(写真:zak/PIXTA)

歴史上の美人はいったいどのような顔をしていたのでしょうか。また、現代の感覚とは異なる「不美人」とは? 東京大学史料編纂所の本郷和人教授の著書『愛憎の日本史』より一部抜粋・再構成してお届けします。

四国に日本版「夏姫」がいた?

歴史上、美しい女性は何かと騒動の種になりがちなものです。有名なところでは、春秋時代に中国に存在した女性・夏姫などの女性がいます。なお、日本の場合は高貴な家に生まれた女性のことを「姫」、すなわち「プリンセス」と呼びますが、中国では意味合いが違います。中国では、漢字二文字でその女性のことを表しますが、二文字目の漢字は、実はその人が生まれた家の姓を指します。

夏姫の場合の「姫」は、周王室の姓である「姫(き)」を意味します。夏姫の場合は、周王室の血を引く鄭の穆公の娘であり、夏御叔に嫁いだから「夏姫」と呼ばれていたのです。

この夏姫について、作家の宮城谷昌光先生が『夏姫春秋』という本で書いていますし、僕自身は海音寺潮五郎先生の著作で夏姫の半生を知りました(とはいえ、『中国妖艶伝』(文春文庫)ではなかったようです。なんという作品だったのかは思い出せません……)。

夏姫はとにかく絶世の美女だったので、彼女を巡って多数の争いが起きたため、「傾国の美女」として知られました。彼女にまつわる数々の色恋沙汰は大変興味深いのですが、何よりも強く興味をひかれたのがその年齢です。どう考えても彼女が最後の色恋沙汰に巻き込まれたときは、軽く五十代を超えている。

これは、とにかくものすごくモテる女性だったとしか考えられません。現代でいえば、七十代を超えてもおキレイな女優の吉永小百合さんのような方だったのでしょう。

究極の美魔女といえる夏姫ですが、かつて日本の戦国時代にも夏姫のような美魔女が存在しました。

彼女の名前は小少将(こしょうしょう)です。ちょっと変わった名前ですが、女性の名前としては歴史上よく使われる名前です。たとえば越前の国の戦国大名である朝倉義景の妻で斎藤兵部少輔の娘も、小少将という名前です。

ここで取り上げる小少将は、徳島県の有力武家で西条東城城主の岡本牧西の娘です。そして、この女性こそが、まさに戦国時代の「夏姫」ともいえる人物でした。

戦国時代の「夏姫」の人生

彼女は、最初、阿波の国の武家のトップで守護大名の地位にあった細川持隆の妻になりました。持隆との間に、真之という息子を産みます。このとき、おそらく彼女は十五歳前後。ところが、一五五三年に持隆が、阿波の実力者である三好実休に殺害され、未亡人になってしまいます。

その後、彼女はどうするかというと、持隆を殺害した本人である実休の妻になります。おそらくこの頃、彼女は三十歳くらいだったでしょう。

実休は、織田信長以前の京都の覇者として知られていた三好長慶の弟です。かつて三好義賢と呼ばれていたのですが、正しい歴史史料では本当に義賢と呼んでいたのかがわからなくなったため、法名として使っていた実休という名前が使われるようになりました。いわば、武田信玄の「信玄」と同じようなものです。

「法名があるということは、出家しているはず。お坊さんなのに、結婚していいのか?」と思われた方もいるかもしれませんが、当時の武将たちは、別に頭を丸めたからといって女性との関係を絶つわけではありませんでした。これは上皇が出家して法皇になったときと同じです。

さて、話は本題に戻りますが、この三好実休が、当時、形だけのトップであった細川持隆を殺害し、阿波の国(徳島県)の実権を握ります。そして、実休の正室として小少将は彼の元に嫁に行き、二人の間には三好長治と十河存保などの三人の男児が生まれました。

しかし、結婚して九年ほど経った一五六二年、実休も戦死してしまいます。

四国の権力者と次々と結婚した「小少将」

またもや夫を失ってしまい、次は頭を丸めて尼にでもなるのかと思われた小少将ですが、三十九歳の頃、三好実休の家臣であり、阿波・木津城主だった篠原自遁という人物と結婚します。なお、自遁とは実休が存命の頃から不倫関係にあったとも噂されています。現代では三十九歳という年齢はまだまだ若いですが、「人生五十年」と言われる時代に再婚を果たすとは、彼女の美魔女ぶりは相当なものだったのでしょう。

