そしてこう思ったのだ。「障害児を産めばよかったのに」。私は確かにそう思った。一瞬のことで打ち消そうとしたけれど、私はこの醜い感情を持った自分に慄き、その瞬間を忘れることは不可能だった。私はそう、確かに思ったのだ。こっち側にきてみろ、と。

 私は幼い頃から障害者を差別する人間に嫌悪感を持っている。その頃は自分が障害者であるなんて思ってもおらず、ひとえに母親の教育に依るものだった。マルクス主義者の母は、人間は平等であるべきで、そのためにあなたはいつでも弱い者の味方をしなさい、と私に教えた。そして強い者と闘いなさい、と。ベルリンの壁が崩壊しても母の教育は変わらなかった。

 小学生のとき、聾(ろう)(聴覚に障害のあること)の児童がクラスにいた。その子と私は家族ぐるみで仲良くしており、よく家を行き来もしていた。

 ある休み時間に教室で自席に座っていたその子が、後ろの席に座る児童から頭を足で小突かれていたことがある。小突いていた児童は学年一体躯の良いサッカーのリトルリーグに所属するお坊ちゃんで、お金持ちの一人息子である彼がワガママ放題なことは学校中の者が知っていた。

◆障害者を差別していたのは

 私はそのお坊ちゃんが汚い上履きで聾の友人の頭を埃まみれにする有様を見て、なんとおぞましい光景だと憤慨し、私の毎週洗濯している美しい上履きのままお坊ちゃんの横っ面にドロップキックを思い切り喰らわせた。

 お坊ちゃんは怒り、ご両親と共に我が家に抗議に来たが、母は形式的な謝罪だけして私をさほど叱らなかった。私は教師たちに何故蹴ったのか問われても友人の誇りを守ろうと口を割らず、小学生なのに2日間の停学になった。私はそれでも自分が正しいことをしたと思った。ずっと、私は正しいことをしたのだと思っていたのだ。

 でも違った。私が障害者を差別していたのだ。私は聾の友人を弱者だと決めつけていた。お坊ちゃんを強者だとも。そしてその中間に自分を位置付け、より弱い者のために振るう弱者の強者への暴力を正当化した。

 聾の友人の家へ遊びに行くときに、特権的なあわれみを全く感じていなかったかといえば嘘になる。私はその友人が聾だったからこそ我こそはと仲良くしたのだ。そこに強者の優越がなかったとは言わない。私は欺瞞に満ちた優しさで障害者への差別を行ってきたのではないだろうか。そうでなければ、Uに瞬間とはいえあの醜い思いを抱くわけがない。

 Uの凡庸さは彼女が勝ち取ったものだった。彼女は女子大に入ってすぐ、私にこう言ったことがある。「女ってさ、パワーゲーマーじゃん。会った瞬間に勝ち負け決めて、それで付き合うんだよ」。私は然もありなんと、彼女の言語センスに頷くだけでそれが実際どういうものなのかあまり考えず「そうだね。そういうパワーの序列って下卑ているというか、ダサいよね」と彼女に同意を求めた。

 すると彼女は、「そうかな。負けてる方がよっぽどダサいと思うけど」と言ったのだ。その返答通り、彼女は日々晒されるパワーゲームに負けるまいと自らをカスタムし続けた。思えば幼少期からUは負けん気の強い子だった。

 だが賢さ故、明らかな勝ちを周囲に示すことはなかった。彼女は多くの女性たちの中で共有される価値観の中で、負けないが勝たないという一番聡い序列に自分を置いていた。

◆彼女を引き摺り下ろしたかった

 才気煥発(かんぱつ)とはこのことと私が舌を巻いていた彼女のユーモアは、大人になるに従って人を見下すジョークとなっていった。そのことを私は嫌がったけれど、私の欺瞞に満ちた優しさよりもそれはずっと場を盛り上げた。

 私は彼女やその周囲が共有する序列の最下層で、よく嘲りの対象となった。だが率先してピエロを引き受けた。それが進んで出来る自分は例外だという特権意識さえあった。