柏木陽介インタビュー(前編)


今季限りで現役から退いた柏木陽介。photo by Kaz Photography/Getty Images

 シーズン終了をおよそ1カ月後に控えた今年11月1日、FC岐阜から柏木陽介の現役引退が発表された。

 1987年生まれの柏木は、今年12月の誕生日で36歳。すでにベテランと呼ばれるにふさわしい年齢とあっては、その報せに特別な驚きはない。

 とはいえ、アイデアに富むプレーはもちろん、人見知りしない明るい性格も相まって、日本サッカーを第一線で盛り上げてきた選手がピッチを去るのは、やはり寂しいものだ。

 天才肌のテクニシャンでありながら、中盤で労を惜しまず動き回ることから、「走るファンタジスタ」と称されたレフティは、サンフレッチェ広島ユースに所属していた高校時代に頭角を現し、年代別日本代表で活躍。2007年U−20ワールドカップには、内田篤人らとともに中心選手のひとりとして出場し、チームをベスト16進出に導いている。

 その後は、日本代表(A代表)にもたびたび選出。ワールドカップの舞台に立つことはかなわなかったものの、2011年アジアカップではアルベルト・ザッケローニ監督のもと、優勝メンバーに名を連ねている。

 一方、Jリーグでも広島、浦和レッズで活躍し、J1通算出場試合数は392試合を記録。浦和ではキャプテンも務め、2018年天皇杯優勝時には、表彰式でカップを掲げる栄誉に浴している。

 ところが、コロナ禍の2021年、開幕前のキャンプ中に規律違反(禁止されていた外食に出かけた)を犯していたことが発覚。10年以上プレーしてきた浦和を事実上の戦力外となり、FC岐阜へと移籍することになった。

 3シーズンにわたってプレーした岐阜では、J3通算61試合に出場したが、J2昇格は果たせず、しかも昨季は右足アキレス腱断裂の重傷を負い、長期戦線離脱を強いられた。華々しいキャリアは一転、晩年は苦しいことのほうが多かったのかもしれない。

 明と暗――。プロサッカー選手としてどちらの道も歩んできた36歳は、どんな思いを抱え、"この時"を迎えたのだろうか。

 現役ラストシーズンを終えたばかりの柏木に話を聞いた。

――引退発表からシーズン最終戦までのおよそ1カ月。どんな気持ちで過ごしましたか。

「特に変わってはいなかったっていうか、ホントいつもどおりに過ごしたって感じでした」

――引退の決断は難しいものでしたか。

「いや、難しくなかったですね(笑)」

――いつ頃から引退を考えていたのですか。

「(昨年10月に右足の)アキレス腱をきった時かな。その時に、『もう来年は動けないかもしれない。ここから(トップコンディションに)戻していくのは大変だろうな』というのは頭にありました。

 でも、だからといって、別にネガティブな引退ではなくて、(ケガをしたことで)『もうそういう時なんじゃないか』と思わせてくれたというか。僕はこれまで、何か起きたことにはすべて意味があるんだととらえて、その出来事からいろんなことを学んできた。

 だから、アキレス腱をきった時も、(試合に出られなくなることで)自分の持っているものをこのチームに還元できなくなるのは残念だったけど、自分自身のことについては悲しいとか、そういう感情はなく、笑っていたからね。『そういうことなのかな』みたいな気持ちでした」

――だとすると、今季ケガから復帰したのは、ある意味で"引退するための復帰"だった。

「そうですね。自分がまだどれだけできるのか(を試したかった)というのもありましたけど、復帰の過程というのがすごく大事だと思っていたので、メンタル的なことも含めて、自分がチーム内でどう振る舞っていくか。自分のなかでは、そこを結構大事にした期間でもあったかな」

――復帰してみて、「やっぱり現役を続けたいな」とは思いませんでしたか。

「(ケガをして)試合をスタンドから見ている時には、『これだけのサポーターがいるなかでピッチに立てるっていいな』という気持ちにはなりましたけど......、でも、それくらいかな。それよりも、(現役生活の)最後にもう一度ピッチに立ってできるだけのプレーをして、観ているみんなに少しでも何かが伝えられたらいいな、という思いだけでした」

――ラストシーズンを終えた今の気分は?

