作家・作詞家として活躍する高橋久美子さんによる暮らしのエッセー。季節の変わり目のあいさつ文で交わされる言葉について、考えたことをつづってくれました。

第118回「社交辞令と春の風」

庭のミモザが咲きはじめたのに、びゅんびゅん風が吹き荒れて、蕾を散らせている。温かくなったかと思えばまた寒くて、体調もいまいちシャンとしない。そうやなあ、これが春だったなあ。

【写真】高橋久美子さんの庭に咲いたミモザ

「季節の変わり目ですのでご自愛ください」

何千回と受け取ってきたメールのお決まりの締めは、なるほどこういうことか。

毎日が同じことの繰り返しではあるけれど、同じ今日が続いていくことのありがたさが沁みる年齢になってきた。自分も周りも、そこそこに健康でいられることが何より。昔なら、繰り返される日常なんてつまらなかったけど、今朝入れたコーヒーが美味しかったとか、歯医者さんの定期検診で虫歯が見つからなかったとか、原稿が一本あがったとか、些細なよくできましたシールで十分うれしい。

 

平熱の中にときどきの熱さ。それは、本だったり料理だったり、家族以外の人に会うということだったりする。コロナ以降、リモートでの会議も増えて、実際に人に会うことが少なくなったので、友達とか仕事相手に会う時間は貴重だ。

だけど、「また遊びにいくね」なんて言ったまま、気づけば10年経っていたなんてこともざらにある。そう言って、会えないままに天国へいってしまった人もいて、恩返しをできぬままだったと後悔も募る。

そもそも、用事もなく久々の友に会うタイミングって難しい。昔は毎日会っていたというのに、このままいけば一生Instagramの「いいね」だけの関係になりそうで、それも寂しいなと思うのだった。

メールの「ご飯行きましょうね」は本気にしていい?

ある日、お隣さんと立ち話をしていたときのこと。

「メールの最後に『また時間できたらご飯いきましょうね。』って書くでしょ。あれって社交辞令らしいですよね。私、『いつにしましょうか』って速攻メール返しちゃってた。それでご飯行ってましたよ。あれ迷惑だったのかなあ」

「確かに、そこんとこの温度感ってさまざまでしょうねえ。時間なんて作らないと永遠にないし、あるといえばなんぼでもあるし。どっちかが言い出さないとはじまらないから、ええと思うけどなあ」

ズボラな私は、こういうマメな人がいてくれることを、心底ありがたいと思うもの。

「でも相手は、めんどくさーとか思ってなかったですかねえ」

「思ってないですよー。思ってたら社交辞令でもそんなん書かないでしょ」

「じゃあ、また今月どっかで飲みに行きましょうね、社交辞令じゃなくほんまに」

と言って、私たちはそれぞれの家に入った。

一時間もしないうちに、ブーッとスマホが震えて、彼女から、

「何日と何日だったら行けそうだよ」とLINEが来ていた。

「私もその日いけますよ」と返事をして、彼女がさっそく予約をしてくれた。

今その人に会えば、今の喜びがあるはず

「また今度ご飯行きましょうね」

ほど、果たされぬ約束はない。しかも私達はみんな確信犯だ。

自分は会いたいなと思っていても、相手がどう思っているかわからないもの…というのは言い訳で、忙殺される日々の中で消えてしまっているだけなんだと思う。

特に、久々となると色んな意味で勇気がいるから後回しにしがちだ。会わなくても支障はないし、思い出の中だけで存在する方がいい関係だってあるだろう。

でも、それは会ってないから思うだけで、今会えば今の喜びがあるに違いない。その逆を恐れて、一歩踏み出せずにいるのかもしれない。

 

ご近所さんはたくさんいるけど、立ち話以上に親しくなったのは彼女だけだった。それは、社交辞令だったかもしれない言葉を、終わらせなかった彼女の行動力の賜物だ。

子どもの頃なら、今日会ったら明日も明後日も、約束なしで遊んで約束なしに友達になっていた。温かくなると、あの子元気かなあと思い出す顔がある。

 

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