日本の長門型戦艦は世界で最初に41cm砲を採用した戦艦で、旧日本海軍の象徴でした。ただ長門型戦艦も就役時はともかく、第2次世界大戦直前、すなわち1935年ころはどうだったのでしょうか。大規模改装後の実力を見てみます。

大改装で主砲塔は「加賀」のものを転用

 いまから100年ほど前の1920(大正9)年11月25日、旧日本海軍の戦艦「長門」が竣工しました。同艦は、同型艦「陸奥」とともに、旧日本海軍の象徴として昭和初期には日本国民に広く愛された軍艦でした。

 また世界で最初に41cm砲を採用した戦艦として、「世界最強」と呼ばれたこともあったようですが、実際「長門」は太平洋戦争直前、すなわち新型の大和型戦艦が登場する前は、米英の戦艦と比べてどの程度のレベルを有していたのでしょうか。


1924年撮影。改修前のため、特徴的な屈曲した煙突はまだ見られない(画像:アメリカ海軍)。

「長門」は就役から10年余りたった1931(昭和6)年より、砲戦能力の改善と防御力改善を目的とした大改装を開始しました。ワシントン海軍軍縮条約は改装で増大する排水量を3000t以内としていましたが、長門型は条約終了後に改装が完成すると見込まれていたため、その規定を無視した改装内容となっていました。

 攻撃力の増強には、未完成に終わった “改長門型” といえる加賀型戦艦の主砲塔を転用・換装する形が採られ、これにより主砲仰角を30度から43度に拡大。さらに新型砲弾の九一式徹甲弾を使用可能としました。

 九一式徹甲弾は、砲弾の先端に装着した被帽(キャップ)を先鋭化することで、空力性能を改善して、射程距離を増大化させた砲弾です。併せて目標艦の手前に砲弾が落ちた場合には、被帽が外れることで、水中を直進して、魚雷のように敵艦の水線下に命中しやすい特性を持っています。これにより主砲射程は就役時の3万300mから、3万8430mへと大幅に増大しています。

 これに伴い、大型の10m二重測距儀と九四式方位盤射撃装置への換装も行われています。測距儀のサイズを上げたことにより、着弾位置をより正確に観測できるようになり、方位盤射撃装置を更新したことで、それまでできなかった「主砲を発砲してから、着弾するまでのタイムラグを計算に入れて、目標の未来位置に砲撃する」ことが可能となり、遠距離砲撃能力が向上したのです。

 主砲発射速度も砲塔内に砲弾が準備されている場合ですが、仰角40度で約30秒となりました。これは大和型戦艦の約40秒よりも早いことになります。

 九一式徹甲弾は貫通力も増大しています。就役時に搭載していた被帽徹甲弾(通称:三年帽)では、射距離20kmでの垂直装甲貫通力は348mm(272mmなど異説もあり)でしたが、九一式徹甲弾では454mmと30%もアップしています。

 のちに登場する大和型戦艦の46cm砲弾が同じ距離で493mmの貫通力であり、改装後の長門と比べて9%の増大に止まっていることを鑑みると、1〜2ランク上の主砲装備に近い攻撃力向上を、門数を減らさずに実現しているのは驚異的といえるでしょう。

排水量アップしても船体形状を変えて速力は維持

 一方、防御力については、これだけの威力がある41cm九一式徹甲弾が自艦に向けて放たれたとしても、弾薬庫部分については「2万〜3万mの砲戦距離でなら耐えられる」レベルが確保されました。扶桑型戦艦の防御力増強では、艦の全体で少しずつ装甲を増やしていたのですが、それでは弾薬庫も機関部も中途半端な防御力となるため、弾薬庫を重点的に強化したのです。


1928年4月、香港にて。排煙対策のため煙突が大きく屈曲している(画像:アメリカ海軍)。

 なお、舷側装甲の傾斜化も検討されました。同じ装甲厚でも、装甲を垂直に立てるより、外側に傾斜させて取り付けた方が、敵砲弾が命中した際に装甲を通過する距離が長くなり、防御力が上がるからです。実際、大和型戦艦や各国の新型戦艦はほとんど傾斜装甲を採用していました。

 この傾斜装甲化が実現していれば、弾薬庫だけではなく、機関部の舷側装甲も強化されたことでしょう。しかし、装甲の取り付け位置を変えることで、損傷時に船体が転覆しやすくなることもあり、採用が見送られました。

