「夫の仕事がうまくいってると、私は暗い気持ちになる」世帯年収が上がれば嬉しいはずなのに、なぜ？
「結婚しない男女が増えている」と言われる昨今。しかし東京の婚姻率は人口1,000人当たり5.5%で、なんと全国1位を誇っている。（※『令和2年 東京都人口動態統計年報』）
特に「東京都区部」と呼ばれる東京23区は、その中枢を担っているのだ。
ただ、結婚すればそれだけで幸せなのだろうか？
東京23区内は、エリアによって生活している人たちの特徴が全く異なり、価値観や悩みも違う。
それぞれの区に生息する夫婦が抱える、苦悩や問題とは…？
安定した暮らしを送る文京区夫婦／薫（45）の場合
護国寺駅に程近い編集部を後にし、私は足早に契約しているパーキングへと向かう。停めてあった車に乗り込むと、息子のお迎えに急いだ。
英会話スクールの前にある駐車場へ車を停め、車中でいくつかのメールをチェックしながら待つ。
するとレッスンが終わったのか、わらわらと幼い子どもたちが教室から飛び出してきた。
もう小学校2年生になるというのに相変わらずおっとりしている息子の湊は、一番最後に教室から出てくる。
「おかえり湊。今日のレッスンはどうだった？」
「楽しかったよ。ところでママ、今日の晩ご飯は何？」
こういう会話をしていると、まだまだ幼くて可愛い赤ちゃんのように思えるときがある。
可愛い息子と、同い年の夫。私たちは文京区に住む3人家族だ。
さらに夫婦2人とも同じ大手出版社に勤めていて、世帯年収は3,000万弱。自分は「ずっと東京の勝ち組だ」と思っていた。
けれど最近は、モヤモヤと考え込んでしまうことも増えたのだ…。
「湊！ちゃんとニンジンも食べなさい」
「はーい」
週末に作り置きしておいた副菜とメインのハンバーグを出すと、湊は綺麗にキャロットラペだけ残している。
「ねえ、今日パパは？」
「うーん。今日は、帰ってくるの遅くなると思うよ」
今夜は夫の所属する編集部が校了日なので、彼の帰宅は明け方になるだろう。
そんな夫の洋平とは、社内恋愛を経て結婚した。
当時、私は女性誌の編集部に在籍していて、現役バリバリの第一線で働いていた。夫も週刊誌の部署にいたので、2人とも忙しくて全くスケジュールが合わない。
そこで「どうせなら一緒に住んでしまおう」という安易な発想からすぐに同棲をし、3年後に籍を入れた。私は31歳。洋平は32歳というタイミングだった。
私はずっと、編集者という仕事にプライドを持ってやってきたつもりだ。それに人生において、仕事がかなり高いプライオリティーを占めてきた。
でも結婚した後は、様々な事情が絡んで私は第一線を退いたのだ…。
お風呂に入った湊が上がってくるのを待ちながら、夕食の後片付けをしたり、洗濯機を回したり。
ダイニングテーブルの上に開きっぱなしになっている湊の宿題を、勉強部屋まで持って行ったりしているうちにあっという間に夜は更けていく。
「ママ、今日は一緒に寝るの？」
「うん。今日は湊と一緒に寝ようかな」
私たちは本郷三丁目駅から徒歩10分圏内の、3LDKで72平米のマンションに親子3人で暮らしている。
10年前に1億強で購入したこのマンションは、私と洋平のペアローンだ。2人とも正社員で働いているため、ローンを借りるのには全く苦労しなかった。
ただ3LDKのマンションなので、寝室は3つある。私と湊、そして洋平の部屋にもベッドがあるから。
でも息子と私は一緒に寝ることが多く、湊のベッドはほとんど使っていない。その一方で、洋平は基本的に1人で寝ている。
最後に夫と一緒のベッドで寝た日のことなんて、思い出せないくらい遥か遠く昔のことだった。
「じゃあ湊。寝る前に今日の復習をしようか」
眠そうにしている息子を前に、せめて今日の復習くらいはさせようとするけれど…。本人は今にも寝てしまいそうな顔をしている。
