日本人はなぜ記者会見で謝るのか(撮影:風間 仁一郎)

こんにちは、デビットです。日本からアメリカに引っ越して1年半ほどたちますが、ここのところ日本のネットニュースを眺めているとやけに「謝罪会見を行った」というニュースを目にするように思います。中古車販売会社、大学のスポーツクラブ、芸能事務所、その他芸能人の浮気問題まで、つねにどこかで誰かが謝っている印象です。

なぜ謝るために会見を開くのか

ここで欧米人である私の目から見て不思議なことがあります。「なぜ謝るために記者会見をするのだろう」です。

私の理解では、本来記者会見とは何か社会に対し広く知ってもらいたいことをマスコミに説明することでその目的を達成するためのものです。「不正があった背景と再発防止」「不具合の原因と被害者の救済方法」などがそれにあたるので、そこを広く知ってもらうための広報活動ならば理解できなくもないです。

ところが、ここのところ目にする謝罪会見では、こうした当然聞かれるであろう質問への準備が不十分で、それがかえって会見を荒れさせているように見えます。危機対応に対する見込みが甘いだけなのかもしれませんが、結果的にただただ激しい追及を受けているところだけが報道されます。

この様子を見ていると「謝罪してバッシングを受けているところを世間に知ってもらう」ことが目的なのかと思ってしまいます。でもこれっておかしいですよね。

この謝罪会見というイベントは、私の個人的な見解ですが、日本に古来からある「みそぎ」という概念と関係があるのではないかと思います。

西暦712年に成立した『古事記』でも黄泉の国に行ったイザナギノミコトが川でみそぎをするシーンがあり、ここで有名なアマテラスやスサノオが誕生するというエピソードにつながりますね。神社にお参りする時に手水を取るのも簡易的なみそぎです。

ちなみに英語で「みそぎ」を説明するのはちょっと苦労します。「Ritual purification (お清め儀式)」というのが言葉通りの翻訳になるのかと思いますが、「Fresh start」、または「New start」という方が近いように思います。

例えばお正月の前日、大晦日には「大祓祭(おおはらいさい)」という儀式が全国の神社で行われます(ご存知ですよね?)。茅の輪をくぐったりして1年のケガレを祓って、フレッシュな状態で新年を迎えるための大切な儀式です。

「謝罪会見」は新たなスタート?

このようにリセットして新しいことを始める、再生する、というイメージがみそぎにはあります。ちなみにイザナギの命のように黄泉の国から帰ってくることから「よみがえり」という言葉が生まれたと言われていますね。

そう考えると、謝罪会見は英語のFresh Startのために必要な活動ということでしょうか。

ただ、この「みそぎ」という言葉は政治の世界などではあまりいい意味では使われていないようです。つまり、謝ったら許してもらえる、あるいは謝って許しを乞う姿を見てもらうことでそこからやり直しをすることが承認される、という狙いのような使い方です。

謝罪会見も「社会に対し謝罪する」という行為でみそぎを済ませられる、と考えられているのでしょうか。

ただ、ちょっと常識がある人ならわかると思いますが、実際に被害にあっている方がいる、あるいは法律違反をしているということを考えると、単純に謝って済む話ではない場合が大半のように思います。

いったいいつからこのような慣習が定着したのかわかりませんが、むしろ「謝って済む程度のことと当事者は思っている」という解釈を生むのではないかと思いちょっと不思議でなりません。

もし、こうしたバッシングを受けている姿までが「みそぎ」と考えているならこのバッシング会見は大成功ということになりますが、どうも当事者を見ているとそうではないように思います。

欧米では「謝ることを目的とした会見」はない

では、欧米ではどうでしょうか。私はコミュニケーションの専門家ではないので、すべてを知っているわけではないことをあらかじめお断りした上で言いますが、たぶんそもそも会見を行わないと思います。少なくとも、謝ることを目的とした会見は行わないのではないかと思います。

誤解のないようにしていただきたいのは、欧米では何か不祥事を起こした際、ユーザーや株主などステークホルダーに対する説明責任を果たさない、ということではありません。

例えば製品の不具合で回収や修理が必要な場合、プレスリリースやSNS、ホームページなどあらゆる方法を通じて告知を徹底します。実際一消費者として、何かの製品不具合で迷惑を被ると一部のお金が返ってきたり、なにかのクーポンがもらえるというケースはよくみられます。ただ、必要以上に自分たちの不利益になるリスクのある会見は開かれていません。

要は「社会に対し謝罪する」という何か目的のはっきりしないことをするのではなく、当事者に対する説明とアクションが優先と判断しているのだと思います。

また、マスコミの側も事実関係を知ることができさえすればいいわけで、会見まで求めるケースはないように思います。

こうして考えると日本の社会では「謝罪している姿勢」というものに一定の価値があるのかもしれません。裏返して考えると「謝罪の仕方が悪かった」ということが起こした不祥事よりもより大きな批判を招いてしまう社会、とも言えます。

確かに、うまく謝罪会見(といいますか説明会見ですね、本来は)を行って「あっぱれだった」と褒められるケースもごくまれにあります。

最近ではKDDIが通信障害を起こした際の高橋誠社長の会見は見事だった、と言われていますが、ただ、そう言われるということは大半の謝罪会見が失敗に終わっていることの証のようにも思えます。

最近の謝罪会見が大きく取り上げられ、企業の悪い印象を増大させている要因がもう1つあると思います。それはSNSの存在です。

私の想像では、謝罪会見といわれるものの歴史はSNSよりも前からあり、その時代は、その場にいたマスコミの理解をうまく得られればなんとか「許してもらえた」のではないかと思います。

SNSで謝罪会見が難しくなった

「SNSとは何か」ということに対しては、いろいろな説明があると思いますが、「人をバッシングするための人類史上最高のプラットフォーム」という見方もできるかと思います。残念ながら。

謝罪を行う企業は、現在のわれわれは人類史上、最も広く、リアルタイムで、より辛辣な批判を受けやすい時代に生きているということを忘れてはならないと思います。謝罪会見の失敗は、その会社のブランドにとって致命的なダメージになりかねない時代なのです。

ただ日本では、謝罪会見が当然のこととして期待されてしまっているので、「不祥事の会見を開かないのか」という批判を受けてしまうことも。このプレッシャーから、会見の目的は本来なんなのか、という本筋を見誤ってしまうケースもあるように思います。なかなか、大変な時代ですね。


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(デビット・ベネット : テンストレント最高顧客責任者)