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 人類史において、新たなテクノロジーの登場が人々の生活を大きく様変わりさせた例は枚挙にいとまがない。しかし「発明(インベンション)」と「イノベーション」は、必ずしも輝かしい成功ばかりではなかった。本連載では『Invention and Innovation 歴史に学ぶ「未来」のつくり方』(バ−ツラフ・シュミル著、栗木さつき訳/河出書房新社)から、内容の一部を抜粋・再編集。技術革新史研究の世界的権威である著者が、失敗の歴史から得られる教訓や未来へのビジョンを語る。

 第3回では、「火星への移住」や「機械と人間の脳の接続」といった妄想に近い発明がなぜまことしやかに語られるのか、その背景にある現代社会の問題点について指摘する。

<連載ラインアップ>
■第1回 技術開発の“後発組”中国は、なぜ巨大イノベーションの波を起こすことができたのか?
■第2回 イーロン・マスクが提唱する高速輸送システム「ハイパーループ・アルファ」は、本当に実現可能なのか?
■第3回 「火星地球化計画」「脳とAIの融合」などの“おとぎ話”が、なぜ大真面目に取り上げられるのか(本稿) 
■第4回 自転車、電磁波、電気システム…現代文明の基盤を築いた“空前絶後の10年間”、世界を変えた1880年代とは?

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『』(河出書房新社)


 2017年、次のような予想が発表された。2022年には火星植民地化を目的とした最初の飛行がおこなわれ、その後すぐに火星を「テラフォーミング」する(大気をつくりだして居住可能な世界にする)準備をととのえ、やがては人類による大規模な植民地化が進むだろう、と。

 SFの設定なら、これは古くからあるネタで、独創性のかけらもない寓話である。実際、多くの作家がこの設定をとりあげてきた。なかでも、1950年に『火星年代記』を発表した作家のレイ・ブラッドベリほど、想像力豊かに表現した作家はいない。

 とはいえ、火星の植民地化は実際の科学技術の進歩の予測や説明としては、完全におとぎ話である。ところが、長年、メディアが大真面目に繰り返し報じてきたせいで、妄想にすぎない火星地球化計画がスケジュールどおりに進行しているかのような印象を与えているのだ。

 さかんにもちあげられているこうした発明の規模は大小さまざまで(火星地球化から神経回路の再編まで)、サイズの小さいほうの代表例が、機械と人間の脳をつなげる「ブレイン・コンピュータ・インターフェース」(BCI)だ。

 BCIはこの20年ほどで研究が進んできた技術で、特定の神経細胞(ニューロン)をターゲットにして、脳のなかに直接、小型の電子装置を埋め込み、脳とコンピュータなどとのインターフェースをとる(頭部やその周辺をいっさい傷つけずにセンサーを装着する非侵襲式の方法では、侵襲式ほど正確に脳の信号を読み取ることができない)ため、倫理的にも身体的にもさまざまな危険や不具合がともなうのは目に見えている。

 しかし、BCIの進歩に関するメディアの報道を読むかぎり、そうした事実はいっさい伝わってこない。

 これは私個人が感じた印象ではなく、2010年から2017年にかけて発表されたBCIに関する4000件近いニュース報道を詳細に検証した結果、得た結論である。その評決は明確だ。

 メディアは過剰に好意的な報道をしただけではなく、その大半がBCIの可能性についてとんでもなく誇張して表現する非現実的な推測だった(「聖書の奇跡が実現する」、「将来の活用法は無限大」)。

 それだけではなく、すべてのニュース報道の4分の1が、実現する見込みがきわめて低い極端な主張で占められていた(「ブラジルの東海岸の砂浜に寝そべったまま、火星の地表を移動するロボットを動かす」から「数十年後には不死が実現する」といったものまで)。かたや、こうした技術とは切っても切れないリスクや倫理上の問題についてはいっさい触れられていない。

「惑星を地球化する」、「脳とAIを融合させる」といった見込みを聞かされていれば、当然のことがら、こうした絵空事に比べれば地に足が着いているように感じられるイノベーションなら簡単に実現できるように思えてくる。たとえば近年、メディアは大々的に「2010年代には、完全な自律走行車が完成する」と、繰り返し報じてきた。

 いわく、2020年には人間がいっさい操縦する必要のない車がいたるところを走行し、運転者は走行中に本を読んだり、睡眠をとったりできるようになる。また、いま路上を走っている内燃機関を利用した車は、2025年にはすべて電気自動車に取って代わられるという報道もあった。

