困難だが、少しでも桐島さんという存在に近づきたいと願い、ある人物に連絡を取った。

それが、「さそり」メンバーで、桐島さんと同じ日に逃亡した宇賀神寿一さんだ。

宇賀神さんは1982年に逮捕され、懲役18年の判決を受けて服役し、2003年に21年間の獄中生活を経て出所した。1952年生まれの宇賀神さんは現在、71歳。1954年生まれの桐島さんにとって、「さそり」の先輩メンバーである宇賀神さんは明治学院大学の先輩でもあり、逃亡時は2人とも大学生だった。

宇賀神さんはこれまで、桐島さんのことでさまざまな取材要請があったにもかかわらず、断り続けてきたと聞く。そんな中で今回、取材に応じてくださったこと、かつ難病のパーキンソン病の身体を押して、約束の場所に出向いてくださったことには感謝しかない。

もちろん私は、宇賀神さんとは当時、何の接点もない。三菱重工爆破事件も主要メンバー逮捕時も、福島県に住む田舎の中学生に過ぎず、何も知らないと言っていい。

ただ、大学でとった日本近現代史ゼミの、今は亡き教授の特殊な志向性ゆえ、東アジア反日武装戦線の裁判を支援する市民集会の場違いな参加者となり、宇賀神さんや黒川さんがいた10年後の山谷の地に立ち、玉姫公園での炊き出しに参加するなど、末端で「越冬闘争」を体験した。そこで、私は「さそり」の存在を知った。「さそり」は、山谷から生まれた部隊だった。

「同じ人間なのになぜ差別されなきゃいけないのか」

そんな私が、桐島さんの「死」という衝撃を前に、存在を知ってはいたし、近しいところにいたこともあったけれど、「さそり」そのものをよくわかっていない人間として、宇賀神さんが語る「これまで」を改めて見つめたいと、強く思った。

5年前に突然、パーキンソン病に罹患したという宇賀神さんは杖をつき、ゆったりとした足取りで現れた。少し曲がった背中に日常生活の大変さを思うも、路上で氷アイスを食べ、悪戯っぽく笑う飄々とした眼差しに、これが宇賀神さんらしさなのだろうなと思う。

今回は宇賀神さんの希望で、宇賀神さんのことも、逮捕前の黒川さんのこともよく知る、山谷で共に活動していた、旧「現場闘争委員会」の男性(道中さん・仮名)も同席された。

そもそも、宇賀神さんの「始まり」はどこだったのか。宇賀神さんは東京都生まれ、「炭屋」から「自動車部品加工業」に家業を転じ、家内工業で生計を立てる両親の働く姿を見て育った。中学から、私立の明治学院に進んだのは、「苦労なく、大学まで進めるように」という両親の希望からという。

「中学生の頃、『これが世界だ!』というテレビ番組を毎回見ていて、アメリカの黒人解放運動に強い影響を受けました。同じ人間なのになぜ差別され、迫害されなきゃいけないのかと、怒りを持ちました。ここからですね」(宇賀神さん・以下同)

1968年に進学した明治学院高校には、「ベ平連(注1)」や「ブント(注2)」などいろいろな組織が活動していた。今では考えられないことだが、当時の高校生や大学生は、自分たちの手で社会を変えなければいけないという強い意識の下、実際に行動していた。それが、当たり前の時代だった。宇賀神さんの心には中学生の頃から「差別はいけない」という、差別への怒りが宿っていた。

「実際に、社会を変えていくにはどうすればいいのか。具体的にどう運動を作っていけばいいのか、自分も考えました。闘うということに多くの人が共感していたし、私もそうだった。実力闘争について、自分も何かしなきゃいけないと。ただ、実際に政治党派のヘルメットを被ってみたけれど、難しい理論を弄ぶところばかりで、私には性に合わなかった」

(注1)「ベトナムに平和を!市民連合」の略、ベトナム戦争反対を訴える市民団体。1965年4月、小田実、鶴見俊輔などにより結成。

(注2)1997年に生まれた、新左翼系の市民団体(~2008年)。前身は「戦旗・共産主義者同盟」

「沖縄問題」と「三里塚闘争」

1969年秋、『沖縄』という映画を見たことで、宇賀神さんは沖縄問題に惹きつけられる。

「基地の反対闘争、米軍機の墜落、基地の薬品による水道汚染など、なぜ、沖縄にばかり負担をかけるのか。しかも、ベトナム攻撃の発進基地になっている。絶対に、何とかしないといけないという気持ちがあって」

1970年2月、高校2年で単身、沖縄へ向かう。返還前ゆえ、「渡航許可証」がなければ沖縄へ行くことができない時代だった。晴海埠頭から船で2日かけて、那覇港へ。

「愛読していた小田実の、『何でも見てやろう(注3)』の影響もあったけど、沖縄の問題を知ったからには、何もしないままではいられなかった。年末年始の郵便局のバイト、製本屋の荷物運びで、お金を貯めて……」

沖縄に知り合いがいるという高校の教師に紹介状を書いてもらい、さらに教師は米軍に占領された伊江島で、非暴力の土地闘争を行なった阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(注4)への紹介状も渡してくれた。生徒が「このままではおかしい」と社会問題に興味を持ったとき、ちゃんと支える姿勢が当時の教師にはあったのだ。

