大正期の巨大戦艦建造のパイオニアでした。

大正期の巨大戦艦建造のパイオニア


1926年、佐世保にて主砲の操作訓練中の「比叡」。練習戦艦に改装される前の、比較的初期の姿(画像:アメリカ海軍)。

 今から110年前の1912(大正元)年11月21日。旧日本海軍の戦艦「比叡」が進水を迎えました。

 旧海軍の歴史で、「比叡」は重要な意味を持ちます。日本が自らの手で作り上げた次世代の巨大戦艦、いわゆる「超ド級戦艦」であるのです。

「超ド級戦艦」の「ド」は、当時イギリスで登場し世界中を震撼させた巨大艦「ドレッドノート」のことです。砲力・速力ともにそれまでの規模を塗り替え、戦艦の”大開発時代”を到来させた存在でした。

 日本も同様にドレッドノートに匹敵する戦艦を建造し始めます。最初はイギリスのヴィッカース社が建造に携わり、「金剛」を進水させます。この「金剛」から技術を参考にし、ヴ社からの技術協力も受けたうえで、日本の手で作り上げた”金剛型2番艦”が、「比叡」でした。

 第一次世界大戦が終結すると、ワシントン・ロンドンと相次いで軍縮条約が発効。艦船所持枠の関係で、「比叡」は「練習艦」となることが決定しました。具体的には魚雷や航空機発着機能の撤去、砲数の削減などが行われたのです。とはいえ実際は、「皇族を乗せる船」としての利用が多く、結果的に新聞やラジオへの露出で、国民に最も知られた戦艦のひとつと言えるかもしれません。

 1936年にロンドン軍縮条約が期限切れとなると、「比叡」はここではじめて「戦艦」としての改装がなされました。この改装で培われた技術はのちの「大和型戦艦」へも引き継がれます。

 太平洋戦争が勃発すると真珠湾攻撃やミッドウェー作戦にも参加。1942年のソロモン海戦でアメリカ軍の爆撃や魚雷攻撃を受け、沈没を遂げました。ながらくその姿は不明のままでしたが、2019年にアメリカの調査チームが、深さ約1000mの海底に沈んでいるのを発見。約70年の月日を経て、数奇な運命となった戦艦はふたたび人目に触れることとなったのです。 


※一部修正しました(11月22日11時20分)。