 この予測は2017年にはほぼ達成されたとして、またもや広く報道された。だが、現実を確認してみよう。2022年の時点で、完全な自律走行車は存在しない。世界の道路を走っている14億台の自動車のうち、電気自動車は2%ほどだが、じつのところ「グリーン」でもない。

 走行に必要な電力の大半を化石燃料の燃焼から得ているからで、2022年には、一般的な電力の約60%が石炭と天然ガスの燃焼によって得たものだった。

 そしていまごろはとっくに人工知能(AI)がすべての医療診断を引き継いでいるはずだった。なんといっても、コンピュータはすでに世界最強のチェスプレイヤーだけではなく、最強の囲碁棋士までも打ち負かしたのだから、IBMが開発した〈ワトソン〉のようなAIがすべての放射線診断医の職を奪うのは、それほどむずかしくないと思われたのだ。

 だが、現実を見てみよう。2022年1月、IBMはワトソン・ヘルス事業の一部を売却し、ヘルスケア事業から撤退することを発表した。どうやら、医師はまだ重要らしい! また医療のデジタル化に関しては問題が山積していて、もっとも単純な作業であるカルテの電子化でさえ悪影響がともなう。

 スタンフォード大学医学部の研究者による2018年の調査によれば、回答した医師の74%が、電子健康記録(EHR)システムを導入すると仕事量が増えると感じていた。さらに重要なことに、電子カルテ作成に時間を割かれるせいで、患者に対して実際に診察する時間が減っていると、医師の69%が述べている。

 また電子カルテを利用すれば、個人情報をハッカーに盗まれるリスクが生じる(病院への度重なるサイバー攻撃は「患者が診察料を支払うシステムを再開させたければカネを払え」と恐喝するのがいかに簡単であるかをよく物語っている)。そもそも、使い勝手の悪いシステムほどイライラさせられるものはない。

 なぜ、医師と看護師は例外なく驚異的な能力をもつタイピストにならざるをえないのだろう? 不調を訴える患者ではなく、パソコン画面に目を釘付けにしている医師を生む新たな医療モデルのどこに賞賛すべき点があるのだろう?

 こうしたリストはじつに広い範囲を網羅していて、リアルな3次元仮想空間で(アバターとして)新たな人生を歩めるようになるという稚拙な約束もある。この種の妄想が広がっていることをよく 示す証拠は、2021年にフェイスブックが社名を「メタ」に変更したことだろう。

 人々がいずれ仮想空間(メタバース)での暮らしを好むようになると思い込んでいるのだ(このような推論をするにいたった考え方を表現するうえで適切な形容詞は見つからないが、この行動の説明にふさわしい名詞は「妄想」だろう)。

 もうひとつの「妄想」の明確な候補は、CRISPRという遺伝子工学のテクノロジーで可能になる驚異の技術で、標的とするDNAの配列を改変するゲノム編集技術だ。だが、盛んにあおりたてる報道を見ていると、遺伝子改変が可能な世界が目の前にあるように思えてくる。

 そもそも、中国の遺伝子学者たちはすでに「ゲノム編集ベビー」を誕生させていたのに、イノベーションに理解がない官僚から待ったをかけられていたのではないだろうか? それに、もうひとつ、近年の例を挙げよう。資産運用会社フランクリン・テンプルトンの2022年の広告は、「自分の服を育てる〔訳注:微生物で生地をつくる技術を利用する〕のが、自分の車を印刷するのと同じくらい簡単だったら?」と尋ねている。

 どうやら、3Dプリンターによる車の完成品の製造(実現していない)を、いまでは簡単に実現できる商用化の代表例と考えているらしい。だが2022年の時点では、大手自動車メーカーでさえ、生産ラインに必要な材料やマイクロプロセッサの調達に四苦八苦している。車を自宅のプリンターで製造できるはずがない!

<連載ラインアップ>
■第1回 技術開発の“後発組”中国は、なぜ巨大イノベーションの波を起こすことができたのか?
■第2回 イーロン・マスクが提唱する高速輸送システム「ハイパーループ・アルファ」は、本当に実現可能なのか?
■第3回 「火星地球化計画」「脳とAIの融合」などの“おとぎ話”が、なぜ大真面目に取り上げられるのか(本稿) 
■第4回 自転車、電磁波、電気システム…現代文明の基盤を築いた“空前絶後の10年間”、世界を変えた1880年代とは?

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筆者:バーツラフ シュミル,栗木 さつき