年末は積極的にアプローチしてきた彼が、年明けになって急に女に冷たくなったワケとは
港区界隈に夜の帷が下りる頃、あちこちで「ポン！」と軽快な音を立ててシャンパンが開く。
そこに突如として現れる美麗な1人の女がいる。
彼女の名は、天堂麗香。人呼んで「ポン女」。
港区とシャンパンをこよなく愛し、この地の治安と経済の発展のために生きる伝説の女だ。
◆これまでのあらすじ
早坂と近藤と飲みに行った菜々子。帰りはタクシーで早坂に送ってもらうことになった。ごく自然に手を繋ぎ、最後LINE交換をして別れたが…。
Vol.9 突然の来客
近藤と早坂と3人で飲んだ翌日。
菜々子は、いつもと同じように10時にクリニックに出勤した。
夜中まで遊んでいた割には、すっきり起きることができたし、気分もよい。
「おはようございまーす。麗香さん、昨日はすみませんでした」
麗香は、すでにPCに向かい、ECサイトの売上をチェックしている。
いつだって、ちゃんとヒールの靴を履き、ぴんと背筋を伸ばしている姿に、菜々子は感心する。
「おはよう。昨日は楽しかった？」
PCから顔を上げ、麗香がニヤッと笑った。
「バーでビールを飲んだあと、近藤さんが合流して3人でカラオケで盛り上がりました」
「楽しそうじゃない。近藤くん、いい人でしょ？私、彼のお父様と昔からの知り合いなのよ」
菜々子は麗香の向かいの席に座り、同じようにPCを立ち上げる。
そして、椅子の背もたれの下の方に小さなクッションを差し込み、姿勢を正した。最近、麗香に倣って自分なりに座り方を改善しているのだ。
「聞きました。早坂さんと近藤さんは学生時代の友人だけど、私とは共通項がないので、最初は麗香さんネタでもちきりでした」
菜々子もニヤッと笑う。
「そう。銀座時代のお客さまなの」
「それは意外でした」
菜々子は、正直な感想を言ってから「その前は何をされていたんですか？」と興味本位で聞いてみた。
「売れない女優」
“売れない”という前置きに「そんなことないんじゃないですか？」と菜々子は返す。
「ううん、本当に売れなかったの。だから、役を取るためにこの間のアサヒみたいな話も来るようになっちゃって。
でもアサヒはすでに売れているから。私の場合は来る話のレベルももっと低かった。
そんなことしなくちゃいけないなら、女優なんてならなくていい、って思ったわ」
「厳しい世界ですね」
「その頃、女優の卵みたいな女の子ばかりを集めて営業しているラウンジが銀座にあってね、近藤さんや今の夫とは、そこで知り合ったの。
銀座は客層がいいし、人と話すのが好きだから、楽しい仕事だったわ」
クリニックの院長である麗香の夫は、彼女よりかなり歳上だが、穏やかで優しそうな人だ。
なにより、自由奔放に生活する妻のことを「クリニックの広告塔」と寛容に見ているところも素敵だと菜々子は思う。
「ところで、菜々子はどっちと付き合うの？近藤さんと早坂さん」
いきなり想定外の質問が飛んできた。
動揺したせいか、答えを考えるよりも先に、菜々子の手にしていたシャープペンシルの芯がボキッと折れる。
「そんなんじゃないです。本当にただカラオケに行っただけです。だいたい知り合ったばかりだし」
菜々子は会話を断ち切るように、いくつかの資料を手渡した。
「麗香さん、年始のテレビショッピングの台本お渡ししますね。今回、スムージーのアレンジをスタジオで見せるので、エプロン持参です。
収録の後、スタッフとの新年会があって、翌日6日は、キイナさんのバースデーがあります。あと、ファイルの中身は、WEB媒体に出している求人広告の応募状況です。年末にもかかわらず結構応募が来ていて…」
こうして雑談の合間、合間に菜々子はスケジュールをリマインドしていく。
以前の仕事に比べ実働時間は長いけれど、ストレスは感じていない。
「わかったわ」
「では、年明けもよろしくお願いします」
忙しいのには理由がある。
有名人への美容アイテムのギフティング効果もあって、ECサイトの売上が急増しているのだ。
麗香は美容商品の販売に際し、スタッフを増員したがっており、募集をかけたばかり。テレビショッピング出演の効果で、応募状況は上々だ。
「新年会とキイナのバースデーだけど、私、1人で行くから、1週目は実家でゆっくりしてきたら？」
「いえ、一応、収録から仕事始めます。新年会は行きますけど、キイナさんのバースデーは遠慮してもいいですか？」
「もちろん」
実は昨日、近藤と早坂から3人で1月6日に新年会でもしようと誘われたのだ。
「もう年末なんて…早いですね」
今年は今日で仕事納め。思わず、1人で感慨に耽っていると、ピンポンと来客を知らせるインターホンの音がした。
「いいわよ、私が出るから」
麗香が立ち上がって入り口に向かう。
「あら、早坂くん。どうしたの？」
