大阪・ミナミの繁華街に、外国にルーツを持つ子どもたちの健やかな育ちのための居場所「Minamiこども教室」はある(写真:yotchige/PIXTA)

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「Minamiこども教室」には外国にルーツをもつ子どもたちが集まり、ボランティアの大人にサポートを受けながら学校の宿題や日本語学習に取り組む(写真:筆者提供)

外国にルーツを持ち、厳しい状況に置かれている子どもたちを支援する「Minamiこども教室」(大阪市中央区)の様子を追った、ジャーナリスト・玉置太郎氏の著書『移民の子どもの隣に座る 大阪・ミナミの「教室」から』より一部を抜粋し、3回にわたってお届けしています。本稿は2回目です(【前編】はこちら)

高2の春に一変した生活

中学校では生徒会の役員にもなった。1年生の秋、初めて生徒会選挙に立候補する際、教室で演説原稿を書いているメイを見たスタッフが、終わりの会にみんなの前で読み上げることを提案した。

メイは「ええぇ」と渋りながらも、半ばうれしそうに承諾した。そして終わりの会の冒頭、少し硬い表情でみんなの前に立った。

「私は、明るくてみんな仲のいい、思いやりのある学校になったらいいなと思いました。みんなが明るかったら何事にも挑戦できるし、みんなの仲が良かったら1つのことにみんなで取り組めるし、思いやりがあればお互いに支え合えると私は思います。そんな学校になるように、私も一生懸命がんばりたいと思います」

そう演説を締めくくると、子どもとスタッフみんなが拍手と歓声を送った。

堅調だったメイの生活。それが、高校2年の春に一変した。

5月1日、大型連休の最中だった。朝から雨で、メイは父親と自宅にいた。昼ごろ、正三さんがお茶を飲もうとペットボトルを手にしたのだが、なかなかふたを開けられない。メイが「なにしてんのよ」と笑って、代わりに開けた。

正三さんはそのまま横になって眠った。しばらくたって目を覚まし、起き上がろうとするが、うまく体を起こせずにじたばたしている。

「え? なに?」。驚いたメイが助け起こそうとしたが、重くて支えきれない。正三さんが焦り出し、ただならぬ事態が起きていることにメイも気付いた。

とっさにスマホを手に取り、電話をかけた先は教室スタッフのキムさんだった。呼び出し音は鳴るが、つながらない。続けてウカイさんの電話を鳴らした。

教室の女性スタッフとして6年近くメイとの付き合いがあったウカイさんは、「お父さんが倒れて、動けなくなった」と聞き、すぐに状況を察した。

「救急車よびなさい」と促すと、メイの家へ駆けつけた。着いたのは救急車とほぼ同時。父娘と一緒に救急車に乗り込み、病院へ向かった。不在着信を見て電話を折り返してきたキムさんも、間もなく病院に駆けつけた。

父は一命をとりとめたが…

検査の結果は脳出血。すぐに緊急手術を受けることになった。

看護師から「お父さんに何か言葉をかけてあげて」と言われたメイだが、頭が真っ白で言葉が出ない。「がんばれ」と一言しぼり出すのがやっとだった。

夜の病院の廊下で4時間あまり、開頭手術が終わるのを待った。キムさん、ウカイさんとは、高校生活や進路の話をした。不安を紛らわせてくれているんだな、とメイは感じていた。

手術が終わり、医師に呼ばれて説明を聞いた。正三さんが一命をとりとめたことを知らされ、メイはひとまず胸をなで下ろした。

しかし、続く話から、正三さんの身体に脳出血の後遺症があることがわかった。正三さんは長期入院を余儀なくされた。

父子家庭に育ったメイには頼れる親族もおらず、1人で生活しなければならなくなる。

入院の手続きはキムさんとウカイさんが手伝った。メイは正三さんの着替えを取りに戻り、慌ただしい時間を過ごした。それが一段落すると、1人で家に帰った。

そして翌日は、1人きりで家にいた。少し落ち着いて先のことを考えると、不安で胸が押しつぶされそうだった。

「このままやと、やばい」

まず相談したのはマナミだった。メイをMinamiこども教室に誘った同級生だ。南小学校を卒業した後は別の中学、高校へと進んでいたが、互いに何でも話せる唯一無二の間柄だった。

