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NHK大河ドラマでは「桶狭間の戦い」や「関ヶ原の戦い」など、大名間での存亡をかけた合戦が描かれてきました。しかし歴史学者・渡邊大門先生によると「他国の大名だけでなく、親子や兄弟、家臣との抗争も同じくらいに重要だった」そうで――。そこで今回は、渡邊先生の著書『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』から「武田信虎・信玄親子」についてご紹介します。

【書影】身近な者同士が命懸けで戦った…戦国大名の本質に鋭く迫る。渡邊大門『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』

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信虎は悪人だったのか

天文10年(1541)6月14日、信濃国から本国に帰国した武田信虎は、娘婿である今川義元と面会するため駿河国に赴いた。

ところが、信玄は甲斐国と駿河国の国境を封鎖し、信虎が帰国できないようにした。行き場を失った信虎は、義元のもとでの生活を余儀なくされる。

こうして信玄は譜代の家臣の支持を受け、父の代わりに武田家の当主の座に就いたのである。以上の流れが、信虎追放事件の概略である。

信虎が追放された理由は、おおむね次の五つに集約される。

(1)信虎が悪逆無道であったため、領国支配に失敗した。

(2)今川義元と信玄による共謀。

(3)信虎と信玄の合意に基づき義元を謀ろうとした。

(4)信虎のワンマン体制に反対し、信玄と家臣が結託して謀反を起こした。

(5)対外政策をめぐって、信虎と家臣団が対立した。

信虎の悪行説

もっとも理由が明快な(1)説を検討することにしよう。

『勝山記』には、「この年(天文十年)六月十四日に武田大夫様(信玄)、親の信虎を駿河国へ押し越し御申し候、(中略)信虎出家めされ候て駿河に御座候」と書かれている。

この記事によると、信玄に追放された信虎は、駿河国で出家したらしい。

しかし、実際に信虎が出家したのは、復権を断念した天文12年(1543)頃といわれ、法名は無人斎道有である。

信虎が追放された理由は、先に触れたとおり「悪行」であった。信虎が出家をしたというのは、甲斐での復権を断念したということになろう。

同じく『塩山向嶽禅菴小年代記』には、「辛丑(天文十年)六月中旬(信虎が)駿府に行く。晴信、万民の愁いを済まさんと欲し、足軽を河内境(甲斐と駿河を結ぶ街道)に出し、その帰り道を断ち、(信玄が)即位して国を保つ」とある。

駿河国から甲斐国に至る道が封鎖されたので、信虎は帰国できなくなった。その直後、信玄は武田家の当主の座に就いたのだ。

すでに述べたとおり、信虎は悪逆無道の人物であったため、信玄が民衆らの期待に応えて、信虎を放逐したということになろう。

『塩山向嶽禅菴小年代記』には、このあとに続けて甲斐の民衆は大いに喜んだと記されている。つまり、信玄は悪政を行った信虎を追放し、自らが後継者となったのである。

信虎の悪行説は非常にわかりやすいが、その反面あまりに理由が単純すぎて、かえって真実味に欠ける側面がある。

信虎はかわいがっていた猿を家臣に殺されたので、その家臣を手討ちにしたという話まである。悪行説は、信玄が信虎を追放した理由を民衆の感情に押し付けた印象が強い。

さらに、民衆の期待に応えて信虎を追放したというストーリーは、信玄の正当性を担保するための後世の配慮のように思えなくもない。

本当に信虎は、悪逆無道な男だったのか。

義元と信玄による共謀?

他の説はどうなのか。

(2)説は『甲陽軍鑑』に記載されているが、いささか荒唐無稽であり、現実味に欠ける。

そもそも信虎は嫡男の信玄を嫌悪しており、次男の信繁(のぶしげ)に家督を継がせようとしていたという。信玄は、下手をすれば廃嫡の危機にあったといわれている。

(2)説には、親子不和の逸話が影響しているのか。仮に、信玄が今川氏と共謀していたならば、信虎を殺害するのが妥当だろう。

(3)説は『甲斐国志』に載る説であるが、その後の情勢を勘案すると、決して首肯できるものではない。荒唐無稽である。

信玄が義元を陥れようとするならば、すぐに駿河国に攻め込むなり、あるいはのちに信虎の帰還を認めるなり、何らかの措置をするはずである。

その後の動きを勘案すると、(2)(3)のような陰謀説は、創作性が高いように感じられてならない。(2)(3)の説はおもしろいが、退けるべきだろう。

現実味がある信虎と国人(こくじん)・家臣との確執

その点で、(4)(5)の説は、現実性の高い見解であると考えられる。

そもそも信虎配下の国人たちは、それぞれが自立性が高く、決して完全な配下にあったわけではない。いうなれば緩やかな同盟関係といえよう。


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つまり、信虎の態度如何によっては、離反する可能性が高かったのである。それは武田氏だけではなく、ほかの大名も似たような環境にあった。

戦国時代において、家臣が当主とは別人(兄弟や子)を擁立し、当主を追放する例は少なからずあった。大名家中における家臣団の意向なりは、かなり尊重されたのである。

一般的にいえば、新しい当主を定めるときは、家臣の合意が必要だったのだ。家臣の意向に反して、希望していなかった人物が当主に擁立されると、家中が二分し対立することも決して珍しくなかった。

当時、信虎は領土拡大策を採用しており、国人たちは従軍を余儀なくされた。その軍事的な負担は、当然ながら国人の肩に重くのしかかってくる。

同時に、信虎による棟別銭(むなべちせん)(家屋にかかる税金)の賦課(ふか)なども、国人にとって不満の種であった。

当主が国人・家臣らの信頼を失うと、たちまち窮地に陥ることも珍しくなく、国人や家臣の心は徐々に信虎から離れていったのである。

信玄が単に「父憎し」という思いから、単独で行動を起こすことは考えにくい。いかに今川家と姻戚関係にあるとはいえ、義元と結託するのも現実的ではないであろう。

家督をめぐる問題は、あくまで武田家の問題であるが、信玄の一存では決めかねる重大な問題であり、家臣の意向も重要だった。

結論を言えば、信虎に不満を持つ国人・家臣らの突き上げにより、信玄が父を追放せざるを得なかったというのが実情ではなかったか。

実際には、信玄が国人・家臣に推戴され、父を今川家に追いやったといえよう。いかに信玄とはいえ、国人・家臣らの支持がなければ、信虎の追放劇は成功しなかった。

生涯の汚点

信虎の追放劇は、信玄にとって生涯の汚点となった。

ライバルの上杉謙信が弥彦(やひこ)神社(新潟県弥彦村)や武水別(たけみずわけ)神社(長野県千曲市)に捧げた願文には、信玄が実父の信虎を追放したことは人倫に背くことであると記されており、手厳しく非難された。

信玄には信虎追放の理由があったに違いないが、それは一切考慮されなかったのだ。

しかし、信虎を追放することによって、武田家中はいっそう連帯感を強め、さらに発展を遂げた。

信玄の判断は、正しかったのである。

※本稿は、『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(星海社)の一部を再編集したものです。