「ママ、明日じゃダメ？」
「ダメです。今日やれることは今日やらないといけないから」
ついキツイ口調になっていることに、気がついている。
でもまた甘やかしたら洋平から何か言われそうなので、私は頑張って湊を勉強好きにさせようとしているのだ。
早稲田大学の、文学部出身の夫。同期の中でも出世頭で、とにかく頭の回転が速くて有能な人だ。
ただいつも冷静な洋平との夫婦生活は、至って静かなもの。大嵐が来るわけでもないし、予想外の雨も降らない。でもスカッと快晴なわけでもない。
― どんよりとした曇り空が、いつまでも続く感じ…。
「ママ、どうしたの？」
「あぁ、ごめん。ぼうっとしてた。湊はママたちの宝だからね」
まだ小さい息子を思いっきりハグすると、子ども用シャンプーのいい香りがする。
私たち夫婦は、なかなか子どもができなかった。湊は、5年の不妊治療を経てようやく授かった第一子なのだ。
そんな息子のために、私はすべてを一度諦めた。
翌朝。まだ寝ている洋平を起こさないようにしながら、私は静かに朝食の用意を始めた。
昨年お受験に成功した湊は、世田谷区にある私立一貫校に通っている。だから学生時代の友人たちに会うと、いつも羨望の眼差しで見られるのだ。
「夫婦揃って大手出版社勤務で、子どももいて。しかもお受験にも成功して…。本当、薫の人生は完璧だね」
「そうだね。ありがとう」
でもそう笑顔で返すたびに、私の心はチクリと痛む。
一見すると、1mmの狂いもない人生設計。可愛い子どもと愛する夫に囲まれ、経済的にも安定している。
私は不妊治療に専念するため、定時で帰れる部署に異動した。
結果として湊も授かれたので、良かったことに違いはない。でも夫が仕事で何か成功するたびに、手放しで喜べない自分がいる。
― 本当は私だって、その立場にいたのに…。
湊を送り出してしばらく家にいると、寝癖がついた洋平がのそのそと起きてきた。
「あれ、おはよう」
「おはよう」
愛情がないわけでもない。でも仲がいいわけでもない。
長くてツラすぎた不妊治療は、私たち夫婦の間に見えない傷痕を残した。子どもを作ることが作業になり、できないたびにひどく落ち込んだ。
落ち込みすぎて泣きすぎて、一度涙は枯れ果てた。それにお金も散々使ったし、気力も体力も使ったのだ。
5年経ってできた湊はかけがえのない宝物だ。洋平にとってもそれは間違いなく、私たちは心の底から息子を愛している。
でも湊を妊娠してから、私たち夫婦の間には違う風が吹いている。男女関係なんて、とっくに終わっている。
ただのパートナーとなった。
「じゃあ私、行ってくるから」
「気をつけて行ってきてね」
洋平から、最後に私の名前を呼ばれたのはいつだろうか。いつも「ママ」と呼ばれ「薫」とは呼ばれない。
バリバリ仕事をしていたときは、仮に寝不足でもなんでも楽しかった。自分が作った誌面に、読者から反応があることがすごく嬉しかったから。
それに撮影現場は、最高のアドレナリンが出る場でもあった。
「あのときは、みんなから薫さんって呼ばれていたのにな…」
1月の朝はまだ寒いけれど、私は車の窓を全開にして会社まで走らせてみる。
文京区は静かな街だ。文豪が愛した街らしく、教育水準も高くて有名な大学がいくつもある。昔から住んでいる人たちも多くて、なおかつ治安もいい。
でもそこに、大きなドラマや刺激はない。
静かに流れていく時間は、まるで小説の一部のように綺麗な言葉が似合う。緑豊かな路地に差す朝の光は、ただ美しい。
「私の選択は、正解だから」
そう自分に言い聞かせながら、車のハンドルを強く握った。
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