そんな中、自分が細川持隆との間に産んだ細川真之と、三好実休との間に産んだ三好長治という二人の息子が、阿波国を巡って殺し合いを始めてしまいます。父は違うものの、母は同じ。自分のかわいい息子二人が殺し合いを始めてしまったので、小少将の心持ちたるやどんなものだったでしょう。

細川真之は異父弟を倒すために、四国・高知県の有名な実力者であり、後に四国を統一する勢いを見せる長宗我部元親の助力を得、三好長治を追い詰めました。そして、一五七七年、長治は二十五歳で戦死します。

このとき、小少将は五十四歳です。彼女がどうなったかはよくわかっていませんが、一説によれば彼女は長宗我部元親の側室になって、長宗我部右近太夫という息子を産んだという説もあります。

しかし、小少将の年齢を考えると、五十代という年齢で子どもを産み、育てるのはなかなか大変です。たまたま元親の側室に同じ名前の人がいただけで、我らが小少将が彼の側室となり、子どもを作ったという話はウソではないかと思います。

なお、小少将の子とされる右近太夫は、長宗我部元親の五男です。神社で働く宮守として働いていましたが、兄の盛親が元親の後を継いだ後、関ケ原の戦いでは西軍についたため、右近太夫も大坂の陣が始まると大坂城に入り、徳川と戦います。しかし、結局、豊臣方が敗れ、盛親は切腹。小少将が生んだ右近太夫も兄と一緒に腹を切らされたと言われています。

四国の権力者と次々に関係を持ち、そこに関連する相手はことごとく亡くなっていく。まさに、春秋時代の夏姫さながらだと言えるでしょう。

『男衾三郎絵詞』にみる、日本における美人の定義

美人の話をしたとき、多くの人が気になるのは「当時はどんな人が美人とされたのか」。当然現代とは感覚が違います。

しかし、当時の美人とされていた人が、現代人からみて不美人かというと、決してそういうわけでもありません。たとえば、浮世絵の美人画などを見ると、「この絵の通りの人がいたら美人とは言えないだろう」と思いがちですが、明治の頃に撮影された美人で誉れ高い芸者や遊女の写真を見ると、私たちの感覚から見てみても、確かに美人が多い。

現代に残る絵巻物や浮世絵は、あくまでデフォルメしたものに過ぎず、本当は現代にも通じる美人だったのではないか……とも思ってしまいます。
しかし、その一方で美人の定義として面白いのが鎌倉時代後期に成立した『男衾三郎絵詞』という史料です。この物語は、簡単に言えば継子いじめの物語です。

武蔵の有力武士、男衾三郎は、兄の忘れ形見である少女を養うことになりました。その少女が、なんと絶世の美少女。叔父に引き取られた彼女は、さまざまないじめに遭いますが、結局若い公達、すなわち王子様に見初められて幸せになるというお話です。なお、このような継子いじめの物語は、平安時代から存在するので、当時はそれだけ継子いじめは身近なものだったのかもしれません。

なお、この物語には観音様信仰の要素も入っています。観音霊験譚、要するに神様仏様に信心をするといいことがありますよというストーリー展開も、当時はよくあるものでした。『男衾三郎絵詞』は、「継子いじめ」と「観音霊験譚」の二つの要素が詰まったハイブリッドな作品です。気になるのが、この『男衾三郎絵詞』の絵です。

絶世の美少女の絵を見てみると、いわゆる引き目・かぎ鼻に加えて、あるかわからないような小さなおちょぼ口にしもぶくれの顔、長い黒のストレートヘア。すなわち「おかめ」でした。「おかめ」が美人とされるのは、『平家物語絵巻』や『源氏物語絵巻』などでも同様なので、特に気にはなることではありません。

現代の感覚とは異なる「不美人」


問題は、不美人の描かれ方です。親を亡くした薄幸の美少女に対して、継子いじめをする家の娘は、物語の都合上、非常な醜女として描かれています。

ところが、その子の様子を見ると、髪の毛は、まるでパーマをあてたようなウェーブするくせっ毛。続いて、目はぱっちりしているし、鼻も高い。私たちの感覚からすると、「あれ、こっちのほうが美人なんじゃないの?」と思ってしまいます。しかし、当時の感覚では、こちらはあくまで醜女です。

この絵巻を見ると、人間の美的な感覚は時代と共に移り変わるものだということが、よくわかります。

(本郷 和人 : 東京大学史料編纂所教授)