45歳のとき、20年勤めた大企業・デンソーを早期退職した畔柳茂樹さん。ブルーベリー農園『ブルーベリーファームおかざき』を開業し、売上5000万円達成。今では、ひと夏に1万人が訪れる地域を代表する観光スポットとなっている。

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 そんな畔柳さんは、なぜ大企業を辞める決意をしたのか。会社員時代、どんな苦悩や葛藤を抱えていたのだろうか。ここでは、畔柳さんの著書『会社から逃げる勇気 - デンソーと農園経営から得た教訓 -』(ワニブックス)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)


畔柳茂樹さんが20年勤めた大企業・デンソー ©時事通信社

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もう組合は守ってくれない…課長になったら地獄だった

 2003年1月課長に昇格。本来は昇格したのだから嬉しいはずだが、私に限ってはまったくそんな気持ちは微塵も感じなかった。前年から仕事内容が大きく変わり、ただでさえ要領がつかめず、あたふたすることが多かった中での昇格であり、またその仕事柄、年初から3月いっぱいが猛烈な忙しさであることがわかっていたので、嬉しいどころか顔が引きつった状態で2003年の新年を迎えた。

 さて、新年早々から3月頃までどんな生活だったのかをお伝えすると、出社は遅くとも8時前、部下の誰よりも早く出社し、帰るのは誰よりも遅く22時前に帰れるようなことはまずなかった。それでも土日に2日休めればいいが、たまっている仕事を片付け、今後の方針など整理しようとすると、どうしても土日のどちらか1日は出社せざるを得なかった。2月になって仕事量がクライマックスになったときは、土日返上が3週間ほど続き、とうとう26日間連続勤務となってしまった。その年齢になって、最長の連続勤務日数を更新するとは思わなかった。

 管理職になると労働組合の組合員ではなくなるので、もう組合は守ってくれない。だから労働時間の規制はなく無限に働いても構わない。よくニュースになっている“過労死”が他人事ではないと感じるようになった。

 その頃から、妻に自宅から会社に出かけた時間と帰宅した時間の記録をつけておくようにお願いした。万一、過労死したらその記録をもとに労災認定してもらえるようにするためだ。事態は切迫していた。

長時間労働を余儀なくした3つの要因

 今振り返って思うと、IT化で効率化する一方で、仕事量を増やし長時間労働を余儀なくさせる次の3つの要因があった。

 1つ目はグローバル化。平日であれば、世界中のどこかの支店や工場は稼働している。本社としての海外拠点のサポートやオペレーション業務は無限にある。わかりやすい例でいうと、米国と仕事が始まると時差が昼夜逆転しているので、直接電話で話すとなると早朝か深夜でなければコンタクトできない。メールだけで仕事が進んでいけばいいが、そんなにすんなりいくことはまずない。だからどう考えても役職にかかわらず長時間働かざるを得ない状況に追い込まれる。

 2つ目は、残業規制。以前はタイムカード管理でゆるやかで弾力的に運用していたが、IDカードで入退場時にスリットするコンピューター管理方式に変更になったことで、融通がきかなくなった。たとえば繁忙期の残業時間の一部を閑散期に回すということができなくなった。

 これによって何が起こるかというと労働基準法の範囲内で仕事が片付かなくなる。それではどうするのか、答えは残業規制のない管理職があふれた仕事を引き取って深夜か休日にこなすしかない。

 3つ目は、部下との対話重視。昔は上下関係が絶対的なもので上意下達が当たり前だった。だから課長が言ったことは絶対で、問答無用でつべこべ言わずにがむしゃらにやるしかなかった。だがいつの間にか、目的や理由をしっかり部下に説明して納得してやってもらうように世の中が変わった。部下との面談も必ずやるようになった。これは良い方向に変わったわけだが、上司にしてみれば、今までやっていなかったことに時間をかけてやるわけで負担は増える。

 さらには、ネットで何でも調べられる時代になって、上司の過去の経験がいとも簡単にネットで検索されてしまうようなご時世になってしまった。だから経験年数が長い管理職だからといって威厳を振りかざすようなことはできなくなった。私が新入社員だった30年前と比べると今の中間管理職は、より過酷な労働環境に置かれていると言って間違いないだろう。電通の新入社員の過労死が話題になったが、平社員もキツイが管理職も相当厳しい労働環境にあるはずだ。

明るい未来が描けない、見通せない生活に絶望する

 課長になって2年はがむしゃらに目の前の仕事を全力で取り組み、職責をまっとうしようと必死だった。その日その日を何とか乗り切ることに精一杯で決して戦略的、計画的に仕事ができたわけではない。従って充実感や達成感などまったくなかったし、プライベートな自分の時間もほとんどなく、未来に希望の光が見えない生活だった。また当時の上司(部長)との折り合いも悪く、パワハラのような扱いを受けることもあった。

 課長になって3年目、多少なりとも精神的にゆとりが生まれるようになった。普通なら喜ばしいことだが、事態はむしろ深刻になった。今まで忙しすぎてゆっくり考える暇がなく気にならなかったことが、気持ちに余裕ができると同時に気にかかるようになり、考え込む日々が続くようになった。いつも頭に浮かんでくるのは、

〈 自分は会社にとってかけがえのない存在か

 自分の会社生活に未来はあるのか

 自分は一体何のためにこんなに猛烈に働いているのか

 自分はこんなに仕事ばかりするために生まれてきたのか〉

 すぐに答えのでないような問いが頭の中で堂々めぐりしていた。

 そしてもう少し現実的な問題として次のようなことも考え、感じていた。それは、この先出世してもせいぜいもう1ランク上の昇格、昇給するくらい。そこまでは可能でも、現在の自分の序列を考えると、さらに上に登っていける可能性は極めて低い。

 また周りを見回しても「この人のようになりたい」という理想的な上司は皆無だった。この先の会社生活は、まるで真っ暗闇の中を手探りでさ迷い歩いていくような感覚にとらわれた。

眠れない日々が続く

 そんな自分の未来のことを考えては不安に押しつぶされそうになることが頻繁に起きるようになった。答えのない問いを悶々と考える日々が続いて、いつの間にか、眠れなくなっていた。正確に言うと寝つきは悪くなかったが、早朝4時くらいにパチッと目が覚めて、もういくら眠ろうとしても眠れない悪い生活習慣が常態化してしまった。

 早朝に目が覚めて布団の中で考えることは、その日にやらなければならない仕事のことはもちろん、人間関係の悩みや、自分のこれからの行く末など暗いことばかり。これが私から活力を確実に奪っていった。眠れないまま6時の起床時間を迎えることになるが、体が重く、出社して自分のデスクに座る頃には、もうくたくただった。これでその日の生産性が上がるわけもなく、暗くどんよりした1日が始まるのだった。

「このままでは自分が壊れてしまう」デンソーの課長就任→過酷すぎて“うつ病”に…大企業から独立した男性が、退職を決意した“決定的理由”〉へ続く

(畔柳 茂樹/Webオリジナル(外部転載))