遠藤保仁が追求し続けた「サッカーを楽しむ」――その言葉に込められた真実
遠藤保仁――知られざる"戦い"の軌跡(後編)
「みんなと一緒に何かを喜べるほうがうれしいし、楽しいし」(遠藤保仁)。photo by REUTERS/AFLO
【前編】遠藤保仁「引退するまでは伏せていたい」知られざる戦い>>
遠藤保仁がピッチ上で魅せてきたプレーはすべて、日々の地道な継続と揺るぎないプロフェッショナルイズムによって生み出されてきた。
とはいえ、遠藤自身はそうした日々の継続を、努力だとは微塵も思っていなかったはずだ。
前編でも記したとおり、「必死に戦うとか、全力を尽くすとか、そんなのは当たり前として、チームが勝つためにピッチで仕事をすることが、僕のすべて」だからだ。
そしてそのために、現役時代は一貫して「ピッチに立ち続けること」にこだわった。
「試合の強度と、練習の強度はまったく違う。人によって考え方はいろいろあるけど、僕自身は、長くプロキャリアを送ろうと思うなら、とにかく試合での強度を自分に求め続けなければいけないと思っています。
それはつまり、試合に出続けるということ。できれば、頭(スタート)から、90分。先発と途中出場では、自分のパワーの出し方も、得られる強度もまったく変わりますから。
実際、そこまでフィジカル的な資質に恵まれているわけでもない僕が、これだけのキャリアを積み上げられたのも、先発で、長い時間たくさんの試合を戦ってこられたから。
ただ、経験値が上がるほど、試合を数多く戦うほど、試合に慣れちゃいけないとは思っています。あまりに試合をたくさん戦いすぎてきたせいか、ある時、頭ではなく、体が勝手にプレーを判断しちゃう自分を感じて、『怖いな』って思ったから。
だから常に、目の前の試合にはフレッシュに。そこは、これからも大事にしたいです」
2019年に達成した1000試合出場の際のインタビューで聞いた言葉だ。
その翌年の10月、出場時間の減少を受けて、J2リーグのジュビロ磐田に活躍の場を求めたのも、「試合に出続ける」重要性を意識してのこと。そして、何より「サッカーを楽しむ」ためでもあった。
同シーズンの終わりに話していた言葉を思い出す。
「環境を変えれば、新しいチームや仲間を知るとか、知らない土地で生活するストレスも多少は伴うけど、この歳になれば、揺り動かされることもなく、『そういうこともあるんやな』って達観して受け止められるというか。ブラジルの2部とかになるとまた話は変わってきますけど、日本でプレーするのなら、仮に自分の思う環境がなかったとしても、自分でいろいろと工夫できる術はたくさんある。
それに、僕自身にとっては何より、サッカーが楽しいと思えているかが一番重要で、そこさえクリアできていたら、他はあまり気にならない。実際、ジュビロに来てからのこの約3カ月間は、そう思えた時点で『十分やな』って思っているし、試合に出続けることで自然とフィジカルが高まっていくのを感じられたのもよかったな、と。
『まだまだ、自分は戦える』って確信したから(笑)。もちろん、そこにチームの結果が伴えば理想でしたけど」
そう話した遠藤は、改めて彼にとっての"サッカーを楽しむ"についても言及した。
「もちろん、プロの世界は結果がすべてだと思っているし、全部の試合で勝てれば理想。でも、サッカーってうまくいかないのが当たり前のスポーツだし、成功しないプレーがたくさんあるから楽しいというか。
たくさんミスをして、失敗するからまた成長できるし、次の手を考えられる。個人のミスをプラスに変えられるのも、チームで戦う面白さですしね。
だからこそ、やっぱり僕はミスを恐れずプレーすることを楽しみたい。というか、"楽しむ"というと漠然としているし、人それぞれに楽しみ方は違うだろうけど、少なくとも僕はまず自分が楽しむことを追求したい。試合のなかで、何センチ、何ミリの精度とか、細かな強弱、弾道にこだわってパスを出すことを、ね。
それが、きっと観ている人にとっての楽しさ、面白さにもつながるはずだから」
それらの言葉を思い出す限り――これはあくまで想像にすぎないが、昨シーズンの磐田で、大きく出場機会が減った状況も、少なからず引退に思考が傾いていく理由のひとつになったのかもしれない。
余談だが、その節目のインタビューで、ガンバで獲得した9つのタイトルに加え、JリーグMVPやアジア最優秀選手賞など、数々の個人賞を獲得し尽くしてきた彼に、「他にほしいタイトルや賞はありますか?」という質問を投げ掛けた。その返答が、彼のサッカー観を如実に示すものだったので追記しておく。