「今、ちょっとやばいねんけど」

そう言ってメイが事情を話すと、マナミは「とりあえず、ウカイ先生の家に泊まらせてもらった方がいいんちゃう?」と提案した。

メイの頭にも思い浮かんではいたが、遠慮もあって自分からは言い出せそうになかった。どうやってお願いを切り出すか、マナミが一緒に考えてくれた。

その後、思い切ってウカイさんに電話をかけた。マナミのアドバイス通り、自宅に泊まらせてもらえないかと尋ねた。

「それやったら、うちへ泊まりにおいで」

ウカイさんは即座にそう返事をした。

彼女にもためらいはあったという。「そんなことをしてもいいのかなって。私の生活の中に『支援活動』っていうものが、それまでとは全く違うレベルで入り込んでくることになるわけですから」

「このまま島之内で暮らしたい」

ウカイさんも当然、メイの生活支援に深く関わっていくつもりだった。ただ、支援者として10年以上の経験がある彼女にとっても、子どもを自宅で長期間あずかった経験はなかった。

「支援」と「生活」の境界がなくなることへのためらいは、私のような週一のボランティアには想像もつかない。

しかしその逡巡を、ウカイさんは瞬時に打ち消した。「メイの頼れる人が他にいないことは、教室での長い関わりのなかで十分に知っていましたから」

夫に事情を説明し、1カ月余りメイを自宅に泊め、高校へ通わせた。

ウカイさんはその間、メイに家事を教え込んだ。皿洗いや洗濯は、できるだけ自分でさせた。家計簿のつけ方も教えた。

「先々までメイが1人で暮らしていける力を、今つけるしかない。そのためにはウチでの合宿が一番やったんかもしれませんね」とふり返る。

メイも「ほんまに合宿。結構きびしかったで。食器洗う時に水出しっぱなしはあかん、とか」と笑いつつ、「ウカイ先生のおかげで、家事や節約のやり方がきっちりわかった。いったん生活を落ち着けることもできた」と感謝を口にする。

役所や病院での手続きにはキムさんが同行した。メイは17歳にして1人で暮らすことになり、役所からは児童養護施設に入ることも提案された。ただ、メイの意思は「このまま島之内で暮らしたい」だった。

キムさんらはMinamiこども教室のスタッフが生活を支えることを役所に訴え、島之内の自宅に住み続けることが認められた。

一連の出来事を私がメイから聞いたのは、正三さんが倒れた大型連休明けの火曜日だった。

いつも通りの教室での学習後、メイから「ちょっと」と呼び止められた。「お父さん入院してん」とメイは小声で切り出し、経緯を聞かせてくれた。気丈に話そうとはしていたが、目が潤み、声が震えていた。

軽い言葉はかけられないと自戒しつつ、私は「近所に住んでるんやから、困ったことがあったら何でも言うてきいや」と伝えた。

私が妻と2人で暮らすマンションは、メイの家から徒歩2分。ふと思い立ち、「1回、うちにご飯食べにおいでや」と声をかけた。メイも「そしたらお邪魔しよっかな」と言い、さっそく2日後に来ることになった。教室の実行委員らも承諾してくれた。

少しずつはき出される不安

木曜日、午後7時に島之内のスーパー前で待ち合わせた。メイはいつもと違って口数が少なく、笑顔も硬い。私の妻に初めて会うことに緊張していたそうだ。

とりあえず、野菜と鶏肉、卵、デザートのいちごを買って自宅へ向かった。妻も最初は少しぎこちなかったが、メイと一緒に食材を切り、鶏肉と野菜の炒め物を作るうち、自然な言葉を交わすようになった。

メイは生まれて初めての卵焼きにも挑戦し、菜箸でうまく丸めたできあがりを見て、ようやく普段通りの笑顔を見せた。


小さな食卓に料理を広げ、3人で囲んだ。自分で作った炒め物を、メイはおいしそうに食べた。遠慮しつつもご飯をおかわりした。

はじめは、高校での出来事など当たり障りのない話をしていたメイだが、家の状況についても誰かに言いたかったのだろう。

高校への納付金や家賃の支払い、生活保護費の受け取り、父親の見舞い、1人暮らしの家事のことまで、突然抱えることになった暮らしの悩みを、少しずつはき出していった。

「なんかな、ついぼーっとしてしまうねん。あんまり今の状況を正面から受け止めてしまったら、しんどくなるから」

メイがもらした言葉に、私と妻は黙ってうなずくことしかできなかった。

2時間ほど話し込んだ後、あまった食材を持たせ、午後9時すぎに家へ帰した。妻と私は「とりあえず、初めの1回ができてよかった。これからもっと気楽に来てくれたらええんやけど」という意見で一致した。

*次回へ続きます

(玉置 太郎 : ジャーナリスト)