魚住りえアナ

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高校時代からアナウンサー志望

第1回【元日テレ・魚住りえアナ 私が「ボイストレーナー」ではなく「デザイナー」と名乗っている理由】からの続き

 元日本テレビアナウンサーで、現在は話し方の「デザイナー」としても活躍する魚住りえさん(52)。日テレ時代は、「ジパングあさ6」「所さんの目がテン!」などの人気番組を担当した。バラエティー番組では、“ものまね”を披露したこともがあったが、当時について「本当に楽しかった」と振り返る。ただ、実は苦手だった番組もあったという。(全4回の第2回)

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【写真】当時から「圧倒的な美少女」だった…高校、大学、日テレ時代の魚住りえアナ

 アナウンサーになる夢を持ったのは高校時代からです。放送部に入部し、NHK放送コンテストの全国大会に出場して3位に入りました。高校生の頃から「読む、話す」ことに対する関心は高かったです。

魚住りえアナ

 地元は広島でしたが、大学は、東京か大阪に行きたかった。ただ、現役では志望校に入れず、一浪しました。アナウンサー、声優さん、ラジオのDJに憧れました。とにかく、声にまつわる仕事がしたかったんです。大学では、放送研究会に入り、アナウンス技術を磨きました。

 就職活動は普通に大学の掲示板を見て、始めました。アナウンススクールなどに通ったりはしませんでした。テレビ局を中心に受けたのですが、フジテレビが最終のひとつ前で落ちて、TBSが最終までいって落ちて、その直後に日本テレビから内定をいただき、そのまま就職を決めました。

 私なんかが受かるわけがないと思っていたので、採用してくれる局があればどこにでもいくという思いでした。試験が進むにつれて「背も低いし、周りに比べたら地味で目立たないし、でも何故か残ってる」と驚きの連続でした。後で聞いたら「原稿読みで即戦力になるから残した」ということでした。高校の時のアナウンスメントの猛練習のお蔭です。それでもオーラや華のあるアナウンサーを見たら、ホントに運よく引っかかったなと、今でも思います。

 テレビ局で実際に働いてみたら、想像以上に肉体労働でした。当時については、色んな先輩方がインタビューで話されていますが「寝られない、食べられない、追い詰められる」という感じです。睡眠欲と食欲が満たされない状況で、朝から晩まで人前に立っていました。いつも笑顔でいられるわけもなく……収録中に思わず寝落ちしそうになったこともありました。

 新入社員のころは、朝5時からの生放送を担当していたので、毎日2時に起きていました。3時半には、アナウンス部に着いて、お掃除をして、先輩たちの机を拭いて、コーヒーやお茶類をセットして、届いた新聞を取りに行って……。その後、打ち合わせがあり、メイクをして、本番でした。

20代だから乗り切れた

 番組が終われば、1時間くらい反省会があって、朝食の後はロケや番組収録、ナレーション撮りなどがありました。帰るのは夜9〜10時ごろ。お風呂に入って3、4時間寝たら、起きて会社に行って。肌はボロボロで、たいてい風邪気味でした笑。土日に休みがあれば、倒れるように2日間ずっと寝ていましたね。20代だから乗り切れたんだと思います。

 一方で、バラエティー番組では歌って踊って、奇抜なメイクで、カツラを被ってものまねをしたり、「所さんの目がテン!」では毎週オープニングコントをやっていました。いろんな捉え方があると思いますが、そうした仕事は私にとって本当に楽しいものでした。気分転換というと失礼かもしれないのですが、何かを表現したり、楽しませたりすることが、性格的にあっていました。

「笑点」では着物を着せてもらって、大喜利もしましたし、師匠たちとロケに行って一緒にラーメンを食べて、プリクラを撮ったりと、とても貴重で幸せな経験をさせて頂きました。

 日本テレビにはただただ、感謝しかありません。あの時小さくまとまっていたら、ダメだったという気がします。若い時って、もうこれでもかというぐらいに自分をバーンって出したほうがいい。

 入社して上司に言われた言葉が「小さくまとまらないこと」でした。原稿に目を落として、「続いてのニュースです」というキャスターはかっこいいけれど、かしこまった仕事は、年齢を重ねた後でもやれること。「今、はじけるように若いあなたたちができることは、むしろアナウンサーという枠を越えて、みんなに喜んでもらうこと。若い今しかできない」と教えてもらいました。

 その言葉通りに、私はアナウンサーという枠を越えて、色んなことをやらせてもらいました。大きくしたものを、小さくするのは簡単ですが、小さくまとまったものを、年を取ってから大きくするのは大変だと思います。その点、私は恵まれていました。

 ただ、苦手だった番組もありました。スポーツ実況がとにかく不得意で……。駅伝の実況とかもやりましたが、うまくできなかった記憶があります。テレビを見ずに、ピアノしか弾いてこなかった子供時代でしたから、スポーツのことはよくわかりませんでした。

とにかく毎日、全力疾走

 そのことは制作サイドも見抜いていて、バラエティーで色んな“オファー”をしてくれたのかもしれません。

 所(ジョージ)さんの前でハゲヅラをかぶって踊ったり、(ビート)たけしさんの前で「鬼瓦権蔵」になって(たけしさんの代表的なキャラクター)「冗談じゃないよ」と言って、ハリセンで頭を叩かれたりして…嬉しかったなあ。

 ある意味、自由で恵まれた時代だったと思います。

 宇多田ヒカルさんのものまねでは、大きな赤いセーターを着て「Automatic」を踊りながら歌い、鈴木亜美さんのものまねでは、思い切ってショートボブに髪を切って、大きなスタジオで「BE TOGETHER」を歌いました。

 とにかく周りのみんなに楽しんでもらうことがうれしかったし、本当に楽しかった。家族は「ニュースで原稿を読んいでるときよりも、歌ってものまねしてるほうが、りえらしい」とも言っていました笑。

 振り返ると20代は、大学卒業後にいきなり日本テレビという大きな会社にアナウンサーとして入社し……右も左もわからないまま、とにかく毎日、全力疾走していました。

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 第1回では、魚住さんが「アナウンサー」と「デザイナー」の二足のわらじを語る。

魚住りえ
1972年、大阪府生まれ、広島県育ち。95年日本テレビに入社。「ジパングあさ6」「所さんの目がテン!」などを担当。2004年に日本テレビを退社し、フリーで活動する。著書に『たった1日で声まで良くなる話し方の教科書』など。

デイリー新潮編集部