「現時点で設定されている賞で、僕が唯一もらえていないのはフェアプレー賞だけど、"アシスト王"のほうが魅力だな......そんなん、ないけど(笑)。汚いプレーをするつもりは決してないけど、クリーンにサッカーをしていたら勝てるとも思っていないというか。サッカーには、時に激しさも必要だし、戦わなければ手に入れられないものもあると思うから。
だから、僕自身は、フェアプレー賞ではなく、試合を終えて、今日はフェアプレーでしたね、で十分。ただ、"得点王"の称号があって"アシスト王"がないのは長年の謎だから、それは設定してよ、とは真面目に思う。それがあったら、僕もほしかったかも。いや......、別に個人賞のためにサッカーをしているわけじゃないから、いらないか? いや、もらえるならもらったほうがいいのか?(笑)」
実際、もしも彼の現役時代に"アシスト王"が設けられていたら――。彼のプレースタイルからして、おそらくはそれさえも手中にしたのではないかと想像するが、彼自身はきっと獲ったら獲ったで、こう口にしたことだろう。アジア最優秀選手賞を受賞したあの日のように。
「個人賞は......う〜ん、ありがたいことだし、そこに関わってくれたいろんな人の姿を思い出せば、なおさら特別にも思えてくるけど、基本的には興味がない。
理由? 子どもじみて聞こえるかもしれないけど、単純に僕はみんなで喜ぶのが好きだから(笑)。子どもの頃からひとりで走る100m走で記録を出すより、リレーで1位になるほうがうれしかったですしね。
それに、記録を出したところで自分が何かを達成したという証明にはならないし、記録なんていつかは必ず誰かに抜かれるから。それよりも、みんなと一緒に何かを喜べるほうがうれしいし、楽しいし、たとえばだけど、記録に残ることより、僕と一緒にプレーして『楽しかったな』とか、タイトルを獲れて『最高だったな』とか、仲間や応援してくれる人たちの思い出に残るほうがいいかな」
そして、その思い描いたとおりに、遠藤は最後の瞬間まで仲間とともにプレーすることを楽しみ、記憶に刻まれた選手としてピッチをあとにした。彼の引退発表直後から、所属チームや日本代表で時間をともにした、かつての仲間や多くのサッカーファンが、そのキャリアやプレー、思い出をSNS等で明かしているが、そのどれもが温かく、いろんな"想い"と楽しい記憶にあふれているのが、何よりの証だろう。
そんな最高の賛辞を引っ提げて、遠藤は新たなキャリアに足を踏み出す。その最初の一歩は、前編でも記したとおり、古巣・ガンバでのコーチ業だ。
かつて「ライセンスが必要ないなら、すぐにでもプロチームの監督になりたい」と話していた彼は、このシーズンオフに初めて、指導者C級ライセンスの講習会にも参加したという。
「いつか行こう、行こうと思いつつ、あと回しにしてきたけど、去年はシーズン前から改めて『今年こそは行きたいな』と思っていたなかで、シーズンが早く終わったこともあって、時間を見つけられた。
先のことはわからないけど、取れるものは取っておいて損はないかな、と。指導者の立場から見るサッカーには選手時代との違いも感じたし、また違う角度からサッカーを見ることができて、いい勉強になりました」
そうして踏み出したキャリアの先に、彼がどんな未来図を描いているのか、今のところは明らかにされていない。だが、少なからず現役時代と同様に「サッカーを楽しみたい」という思いは持ち続けていると聞く。
となれば、またふわりとピッチに戻り、指導者としてタクトを振るう姿を想像しないでもないが、今はまだそれを描くのは時期尚早だろう。彼が現役時代に繰り返し語った言葉と照らし合わせても、だ。
「何事も、結果はあとからしかついてこない。だからこそ、自分の足元をしっかり見て、その時々でやるべきだと思ったことをあと回しにせず、コツコツと積み重ねていくだけ」
ずば抜けた戦術眼や一切の力みなく、的確に繰り返された"止めて・蹴る"の技術、そして柔軟な思考。それらをもとに、優しくて鋭いパスの数々で攻撃を彩り、観ている人たちを楽しませ、自らもサッカーを楽しみ尽くした遠藤保仁の選手キャリアは幕を閉じた。だが、それは再び彼らしくサッカーを楽しむための始まりでもある。
(おわり)
遠藤保仁(えんどう・やすひと)
1980年1月28日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実高卒業後、横浜フリューゲルス入り。同クラブが消滅後、京都パープルサンガを経てガンバ大阪へ。チームの"顔"として数々のタイトル獲得に貢献した。同時に日本代表でも主軸として活躍。2006年、2010年、2014年とW杯に三度出場。国際Aマッチ出場152試合、得点15。2020年10月にジュビロ磐田へ移籍。2023年シーズンを最後に現役から退く。引退後、ガンバのトップチームコーチ就任が発表された。