― 早坂くん、って言った？
菜々子の脳裏に、昨夜の出来事が蘇った。
「おはようございます。菜々子さんいますか？
昨夜、ご一緒したんですが、タクシーの中にレザーのグローブを忘れていったので」
今朝、バッグの中、コートのポケットと愛用のグローブを探したが見つからなかったのは、忘れていたからなのか、と菜々子は納得した。
「菜々子ー！」と麗香に呼ばれ、椅子から立ち上がる。
とりあえず近くにあった鏡で顔と髪をチェックしてから入り口に向かう。
「おはようございます。すみません、わざわざ」
「いや、ちょうどこのあたりに用事があったから全然」
途中で口ごもる早坂。
だが、続きを言わないまま「じゃ、また来年ね」と言って去っていった。
― 最後、何が言いたかったんだろう？
入り口のガラス扉の向こうで遠ざかっていく、背の高い影。
ひとつ小さくため息をついて、届けてもらった、グローブをきゅっと握りしめた。すると、ガサっと乾いた音がした。
― 手袋に何か入ってる？
『昨日は楽しかったです。勢いで新年会の約束をしてしまいましたが、無理のない範囲で』
自身の名刺の裏に、青いボールペンでメッセージが書かれていた。
早坂は、“近藤が菜々子に好意を持っていること”を知っているため、嫌だったら来なくても大丈夫、という意味だと菜々子は理解した。
― 早坂さんって、優しい…。
「もう帰っちゃったの？」
席に戻ると、台本をめくり付箋をつけている麗香が聞いてきた。
「ええ」と短く答えた。ジャケットのポケットに名刺を入れ、バッグの中にグローブをしまう。
何事もなかったかのように、菜々子が席に戻った時、資料をめくる手を止め麗香が言った。
「わざわざ届けてくれるなんて、優しいわね、彼」
顔を上げた麗香と目が合い、「はい、助かりました」と菜々子は素直に答えた。
◆
年が明け、しばらくするとまた慌ただしい日常が戻ってきた。
「麗香さん、面接の日程を組もうと思ってるんですけど、テレビショッピングの影響で意外と応募が多かったので…」
菜々子が途中まで言いかけた時。
「2人ね。誰を採用するかは、菜々子に任せるから」
「えっ、責任重大ですけど」
「菜々子が一緒に仕事しやすい人を採ればいいのよ」
躊躇する菜々子に、麗香は言う。
「そういえば、今日のキイナのパーティー、菜々子は来ないんだっけ？シャンパンはドンペリらしいわよ！」
「そうなんですね。残念ですが、早坂さんと近藤さんと3人で新年会なんです。
キイナさんへのプレゼントはそこに買ってあります。カシウエアのブランケットです」
麗香は、満足そうな顔で手を叩いた。
「菜々子、パーフェクト！素晴らしいわ」
大袈裟ともとれる麗香のリアクションを、菜々子は適当に受け流す。
「あ、ありがとうございます。ご一緒できなくてすみません」
近藤、早坂の2人とは、19時に六本木の『中国飯店』で待ち合わせしている。
18時半。
クリニックを出た菜々子は、六本木ヒルズを抜け、六本木通り方面に歩いて向かう。
お祭り気分半分、焦燥感半分の年末より、菜々子は真新しくて、華やかな新年の空気が好きだ。
交差点を渡ると、中国飯店だ。植え込みの前には男性が1人立っているのが見えた。
「近藤さん？」
声をかけると、彼は嬉しそうに振り向いた。
「明けましておめでとう」と言う彼に、菜々子も「おめでとうございます」と返した。
「早坂さんはまだですか？」
あたりを見回しながら菜々子が尋ねる。
すると、近藤が少し残念そうな表情で言ったのだ。
「あいつさ、新年早々仕事でトラブっちゃったみたいで、今日来れないんだって。
ついさっき電話がかかってきて。でもせっかくだから、2人で食事しようよ」
― えっ、来れないの？
自分でも驚くほど、気持ちがシュンと縮んだような感覚を覚えた。だが、それを顔に出さないように、菜々子は「それは残念です」とだけ言って、軽く笑った。
― 本当に仕事なのかな…。
ふと浮かんだ疑問符。
と同時に、年末早坂からもらったメッセージの一部を思い出した。
“無理のない範囲で”
菜々子は、あの一節の意味を今更ながら考えた。
今日来なかったのは、きっと近藤に気を使ったのか、あるいは、近藤から頼まれて来なかったのか、そのどちらかだ。クリニックにやってきた日、早坂が言おうとして言わなかったのは、きっと今日のことなのではないか？
「じゃ、入ろうか」
近藤の声で菜々子は我にかえる。
そして、もやもやした気持ちを押し隠し、「はい」と答えた。
▶前回：男の人と2人で飲むの、久しぶりかも…。楽しくて深夜3時まで一緒にいたら、意外な展開に…
▶1話目はこちら：港区でシャンパンが開く場所に、なぜか必ず現れる女。彼女の目的は一体…
▶NEXT：1月5日 木曜更新予定
少し気になる男性と、条件がいい男性。突然現れた選択肢に悩む菜々子は…