 その結果、舷側装甲の裏に二重装甲という形で設けられていた水平装甲傾斜部の厚さ(76mm)に127〜292mm分を張り足し、大幅に強化しています。つまり、305 mm(299mm説も)+203〜363mmということになります。材質にばらつきがあり、1枚板でもないので実質的な防御力では劣るものの、大和型戦艦よりも合計装甲厚では勝る「全戦艦でも最高レベルの垂直防御」を備えています。

 砲塔前盾や砲塔を支える柱であるバーベットも、装甲を増設することで最高508mm厚にまで強化しています。また砲塔天蓋部分も229〜250mm厚となりました。ちなみに、これら数値はアメリカが最後に建造したアイオワ級戦艦を上回る装甲厚です。

 弾火薬庫部分の水平装甲も127mm厚を増設し、合計209mmに強化しています。しかし、機関部の防御は中甲板に40〜76mm装甲が追加された程度で、舷側装甲は305+76mmと新造時のままでした。これは戦艦の浮力は限られているため、全体的に装甲を増やせば「全て中途半端」となってしまう恐れがあったからです。長門型は弾火薬庫を集中的に強化し、それ以外の部分は留め置く、いうなれば防御力の「取捨選択」を行ったといえるでしょう。なお魚雷に対する防御は、船体側面にバルジを取り付けることで強化を図っています。

 運動性能は、機関出力の増大は行われませんでしたが、艦尾を延長するなどして、排水量は増加しても新造時と大差ない数値を確保しています。たとえばスピードは、改装前の過負荷運転で25.5〜25.9ノット(47.2〜48km/h)を記録していますが、改装後では25.3〜25.8ノット(46.9〜47.8km/h)であり、ほとんど変わりませんでした。実際、レイテ沖海戦で「長門」は、27〜28ノット(50〜51.9km/h)を発揮できる大和型戦艦と隊列を組んでも、落伍していません。

 なお機関を換装し、最大速力を29.3ノット(54.3km/h)に向上させたうえで、機関の小型化によって空いたスペースに航空機9機を搭載する案も検討されたものの、艦政本部造船部から技術的な反対をされ、この案は断念されています。

米英の新型艦にも引けを取らない性能を維持

 長門型の改装は1935(昭和11)年に終了しました。改装後の長門型は、機関部の舷側/水平装甲は薄かったものの、攻撃力と弾火薬庫部の防御が飛躍的に向上しており、イギリスのネルソン級戦艦を上回り「世界最強の戦艦」になったと筆者(安藤昌季:乗りものライター)は考えます。

 また1936(昭和12)年には、ワシントンとロンドンの両海軍軍縮条約が失効したことに伴い、日米英仏伊独の各国は新しい戦艦の建造に着手し始めます。その結果、1940(昭和15)年に就役したイギリスのキングジョージV世級を皮切りに、続々と次世代戦艦が姿を現し始めました。


1944年10月21日ブルネイ泊地にて。レイテ沖海戦に向かう前の戦艦「長門」(画像:アメリカ海軍)。

 ただ、これら各国の新型戦艦は長門型を速力では上回っていたものの、長門型が持つ41cm砲が通じないほどの防御力は備えておらず、むしろ弾火薬庫と砲塔防御では長門型がやや上回っていました。

 このため、確実に長門型の砲撃戦能力を上回る戦艦は、1941(昭和16)年に就役した大和型戦艦まで登場しませんでした。ゆえに長門型2隻は、超重量砲弾(SHS)を装備した、アメリカ戦艦と比較した場合でも「機関部防御で劣る長門型がやや不利ながら、概ね対抗可能」な能力を有しており「最強の旧式戦艦」の一角を占めていたといえるでしょう。

 なお、建造時ライバルだった、アメリカのコロラド級戦艦は、太平洋戦争初戦のハワイ・真珠湾攻撃で大被害を受けた「ウェストバージニア」が、艦容を一変させる大改装をしています。弾火薬庫が76mm増厚されて165mmに、機関部も140mmに増厚され、砲塔天蓋も178〜190mmに強化された「ウェストバージニア」は、新型のサウスダコタ級戦艦に匹敵する攻防力を備えていました。高性能レーダーも搭載され、その性能は改装後の長門型でも容易ならざる敵だったようです。

 改装後の長門型戦艦2隻は1935〜1940(昭和11〜15)年にかけて、確実に「世界最強」の戦艦だったといえます。各国の新型戦艦が就役した後では、世界最強とは言い難いレベルになったものの「砲戦で確実に長門型を打倒できる」艦型は登場しなかったため、それらが出そろった後も、戦艦としては世界的に見ても有力だったと評価できるのではないでしょうか。