「ルフィ強盗団」山田李沙受刑者の獄中告白「新宿・歌舞伎町の風俗店からフィリピンへ」

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罪の意識は「希薄だった」

広さ3畳ほどの面会室でアクリル板を挟んで向き合った彼女の表情は「邪悪だ」とネットで揶揄(やゆ)された逮捕時よりもいくぶんか穏やかに映った。刑務所内には異様な熱気がこもり、嫌な手汗が吹き出す。私の顔を見ながら受刑者はこう嘯(うそぶ)いた。

「ビクタン(収容所)よりマシですから」

声の主、山田李沙(27)は総額60億円以上を騙し取った「ルフィ事件」の特殊詐欺グループの中で、ナンバーワンのかけ子だった。彼女は組織の末端からスタートし、その仕事ぶりでグループ内での地位を上げていく。幹部の渡邉優樹や、藤田聖也(としや)、小島智信らとの交流も深かった。

ルフィの一味は、幹部らが「闇バイト」として集めた手下にフィリピンから指示を飛ばし、強盗を行う組織へと凶悪化する。’23年1月には東京・狛江市で90代の女性が死亡する強盗致死事件を起こし、日本中を震撼させた。

この時、山田はフィリピンのビクタン収容所内で、渡邉や幹部の今村磨人(きよと)らが「やっちゃったよ、これ、マズいっしょ」「死ぬとは思わなかったけど、ちょっと待って!」と慌てふためく様子を間近で見ていた。

山田は’23年1月に現地で拘束されると3月に日本へ強制送還されて窃盗容疑で逮捕。その後、窃盗罪や強盗予備罪で起訴された。今年2月に行われた公判では、幹部らの脱獄計画など当時の様子を克明に証言している。事件を取材する私の知人の新聞記者は、驚きをもってこう心情を漏らした。

「事件細部の告白に迫力がある。いったい彼女のエネルギーの根底には何があるのか――」

事件の証人としてだけではなく、山田の人間性に私は強い関心を持った。その後、東京拘置所で勾留中だった山田と、手紙のやり取りが始まった。3ヵ月弱で、その数は100枚を超えた。グループの犯罪手法を自叙伝的に描いた4冊の小説も託された。

そんな過程を経て北海道の某刑務所で言葉を交わしたのが冒頭の場面だ。彼女は私の前で後悔の念を繰り返し口にした。

「フィリピンではかけ子として3年半で6億円を詐取しました。私が知る限り、フィリピンには200人超のかけ子がいましたが、こんなに稼いだ人間はいません。『伝説のかけ子』として、界隈ではちょっとした有名人でした。犯罪に手を染めているという意識は希薄だった。ほとんどのメンバーがそうでした。捕まった幹部も今は反省していなくても、いつかきっと反省する日が来ると信じています。私が話すことで、少しでも犯罪の抑止に繋がれば、と今は感じている。私の知っていること、すべてお話しします」

山田は、いかにしてルフィ一味の伝説のかけ子となったのか――。背景を知るには、彼女の半生を振り返る必要がある。

「私が生まれ育ったのは、埼玉県・川越市。2歳で父を亡くしてから、体が弱く生活支援が必要な母と二人で暮らしてきました。正直、生活は極貧でした。私は小学校6年生から、イジメが原因で不登校になります。理由は貧乏で、家がボロボロだったから。毎日貧乏と言われ続けました。中学に上がるとイジメはより過激になり、暴力を振るわれて膝の靭帯を損傷しボルトを入れた。リハビリに1年を要し、小さい頃の夢であった水泳選手も諦めるしかなかった。自己肯定感が極端に低い子供でした」

高校は川越の定時制高校に進学した。この頃から、山田の生活は荒れ始める。

「定時制高校に進学し、環境が変わってイジメから解放されると、毎日学校に通えるようになりました。ただ、私の行動の根底にはずっと″とにかくお金を稼がないといけない″という強迫観念があったのです。定時制高校で真面目に勉強したとて、まともな就職先はないと悟った。とにかく極貧から抜け出したくて高校時代に援助交際を始め、土日だけで12万〜13万円を稼いだ。18歳になると、川越のキャバクラやおっぱいパブで働きだしました。風俗店で働くこと、売春で稼ぐことに全く抵抗はなかった。私のような人間が稼ぐには、こんな方法しかないと理解していたので……。それでも、ナンバー2や3を行ったり来たりで、なかなか1位を取れないことが悔しかった」

