T. Etoh

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カルロ・アバルトによって設立されたAbarth & C. S.p.A.は、2024年に創業75周年を迎えた。今でこそステランティス傘下の1ブランドであるが、その輝かしい歴史については今更語る必要もないほどの名ブランドである。勿論自身が情熱家であり、商才にも溢れていたカルロ・アバルトだが、ヨーロッパの名だたるブランド、アルファロメオ、フィアット、ランチア、さらにはドイツのポルシェ、そしてフランスのシムカなどとのコラボレーションからやはり素晴らしい車を生み出したことは偉業であると言えよう。

【画像】イタリア語でツインシャフトを意味する「ビアルベロ」という名をもつアバルト1000ビアルベロ(写真7点)

そこで考えるのは、一体アバルトは何によって知名度を上げたのかという点である。元々モーターサイクルライダーとして才能を発揮し、20代の頃は5回もヨーロッパ・チャンピオンに輝くほどの実力者であった。しかも、この偉業はワークスサポートを受けて成し遂げたものではなく、自らの手作りバイクによって成し遂げられたものであったからその偉大さはなおさらである。しかし、1939年のユーゴスラビアにおけるレースで死にかけるほどの大事故に遭遇し、1年間病院で過ごす羽目になった。これがひとつの転機になった。ライダーとしてのキャリアは終了したものの、始まった戦争中は病院のあったユーゴスラビアにとどまり、リュブリャナという現在のスロベニアの都市でワークショップのマネージャーとして働き、ここで商才を身につけたようだ。そして戦争が終わると間もなくイタリアに戻り、そこからの活躍は知られるところである。

元々一人でヨーロッパ・チャンピオンになるほどのバイクを作り上げてしまう技術者としての才能と詳細を活かし、彼が作り上げたプロダクトのひとつにアバルト・マフラーがある。彼の創り出したエクゾーストシステムは、高価だったがその品質の高さと性能により、数年のうちに全世界で26万ユニットものエクゾーストシステムを販売し、これを原資としてレース活動や車両開発を進めたのである。そして1958年にはアメリカ大統領の息子フランクリンルーズベルトJrが、アメリカにおけるアバルトの製品販売の代理店契約を結んだのだから、ある意味で成功は約束されたようなものだった。そして1958年はアバルトにとってもうひとつの飛躍のきっかけがあった。それはフィアットがチンクェチェントを世に送り出したことだ。アバルトの大成功はこの辺りから始まる。

今回紹介するのはアバルト1000ビアルベロである。ビアルベロとはイタリア語でツインシャフトを意味し、それはツインカムの代名詞のようなものである。この名前のモデルが誕生したのは1960年のこと。当時アバルトはザガートと良好な関係を結んでいたが、ザガートの工場がミラノにあることで、トリノとミラノの間で納期の遅れや、今と違う通信環境では問題が生じ、ボディ制作をコルナと呼ばれる小さなカロッツェリアに任せることで解決した。因みにコルナは今もサルディニア島で存続している。この1000ビアルベロは、同じ名前でも頭が痛くなるほど数多くのバリエーションが展開され、元々コルサの名を持つレーシングカーとして登場したものだから、年を追うごとにボディもエンジンも変更が重ねられたのもそのバリエーションを多くする一因だった。1960年に排気量982ccで登場したツインカムエンジンは、2基のウェーバー36DCL4キャブから84bhpを得ていたが、1963年に登場する1000ビアルベロGTと呼ばれたモデルでは、排気量も圧縮比も同じながら2基のウェーバー40DCOEキャブレターを採用して102bhpにまでその出力が高められていた。

また、ビアルベロはレーシングカーに与えられた名前で、それをロードカーに転用したモデルではモノミッレと呼ばれていた。因みにモノミッレはイタリア語で1000を意味する。