箱根駅伝で駒澤大が再び築き始めた黄金時代 継承される「大八木イズム」と戦術眼の正体
史上初の2年連続学生駅伝3冠に王手をかけた駒澤大学。今季、指揮官の任はかつての教え子である藤田敦史に継承される中、その強さを増してきた駒大の駅伝には、大八木弘明総監督がこれまで築いてきたもの、そして時代に合わせた「イズム」の変化の融合があったからにほかならない。
駒大は大八木イズムを継承して新たな時代へ photo by Kyodo News
2000年、箱根駅伝で初優勝。
それは、駒澤大学の黄金時代の幕開けでもあった。
そして2000年から2008年までの9年間に4連覇を含む6度の優勝。
しかも2002年は6区、2003年は9区、2005年は7区、そして2008年は9区と復路での逆転優勝が多く、劇的な展開で優勝をたぐり寄せることが多かった。
「復路の駒大」「逆転の駒大」。
メディアがそう命名したのも当然だった。
当時の駒大の強さは、どこから生まれていたのか。
大八木弘明監督の厳しさ。
常に緊張感をはらむ練習環境で鍛えられた選手の精神的な強さ。
大八木監督自身も、自分の指導には自信を持っていた。
「私も若かったから、『これをやれば絶対勝てる!』と子どもたちに厳しく言ってました。その厳しさに立ち向かってくる選手は確かに強かったです」
ともすると、強さの理由が精神面に集約されてしまいがちだが、埋もれがちな要素もあった。
大八木監督の「戦術眼」だ。
2008年、初めて大八木監督にインタビューしたときのことだ。監督は駒大の強さをこう自己分析した。
「優勝する時というのは、自分が理想としていた区間配置が実現するんです。故障も、感染症もなく、チームとして仕上がっている状態。そして他校のオーダーを見て、『あ、こういう展開になるな』という読みがピタリとハマる。箱根駅伝の前、ミーティングで学生たちにレース展開の読みを伝えるんですが、私の筋書き通りに展開していくものだから、選手たちも自信をもって走ってくれますよ」
大八木監督といえば、どうしても熱血指導ぶりに目を奪われがちだが、実のところ、選手たちの区間適性、そして春のトラックシーズンから他大学の主力選手たちの観察を怠っていなかった。そうした情報を総合的に判断し、レースを読む。そしてその読みの正確性が優勝につながっていた。
戦術眼の基礎は、観察にあった。
【「復路勝負」を着想した理由】大八木監督は、往路志向が強かった箱根駅伝の戦術に「復路重視」を持ち込んだ。
1990年代半ばまで往路、特に1区から3区までが大いに重視された。1987年に日本テレビによるテレビ中継が始まったことで、往路重視が加速した面もある。往路に主力選手を投入して上位をキープし、復路は単独走でも淡々と走れる堅実な選手を並べるのが「定石」だった。
ところが、大八木監督は違った。往路だけでなく、復路にも人材を残しておく戦術を採った。そうした発想に行きついた経緯をこう話してくれた。
「駒澤を指導し始めて、ああ、学生たちになんとか自信をつけさせてやりたいなあ......そう思って考えついたのが復路優勝。1997年の大会で、しっかり練習を積んだ選手を復路に回したんです。往路には2年生だったエースの藤田敦史(現・監督)を置きましたけど、遅れやしないかとヒヤヒヤものでした。往路をなんとか9位でしのいで、復路は6区から10区まで全員が区間2位で復路優勝。総合では7位でしたけど、学生が喜んでね。『俺たちだって、やればできる』と自信をもってくれたのがうれしかった」
大八木監督は、盲点をついたのだった。
この成功体験は、のちの「復路の駒大」まで続いていく。いまも記憶に鮮やかなのは、2008年、6区では首位・早稲田に3分14秒まで差を広げられたが、7区、8区とジワジワと追い上げ、9区に温存していた堺晃一(4年)が早稲田を逆転、そのまま逃げ切って6度目の総合優勝を達成した。大八木監督は、展開予想がピタリとハマったことを喜んでいた。
「山で早稲田に離されて、ちょっとヒヤヒヤしたけど、9区の堺が予定どおりの仕事をしてくれました。いやあ、満足、満足」
本来なら、堺は往路に起用されてもおかしくない力を持っていた。しかし、大八木監督は総合優勝争いが復路まで持ち込まれることを想定し、堺を温存していたのである。
2000年代、往路・復路のバランスを重視する大八木監督の戦術眼は冴えわたっていた。
その後、2020年まで総合優勝から遠ざかってしまったのは、5区の区間延長により、山上りの比重が高くなったことが影響したと思う。柏原竜二(東洋大)に代表されるように、5区で区間賞を獲得した学校が、総合優勝に大きく近づくようになった。
2010年から2016年までの7年間、駒大は2位と3位を繰り返した。大八木監督の戦術眼に曇りはなく、総合力で劣ることはなかったが、5区の区間距離延長が戦術眼のアドバンテージを消していた。5区が以前の距離のままであれば、この間にも何度か優勝していた可能性はあったと思う。
【「変化と不変」の融合で新時代へ】黄金の2000年代を経て、2010年代は駒大にとって我慢の時代となった。山上りの比重増加による苦戦。そして青山学院大が台頭し、天下を取った。
大八木監督は50代に入り、葛藤せざるを得なくなる。
どうやったらもう一度、箱根駅伝で勝てるのか?
ここから監督の指導スタイルが変わっていったことは、よく知られている。
東京オリンピックのマラソン代表にも選ばれた中村匠吾(現・富士通)との出会いから、「対話」の大切さを感じ取る。
「自分がやりたいことを言ってこないからさ、匠吾は。私が質問しないことには、引き出せないんだから」
トップダウン型の指令は、この時点で過去のものとなった。その後、2019年に青森山田高校から田澤廉(現・トヨタ自動車)が入学してくると、対話路線はさらに加速した。田澤は黙っているタイプではなく、自分の意見を素直にぶつけてくる青年だった。
「匠吾と接していたことが、田澤の指導にも役立ちました。何事も勉強、勉強」
そして田澤が順調に成長し、2年生となった2021年、駒大は13年ぶりに総合優勝を手にする。しかも最終10区での大逆転劇。
「逆転の駒大」の遺伝子は生きていた。
長くひとつの大会を見ていると、選手たちは変われども、こうした遺伝子は引き継がれていることがある。
大八木監督の戦術眼は、令和の時代になっても有効だったのである。
そして2023年は4区でトップに立ち、盤石の強さで8度目の総合優勝を達成した。
前回のチームは大八木監督の「最高傑作」とも呼べるチームだったのではないか。病み上がりの田澤は必ずしも万全ではなかったが、エースに頼る必要はなかった。鈴木芽吹(当時3年)、篠原倖太朗(当時2年)が主力として成長し、チーム力の底上げに成功した。
そしてまた、5区に山川拓馬、6区に伊藤蒼唯(ともに当時1年)を起用し、成功を収めたことにも驚かされた。特殊区間に1年生を起用するのは、通常はリスクを伴う。しかし、大八木監督は自信をもって1年生を送り出し、山川は区間4位、伊藤は区間賞を獲得した。大八木監督の選手に対する観察眼は磨きがかかっていた。
2023年春、指揮官のたすきは大八木監督から教え子の藤田敦史へとつながれた。
藤田監督となっても、出雲駅伝、全日本大学駅伝とすべての区間でトップを走り、そして箱根駅伝でも本命の地位は揺るがない。
平成から令和へと時代は流れたが、駒澤大学は時代に合わせ、再び黄金時代を築き始めている。