ネクストベースの中尾信一社長(左)と神事努氏(写真:筆者撮影)

千葉県のJR市川駅で降りて、スポーツベンチャー企業ネクストベースの新施設に向かうべくタクシーを拾うと、運転手から「ああ、有名な選手がいっぱい来ている施設だよね」と言われた。なるほど、すでに地元でも話題になっているのだ。

株式会社ネクストベースの中尾信一社長は、生粋の野球人だった。

「千葉県の佐倉高校から、立教大学の野球部に進みました。つまり長嶋茂雄さんのコースです。長嶋さんのように大学で活躍してあわよくばプロに行けたらいいなと思ったのですが、3年生の時に故障して、そこで野球人生の先が見えなくなった。

次に高校野球の指導者になろうと思ったのですが、切り替えのタイミングが遅かったので教職課程を全部修了できずに卒業し、社会人になってからスクーリングや通信講座で資格を取得しました」(中尾社長、以下同)

NTTを35歳で退職して探した次の道

「入社したのはNTTです。2年間かけて教員資格を取って、さあ教員になるぞと思ったのですが、当時は今ほど教員のなり手がいない時代ではなくて、募集枠も全然ありませんでした。

NTTではIT最先端の仕事を経験しました。本社ではBSのデジタル化や次世代の金融システムなどIT関連の部署に所属し、ダイナミックな仕事の面白さに魅了される日々だったのですが、気が付いたらNTTに入社して11年経っていました。

35歳になったときに『何かやるにはもう動かないと』と思い退職。友人がMBO(経営陣による買収)をしたベンチャーに参画するとともに、立教新座高校でピッチングコーチも始めました。そうしながら次の道を探しました」

ITと野球という2足のわらじが続く中で「次のステージ」への模索が続いた。


ネクストベースの中尾信一社長(写真:筆者撮影)

専門だったIT分野と野球、スポーツを生かす事業を、と2014年にネクストベースを創業した。しかし確たる目算もなかったので、創業して2年半も「ネタ探し」をしていたという。

「周囲では有望そうなビジネスを立ち上げた人が、みんな途中で力尽きていた。なぜだろうと考えて、成功に必要なのは社会に対してインパクトがあるか、そしてビジネスとしての継続性があるか、だと思い至った。そして悩んだ揚げ句にたどり着いたのが『スポーツ科学』というテーマでした」

ゴールデンイーグルスのアナリストと出会う

そのタイミングで、中尾氏は、東北楽天ゴールデンイーグルスのアナリストで、国際武道大学の教員でもあった神事努氏の講演を聞いた。

「リリースポイントが何センチずれるとこんなピッチングになるとか、数値で語り始めたんですよ。最初は『わかるわけないだろう!?』と思いましたが、すごく新鮮だったので、名刺交換して『さっきの話、もうちょっと聞かせてください』と食事に誘って話を聞いたのが始まりです」

中尾氏の野球選手としての「勘」とビジネスの「嗅覚」が、神事氏の話に敏感に反応したのだ。

「バイオメカニクス(生体力学)などの専門家は堅苦しい専門用語や、英語を使って現場の人にはよくわからない説明をすることが多かった。でも神事は当時から、講演でもそれをわかりやすく話していましたし、私などがわからないながらも質問をすると、明確な回答を返していた。ぜひ、これを現場に落として事業にしたいと、1年間口説きました」

中尾氏に口説かれた神事氏は、今や日本だけでなく海外でも注目される野球バイオメカニクスの第一人者だ。

小学校から中京大学まで野球をするが、肩の故障と腰椎ヘルニアを発症して1年で選手を断念した。

「大学でバイオメカニクスに触れて面白かったので、大学院に行ってもっと勉強しようと思いました。中京大学大学院には世界的に有名な桜井伸二先生(中京大学スポーツ教育学科教授、現日本バイオメカニクス学会会長)がおられて、最先端の勉強をさせていただきました。大学院の先輩には室伏広治さん(アテネ五輪金メダリスト、現スポーツ庁長官)などもいて、そんな中で僕は『ボールの回転』に関する研究をしていました」

大学院を経て、院の助手を3年勤めたのちに2007年から国立スポーツ科学センター(JISS)のスポーツ科学研究部研究員になる。

「JISSではアスリートの支援と研究を担当し2008年の北京オリンピックでは、金メダルを取った斎藤春香監督率いるソフトボールチームを担当しました。投手をサポートするとともに、アメリカのモニカ・アボットやキャット・オスターマンなどエース級の投手の攻略を考えていました」

三木谷氏の指示で「トラックマン」が導入

JISSの任期満了後の2012年、国際武道大学体育学部助教に就任。この時期、日本に弾道計測器「トラックマン」が初めてもたらされた。

「楽天グループの三木谷浩史オーナーの指示で『トラックマン』の導入が決まった。そして僕に楽天から『うちにはそういう人材がいないので、この機器で分析してくれないか』というオファーがあった。そこで大学との兼務で『トラックマン』の担当になりました。

当時、シカゴ・カブスがR&D(リサーチアンドデベロップメント)という部門を作りましたが、これからのプロ野球は、勝つために研究開発が必要で、我々研究者も新しい知見をチームの現場に落とすべきだと考えていました」

このタイミングで神事氏の講演を中尾氏が聞いて、神事氏をスカウトしたのだ。神事氏は楽天を退職してネクストベースに入社。上級主席研究員となる。その傍ら国際武道大学から國學院大學に転任し准教授になった。

楽天に導入された「トラックマン」は、以後、他球団も続々と導入する。データ分析のニーズが高まる中、ネクストベースは、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、と契約した。