売春も犯罪も「同じ」

高校を卒業して1年が経つと、山田は慣れ親しんだ川越から離れることを決意する。新天地に選んだのは新宿・歌舞伎町だった。

「卒業後、新宿の箱ヘル(店の中にある個室でサービスを提供する風俗店)で1年間働きました。売れっ子になり、少し自信がついた。その後、出稼ぎデリヘルで働いておカネを貯めては、1ヵ月遊ぶという生活を繰り返します。月に約150万円稼ぎ、そのお金はホストクラブや美容に注ぎ込んだ。ホストでは指名はせずに、毎回初回料金だけで遊ぶ。300店以上周り、接客してくれたホストとセックスしまくりでした。今思えばどれだけヤるんだよ、と(笑)。

服装は普段着でも3万〜4万円のドレスにピンヒール。赤いリップに外国人風のメイクにこだわり、SNSでも実生活でも『可愛い』と言われる機会が増えた。この頃には、『私をいじめていた奴等を見返せるほどキレイになった』という感覚になっていました」

快楽に満ちた日々を3年ほど過ごす一方、「こんな生活が長く続くわけはない」という危惧もあった。’19年の9月、ふとした折にTwitter(現・X)で「闇バイト」の募集を見つけた。

「いつまでも若くない。『このまま、一生うまくやってはいけない』と考えるようになっていた。売春で生活するのも、犯罪で生活するのもあまり変わらない、と当時は思っていたので、闇バイトに抵抗はなかった。私は、仕事は実力主義だと思っていたため、固定給の仕事は合わないと感じていた。それに仕事を変えるからには、毎月200万円以上は稼がないと意味がない。カネ持ちになるために、私の中で残った選択肢が『かけ子』でした。普通の仕事ではなく、犯罪で稼ごうと安易に考えていたのです」

リクルーターと連絡を取り合い、山田はフィリピン行きを決意する。条件は破格に思え、闇バイトの応募者が急増しているのも理解できたという。

「私の所属したA箱(特殊詐欺グループの総称)は当時、マニラのウエストマカティホテルを拠点にしていましたが、ホテル代、交通費は全額支給。1000万円詐取したら、100万円バックという条件でした。加えて箱全体の売り上げに応じて、全員にボーナスが支給されました。私の所属していたA箱のボスは渡邉さん。渡邉さんは、『みんなで稼ごう』という意識をグループに植え付けていったのです。仕事に必要なものは、携帯電話のみ。私はかけ電用で2台、リクルート用の3台に、業務連絡用の2台を所持していた。加えてマルチタイプの充電器に、置き型Wi-Fi、デスクトップPCにタブレット1台が仕事道具でした。アシがつきにくいよう、SIMカードは月に5〜8枚ほど替えていましたね」

グループ内では、原則偽名で活動したという。山田が選んだ通り名は「五十嵐」だった。これは山田が拘置所で執筆した実録小説『裏社会の女』の主人公の名前でもある。

「渡邉さんはハオ。藤田聖也さんはオオノ。小島智信さんは、エイト。時にワンとも名乗っていました。幹部はなぜかカタカナを好んでいた。

箱では『売れない人間に価値はない』という見られ方をしていました。私は一日に300本以上も電話をかけまくった。結果、箱で一番の″売り上げ″を叩き出すようになり、幹部達から『俺達はお前を尊敬している』と褒めてもらった。人生でそんな経験がなかったので、正直嬉しかったです。

私には『やるからにはナンバーワンになる』という覚悟もあった。特に渡邉さんにはよく褒めてもらい、可愛がってもらいました。そんな記憶も重なり、私の人生ではじめて肯定された別人格『五十嵐』を気に入っていたんです」

山田が渡航してわずか2ヵ月後の’19年11月、ウエストマカティホテルを拠点とするかけ子36人がフィリピン当局に逮捕されるという事態が起きた。山田は摘発を逃れたが、この出来事によりグループの秩序は乱れ始めていく。

「あの摘発以降、グループの在り方が大きく変わりました。’20年の3月から10月までA箱の拠点はボラカイ島に移った。この時期はコロナ禍で売り上げも立ちにくく、箱では食べるのに困るかけ子も出てきた。幹部のことを裏で『あいつら』と呼び捨てするかけ子も出てくるなど、体制への不満が募っていきました」

自身をはじめて肯定してくれた幹部へ感謝の気持ちを抱く反面、箱に亀裂が入っていく様を、山田は複雑な心情で眺めていた。

(文中一部呼称略)

栗田シメイ(ノンフィクションライター)
’87年生まれ。スポーツや経済、事件、海外情勢などを幅広く取材。著書に『コロナ禍を生き抜く タクシー業界サバイバル』。『甲子園を目指せ! 進学校野球部の飽くなき挑戦』など、構成本も多数

『FRIDAY』2024年7月19日号より

取材・文:栗田シメイ(ノンフィクションライター)