元中日・上原晃氏【写真:山口真司】

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上原晃氏は1996年オフに中日、1997年オフに広島から戦力外になった

 やれることはすべてやったが……。現在は整体師として活躍し、東海学園大で投手コーチを務める上原晃氏は、沖縄水産からドラフト3位で中日入り。ルーキーイヤーの1988年はシーズン後半からリリーフとしてリーグ優勝に貢献した。そんな輝かしい実績の持ち主も、プロ5年目の1992年に血行障害を患い思うような投球ができなくなった。1試合の登板に終わった9年目の1996年に戦力外通告。それでも諦めなかったが、現実はシビアだった。

 1996年は星野仙一監督が復帰したシーズン。上原氏は恩師の下で復活を期したが、結果を出せなかった。6月11日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)に、5-9の9回に7番手で登板したが、1回を2失点。この年の1軍登板はこの試合だけに終わった。何とかチャンスを得ようと頑張ったが、声がかかることはなかった。「2軍でもあまり投げさせてもらえなかった。本来のボールじゃなかった。星野さんにもそう見えたんだと思います」。

 待っていたのは戦力外通告だった。「そろそろかなって覚悟はしていました。9月頃だったかなぁ、球団に呼ばれて言われました。星野さんに獲ってもらって、最後も星野さんで、という形で……」。でも野球をやめるつもりはなかった。広島のテストを受けることにした。「(沖縄水産監督の)栽(弘義)先生に相談したら『いいんじゃないか、そこでチャンスをもらってみたら』と言われた。カープは高校の時に僕を買ってくれていたそうなんです。拾ってもらいました」。

 しかし、10年目の1997年、三村敏之監督率いる広島で上原氏の1軍登板はなかった。キャンプは1軍だったが、その後2軍に落ちた。「2軍ではちょこちょこ投げてという感じだったんですけど、這い上がれない状態でした」。1年で戦力外となり、今度はヤクルトのテストを受けることにした。「野村(克也)監督の野球に興味があった。野村さんに再生されて活躍した人もいたのでね」。入団が決まり、今度こその思いだった。

1998年は燕で野村野球を経験…オフにロッテ移籍を模索も実現せず

 初めて触れた野村野球は勉強になることばかりだったという。「1軍のキャンプでやらせてもらったので、ミーティングも学校の先生が黒板に書くような感じで、それをノートにうつして……。書いて、残していくことがすごく大事だということを学び、自分でも野球ノートみたいなものを作るようになった。すごい充実した1年でした」。

 ヤクルトでのプロ11年目(1998年)、上原氏の状態は上向いていた。ストレートの球速も143キロくらいまでに戻った。「2軍でも先発して、いい感じだった。手応えも少しずつですがあったんですよ」。だが、1軍登板はなかった。「夏場に1回チャンスがあったんですけど血マメができて回避となったんです」。最後は運もなかった。「あの年、イースタンでは優勝。貴重な経験でした。五十嵐亮太(元ヤクルト、メッツなど)が1年目。いいピッチャーと思いましたね」。

 結局、ヤクルトも1年だけの在籍。3年連続戦力外という厳しい状況だった。それでも上原氏はチャレンジしようとした。「今度はロッテ。パ・リーグの野球もやってみたいと思って打診はしたんですが……」。うまくいかなかった。「ヤクルトで良くなっていたし、まだ29歳だったし、もう1年やりたかったんですけどね。2人目の子どもも東京で生まれて、もう無理もできないかなって。それでやめることにしたんです」。

 プロ通算成績は138試合に登板し、19勝21敗1セーブ、防御率4.85。スピードボールが武器で、1年目から大活躍した右腕は、人差し指、中指の血行障害という故障に泣かされた。肩、肘は問題なかっただけに、悔しい結果だった。だが、星野・中日を優勝に導いた伝説の右腕であることは間違いない。大活躍した時期の躍動感あふれる投球フォームからの剛速球は今でも語り継がれている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)