中尾社長はもともと多くの人にシステムを使ってもらいたいと思っていたが、『最初からエンドユーザーにアプローチするとたぶん失敗するよ』というアドバイスがあった。

中日ドラゴンズが最も高いレベルでデータ解析

「プロとの契約は最初から大きくて長期的です。そして成果が出れば知名度が上がります。それにプロ野球を顧客にすれば、日本で最高レベルの選手のデータを入手できる。だからそこで結果を残して、シャワー効果で社会人、大学、高校、中学と広げていこうと思ったんです。巨人の場合、1年目はまずデータを知りましょう、2年目にデータの使い方を知りましょう、3年目に実践しましょうというプランで提案して採用されました。

中日ドラゴンズは僕たちに『球団の文化として残したい』と言いました。監督や選手は移り変わっていくけど、データを活用するマインドは、球団に残るようにしたい。だからスタッフに教えてほしいと。あまり知られていませんが、今では中日ドラゴンズが最も高いレベルでデータ解析や動作解析をしているチームだと確信しています」


「NEXTBASE ATHLETES LAB」(写真:ネクストベース)

満を持して2022年8月、民間企業としては日本初のアスリートの成長を支援するスポーツ科学R&Dセンター「NEXTBASE ATHLETES LAB(ネクストベース・アスリートラボ)」を千葉県市川市に開設した。それ以降、球団だけでなく、個別に契約をして施設を利用する選手がやってくるようになった。


神事努氏によるセッション(写真:ネクストベース)

神事氏は語る。

「バイオメカニクスの目的として主に3つあると考えています。投球/打球速度の向上、ケガの予防、そして好調時と不調時のデータ比較によるスランプ脱出です。球団にもアナリストやバイオメカニクスの専門家はいるのですが、彼らは1人で多くの選手をサポートしています。

でも、ネクストベースにはバイオメカニクスに精通したアナリストがいて、ストレングスコーチがいて、理学療法士がいる。彼らはみな『修士』の学位をもっていたり、現場経験の豊富なスペシャリストだったりします。そういうスタッフが選手個々の問題に向き合って解決し、選手が求める方向に進化を促しています。

動作分析は1回90分のセッションなんですが、選手との最後の話し合いにはアナリスト、ストレングスコーチ、理学療法士が全部入るんです。1人のアナリストがこう言っている、じゃなくて、ストレングスコーチの立場ではこう、理学療法士の立場から見ればこう、そして選手はこう感じている。そこから出てくる『化学反応』がすごく面白いんですね。だから各セッションがライブなんですよ。

もちろんここでの分析やトレーニングは有償です。ここに来る選手は個人でお金を払ってきています。だから、最初から何かを習得する気で来ているんですね」

自分のことを言語化できるようになる


トレーニングルーム(写真:ネクストベース)

データを活用して選手が進化するうえで大事なことは何だろうか?

「まず自分を客観視するのが大事なことです。僕は、選手に計測データをフィードバックするときに、筋肉の名前とか、関節の動きに関する専門用語とか、あえてちょっと難しい言葉を使います。これまでなら難しいからいいやってなったかもしれないけど、ここに来る選手は、この説明は、自分のパフォーマンスアップのために行われているんだから、とそこから勉強しだすんですね。

もっと理解を深めたいという選手たちが多いので『自分を知る』ということの”解像度”がめちゃくちゃ上がると思います。漠然とトレーニングして筋力をアップするとかじゃなくて、ここで練習の仕方であるとか、データの見方だとかも学んで帰っていると思います。だから結果が違ってくるんですね。

何回か通ううちに、僕たちと共通の言語でしゃべれるようになる。そうなると爆発的に自分を見る”解像度”が上がってくるんですね。そういう形で、自分のことを言語化できるようになっていくんです」

「NEXTBASE ATHLETES LAB」ができてからの変化を、中尾社長はこう語る。


測定の様子(写真:ネクストベース)

「2022年の11月にプロ選手を受け入れてから1年ちょっとで100人以上の選手が来ました。前年オフから引き続いて来てくれている選手も多数います。

当初から西武の平良海馬投手に活用してもらっています。また他球団の若手投手もやってきました。そのときはまだ活躍していなかったのですが、データを測定すると『えっ?』という顔をして、徐々に腹落ちしていって、一気に伸びていき2023年は見違えるような活躍をしました。プロ野球選手の場合、成果がはっきり目に見える形で出てくるのがいいですね。

プロに並行してアマチュア選手や子供たちも来てくれていますが、今では2か月先まで予約が取れない状態になっています。結構強気の価格設定をしていますから、プロ野球選手たちが自分で支払う料金は、決して安いものではありません。でも、その対価を払ってでも、来てくれるっていうのは、ビジネスとしてはあるべき姿だと思います」

アメリカと日本の支援体制の違い

ただ、中尾社長はネクストベースの知見を、多くの野球少年と共有したいとも思っている。

「アメリカでは、MLBがアマチュア野球を支援する体制ができていて、お金がぐるっと回るようになっている。でも、日本ではプロはプロで止まっていて、アマチュアには回ってこない。そういう仕組みは、サッカー界にはある。

例えばすごい才能のある子供がいて、順調に高校や大学、そしてプロ選手になると、その選手の移籍金などの一部がそれまで所属したすべてのチームに分配される仕組みがあります。プロスポーツ選手が支払う税金がスポーツに限定されて活用される国もあります。日本でもそのような環境を作るべく、僕たちから変えていきたいですね」

(広尾 晃 : ライター)