道長の母、時姫はどんな一族の生まれなのでしょうか。そして時姫が聞いたある予言とは。写真はえさし藤原の郷(写真: 魚紳 / PIXTA)。

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は藤原道長の母、時姫の一族と、時姫自身のエピソードを紹介します。

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藤原道長は966年に、藤原兼家と藤原中正の娘・時姫のもとに生まれました。兼家は「藤原北家」(藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする家系)の生まれです。

時姫の父・中正も「北家」の出身ではありますが、藤原房前の5男・魚名に連なる家系(魚名流)であり、傍流でした。

道長の母・時姫の一族の有名人

魚名流の有名人と言えば、藤原元命です。誰だかわからないという人もいるかもしれませんが、日本史の教科書にも載っている平安時代中期の貴族です。

藤原元命が後世まで名を残すきっかけとなったのが、尾張国解文(おわりのくにげぶみ)です。

986年に藤原元命は国司として尾張守に任命されて、尾張に赴任しました。彼はそこで、農民を苦しめ、不当な正税・官物の徴収をするなど、非法・横暴の限りを尽くしたとして、郡司・百姓らから訴えられてしまうのです。

藤原元命の横暴を記した文書が、「尾張国解文」「尾張国申文」とも呼ばれる、「尾張国郡司百姓等解文」です。

「解文」とは、下級の者が上申するときに用いた文書の様式のことです。尾張国解文も、同国の郡司や百姓らが、国司・藤原元命の暴政を朝廷に訴えて、善処を求めたものです(全31カ条から成ります)。

つまり、藤原元命は、郡司らの訴えで歴史に名を残しているので、名誉なこととは言えません。そのため、藤原元命のイメージはとても悪いのですが、最近ではその見直しも行われています。

国司の政治を訴えるということは、尾張国のみならず、他国でも行われていたこと。藤原元命は尾張守を罷免されてからも、吉田祭の責任者を務めていました。よって、藤原元命は極端な悪政を行っていたわけではない、という見解もあります。

国司の貪欲ぶりを示す、藤原陳忠の逸話

藤原元命に関しては、見直しが進んでいる一方、ほかの国司の貪欲ぶりを示す逸話は『今昔物語集』にも多く掲載されています。有名な人物では、藤原陳忠が挙げられます。藤原陳忠のエピソードを、少しご紹介しましょう。

信濃守だった藤原陳忠は、任務を務めあげ、都に帰ることになります。その途上、信濃と美濃国境の御坂峠を越えようとしたときに、藤原陳忠の馬が谷底に転落してしまうのです。

当然、藤原陳忠も馬に乗っていましたから、谷底に真っ逆さまに落ちました。藤原陳忠の郎党らは、主人の心配をしつつも、谷底に降りて、助けることもできず、困惑していました。すると、谷底から、人が叫ぶ声がしたのです。なんと、藤原陳忠は生きていました。

藤原陳忠が何を叫んでいるのか、耳を澄まして聞いてみると、どうやら「籠に縄を長くつけて、谷底に降ろせ」と言っているようです。郎党たちは、主人の言うとおりにします。今度は「引き上げよ」との藤原陳忠の声が聞こえたので、縄を引き上げました。

ところがおかしなことに、籠は軽々と上がってくるのです。藤原陳忠が籠に乗っているならば、こんなに軽いはずはありません。皆が疑問に思っているうちに、籠が上がってきました。すると、籠の中には、平茸がいっぱい入っていました。

皆が、顔を見合わせて「どうしたことか」と思っていると、また谷底から「もう一度、籠を下ろせ」との声が聞こえてきます。そこで、再び籠を谷底に降ろして、引き上げました。今度は、藤原陳忠自身が籠に乗り、上がってきました。片方の手は縄をつかみ、もう片方の手には、また平茸を掴んでいました。

藤原陳忠は郎党たちに「谷底にはまだまだ平茸が生えていた、取り残しも沢山あるので、残念だ、大変な損をした」ということを告げます。

そのとき、藤原陳忠は「受領(国司)たるものは、倒れた所の土をつかめと言うではないか」との言葉も残しています。谷底に転落するという危難にあいながら、それをものともせず、平茸をかき集めて、上がってくる。国司の強欲を象徴するような逸話の1つです。

ちなみに、この藤原陳忠は「藤原南家」(藤原不比等の長男・藤原武智麻呂が祖)の出身であると言われています。

我が子の栄華を見ず、この世を去った時姫

さて、話が逸れてしまいましたが、藤原元命を輩出した魚名流の生まれである、時姫は3男2女を生みます。ところが、時姫は我が子・道長の出世と栄華を見ずに、980年には亡くなったとされます。


道長が建立した法成寺(写真:ogurisu_Q / PIXTA)

時姫については不明なことが多いのですが、彼女の若い頃の逸話が『大鏡』に載っています。

それによると、時姫は、二条大路に出て、夕占をしていました。夕占とは、夕方に道路に立ち、そこを通る人々の話を聞いて、吉凶を占う習俗のことです。

時姫がその夕占をしていたところ、1人の白髪の老婆が近寄ってきて、時姫に告げます。「あなたは、何をしているのですか。もしかして、夕占をなさっているのですか。何事も思いどおりに進み、あなたの願い事は叶うでしょう。この二条大路よりも、長く広く、御子孫は栄えましょうぞ」と。

老婆はそう言うと、立ち去っていきました。この老婆の予言通り、時姫は兼家の妻となり、三条天皇の母となる超子、一条天皇の母となる詮子、大臣となる道隆・道兼・道長らを生むことになります。

この『大鏡』で描かれた時姫に関する話は、彼女について知りえる貴重なものではありますが、後世の創作の可能性も高いでしょう。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)