「明治学院には面白い先生が多く、大島渚の映画『日本の夜と霧』に出演していたり、米兵の逃亡を助けたグループの先生もいたり……」

沖縄滞在は10日間、高校教職員組合の教師や、学生の話を聞き、合間には沖縄観光もした。

「泊まるところがないと言ったら、那覇の教組の事務所に泊めてもらいました。でも、だんだん、自分は何をしにここに来たんだろうって、自分への不信感が募ってきて……。

自分は沖縄で何をしたらいいのかって考え出したら、どうしたらいいかわからなくなり、沖縄の高校の先生に生徒との話し合いの場を作ってもらったのに、行けなかった。約束を破ってしまったことが、今も残っている。阿波根さんにも、会いに行けなかった」

打ちひしがれて帰ってきた宇賀神さんだが、1971年2月、息を潜めるように通っていた教会で三里塚闘争の話を聞き、再び、闘争心に火がついた。すぐに単身、三里塚へ向かった。

「家族には旅行に行くとだけ言って、その日の夕方には三里塚に行ってしまった。救援対策の仕事を割り振られ、担架を担いで走り回って、怪我人を乗せて連れてくるっていう重労働。おにぎり2つと漬物をもらって、けっこう、楽しんでやっていた。農民や支援者が大地を守るために生命をかけて闘う姿に、私は深く感動した」

(注3)1961年刊、小田実の旅行記。フルブライト留学でアメリカへ渡った著者が、欧米・アジア22カ国を貧乏旅行した体験談。ベストセラーとなる。

(注4)1901年、沖縄県生まれ。敗戦後、伊江島の土地の米軍による強制接収への反対運動の先頭に立つ。非暴力により、土地収奪の不当性を訴え、土地闘争に大きな影響を与える。

「さそり」リーダー、黒川芳正との出会い

不思議なのは、宇賀神さんはいつも単身で、興味や関心のあるものに飛び込んでいくということだ。自伝(注5)には小学生の頃、立ち入り禁止と言われた林の一角に入り込み、自然の中で1人、飽きることなく楽しんでいた時間がいきいきと描かれているが、そうした「性分」がそもそもあるのだろうか。

「そう。いつも、一人で動く。それが、好きなんですよ。自分で、判断して」

1971年春、明治学院大学に進学。学内は学費値上げ阻止、ロックアウト粉砕闘争の真っ只中。宇賀神さんは大学当局の不当性に抗議する「クラス闘争委員会」の活動をしていたが、教室でのクラス討論中に逮捕されてしまう。容疑は、「建造物不法侵入」と「威力業務妨害」。どちらも濡れ衣だが、3週間近く勾留された。

やがて「クラス闘争委員会」は解体し、宇賀神さんは多くのメンバーが選んだ大学を去ることにも、授業に復帰することにも踏み込めないまま、どうしたらいいか悩み続けた。

「1972年の始まりは暗かった。連合赤軍事件。あれで、運動は停滞してしまった。人を殺すってことが大きな悪影響を与えたことは確か」

1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港で乱射事件=リッダ闘争(注6)が起こる。
「仲間殺しではなく、敵に打撃を与える闘いはこうしてやるのだと、身をもって示してくれた。巡礼者を巻き込んでしまったのは、失点だけど」

宇賀神さんは校舎から、「決死作戦断固支持」のビラを1人で撒いた。夏、ある男に誘われ、京都大学でのリッダ闘争「戦士追悼集会」に参加したことで、宇賀神さんは寄せ場へと引き寄せられる。

「夜、釜ヶ崎の釜共闘のメンバーと関西の底辺委員会の話し合いがあり、僕も参加した。そこで、船本洲治(注7)と初めて出会った」

1972年秋、ある会合への誘いを受け、山谷へ向かったのは「山谷とはどんなところか、知りたい」という好奇心からだ。会合とは「底辺委員会」、その司会を務めていたのが黒メガネ、黒シャツ、黒ズボン、黒靴と、全身“黒ずくめ”の、のちの「さそり」リーダー、黒川芳正さんだった。

取材・文/黒川祥子

(注5)『ぼくの翻身(宇賀神寿一 最終意見陳述集)』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)

(注6)1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港で起きた、日本人活動家3名がイスラエルに抗議し、パレスチナ民衆解放のために実行した乱射事件。奥平剛士と安田安之が死亡、岡本公三が拘束された。

(注7)1945年、広島県呉市生まれ。「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」(釜共闘)メンバー。寄せ場の日雇い労働者を真の革命主体と捉え、釜ヶ崎や山谷で活動。黒川芳正と親交あり。75年6月、沖縄嘉手納基地ゲート前で焼身自殺。遺書に「東アジア反日武装戦線の戦士諸君! 諸君の闘争こそが東アジアの明日を動かすことを広範な人民大衆に教えた。この闘争いまだ端緒であり、諸君たちは部分的に敗北しただけである、私は、諸君と共に、生き続けたいために死ぬのである」と記す。