「もう、ホンマにスッキリしているし、気持ちはもう次に向かっている。これからが楽しみやなっていう感じです。

 もう自分のなかではやりきったし、みんなで楽しくボールを蹴るくらいならいいけど、もう練習したいとは思わない。あの恐怖のキャンプがないと思うと最高です(笑)」

――キャリアの終盤は、もうサッカーが楽しいとは思えなくなっていたのですか。

「浦和での最後のほうもそうだったけど、自分が思い描いているやりたいサッカーと、現代のサッカーが真逆の方向に進み始めたなって感じていて。サッカー全体がフィジカル(重視の傾向)に振りきってきたのが5年前くらいかな。その頃からずっと、楽しいという感覚がなくなってきていた。

 岐阜に来て、それこそケガをしてから走れなくなったりというのも大きかったし、そろそろ本当に、自分はまったく求められていない選手なんじゃないかというのを感じながら、それでも、むしろこういうタイプが必要なんじゃないかと思ったりもして......」

――すでに浦和にいた頃から、何となくモヤモヤしたものを抱えてプレーしていた、と。

「何となくじゃなくて、かなりありましたね。それでも勝てればいいけど、結果が出ていないのがすごくもどかしかった」

――自分で蒔いた種とはいえ、そんなもどかしさを抱えたまま、不本意な形で浦和を離れることになった。

「あの時は本当に申し訳なかったのはもちろんなんですけど、そうなる前から自分がうまく(試合に)絡めなくなって、それを態度に出してしまっていたことが一番申し訳なかったと思っています。それまでうまくいきすぎていた部分があったから、(試合に出られない不満を)態度に出してしまったり、そういうことでチームに迷惑をかけているところが多かったから。

 あの件(キャンプ中の規律違反)に関しても申し訳ないけど、それ以前の自分の振る舞いがそうさせたんじゃないかと思っているので、それに関してすごくこう......、僕に言いたいことがある選手もいただろうし、そういうことをちゃんとできないままチームを去るということのほうが心苦しかったです」

――日本代表経験もある選手がいきなりJ3でプレーするのは、特に気持ちの面で難しかったのではないですか。

「そこは本当に難しかった。みんな練習のなかではうまいけど、コートが広くなっていくと、それぞれのつながりとか、情報量が多くなった時の頭の回転というところでうまくいっていなかったし、そのなかでよりフィジカル(重視)になっていったのは感じていたし。

 でも、みんなが一生懸命やっているなかで、どうしたらチームがよくなるのかと考えながら自分としては張りきってやっていたし、ここでやっていく覚悟はできていました」

――J3でプレーしている時に、もう一度J1に戻りたい、つまり、J1のクラブに移籍したいという気持ちにはなりませんでしたか。

「それは思いましたね、正直。一度(J1を)経験している選手からしたら普通のことかな、とは思うし。(J1の)試合を見ていて、自分のほうが上だって思ったこともあるし、見ているだけだったら、自分もできるなと思ってしまうから」

――でも、簡単ではなかった。

「そんな話もなかったですしね。でも、だからここにいたわけじゃないし、(岐阜の)水が合っていたというのは正直ある。自分の置かれている状況が充実していたから、というのはありました」

――だから、納得して引退も決断できた。

「そうですね。このカテゴリーを知ったからこそ気づいたこともあるし、だから言えることもあるから」

――現役引退を決めるにあたり、家族に相談はしたのですか。

「奥さんには相談しましたけど、『あなたが決めたことなら』という感じでしたね。『アキレス腱をきった時に、たぶん引退かなって何となく思っていた』みたいな話もしていましたし。でも、オカンだけは、たぶん現実を受け入れられてなかったみたい(苦笑)」

――お母さんは、まだプレーしてほしかったんですね。

「『なんで、やめんの?』って感じでした。でも、そこは何を言われても関係ないというか。もし奥さんや子どもがやってほしいって言ったら、少しは考えたかもしれないけどね(笑)。

 僕自身としては納得の引退です」

(つづく)◆柏木陽介が振り返るサッカー人生>>

柏木陽介(かしわぎ・ようすけ)
1987年12月15日生まれ。兵庫県出身。サンフレッチェ広島ユースから2006年にトップチームに昇格。同年6月、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任して以降、レギュラーに定着した。2010年に浦和レッズに完全移籍。長年、チームの中心選手として活躍したが、2021シーズン開幕前にチームの規律違反によって退団。J3のFC岐阜に移籍し、2023シーズンを最後に現役から退いた。世代別の代表でも活躍し、2007年U−20W杯に出場。その後、A代表にも選出された。国際Aマッチ出場11試合、0得点。