斎藤佑樹が甲子園決勝で田中将大に抱いた複雑な感情「投げるボールは敵わないけど、エースとしては負けていない」
2006年、夏の甲子園。駒大苫小牧と早実の決勝......延長15回で引き分けた翌日の再試合は、大詰めを迎えていた。4−3と早実がリードして、9回表ツーアウト、ランナーなし。マウンドには斎藤佑樹、バッターボックスには田中将大が立っていた。
夏の甲子園決勝再試合で駒大苫小牧を破り日本一を達成した早実のエース・斎藤佑樹
試合が終わってから「できすぎた幕切れだった」とよく言われました。のちに"マー君"と"佑ちゃん"と呼ばれる僕らが、再試合の9回ツーアウトで対戦する......もちろん、その意味は僕にもわかります(笑)。
ただ当時の僕のなかには、ツーアウトでマー君、という特別な意識は本当にありませんでした。その理由は2つあります。
まずひとつは、早実のピッチャーとして意識すべき駒大苫小牧のバッターはあくまで4番の本間(篤史)君だったということ。本間君をいかに抑えるかというのが試合に勝つためのカギだと思っていましたから、バッターとしてのマー君は9人のなかの1人という意識しか持っていなかったんです。
もうひとつは、それでもピッチャーとしてのマー君には、僕のなかに複雑な感情があって、それが『彼は特別じゃない』と思わせていたのかもしれません。そもそも2年秋の明治神宮大会で彼のピッチングを初めて見た時から、これは次元の違うピッチャーだと思っていました。だからピッチャーとしてのマー君に対するリスペクトの気持ちはずっと持っていて、投げるボールに関してはとても敵わないと思っていたのも事実です。
実際、彼は僕ができないことをいくつもできてしまうピッチャーでした。夏の甲子園が終わってからの高校JAPANで一緒になった時、知りたいことがいっぱいあって、僕はマー君を質問攻めにしました。
スライダーの握りを教えてもらったり......僕はスライダーを人差し指で弾くイメージで投げていたんですが、マー君のスライダーは"宜野座カーブ(2001年の選抜に出場した宜野座高校の比嘉裕が操った、縦に落ちながら加速するイメージのカーブ、テークバックのときに手の甲がキャッチャーのほうを向くなど、腕の使い方が独特)"みたいに捻って投げる印象があったんです。それが不思議でいろいろと聞いてやってみたんですけど、僕には彼のスライダーを再現するのは無理でした。
ただ、これはちょっと複雑な心境ではあるんですが、それだけすごいピッチャーだとわかっていながら、あの夏の決勝に関して言えば、僕はマー君に負けていないと思っていたところもありました。
僕は2試合とも先発しましたが、マー君は2試合ともリリーフです。もちろん駒苫の香田(誉士史)監督の考えがあったのはわかっていますが、僕としては背番号1同士、先発で投げ合いたかった。だからその時点で、僕の相手はマー君じゃない、駒苫というチームだという意識が強まっていたんだと思います。投げるボールでは敵わないけど、エースとしては負けていない......そんな感じでしょうか。
最後は144キロのストレート世間の人たちがマー君と僕を並べてくれていると感じたのは、夏の甲子園が終わってからです。周りの人たちの反応や報道を見て、「そうか、世の中の人はこうやって見ているんだな」と思いました。メディアの人たちの前で「マー君、佑ちゃん」と呼び合うように言われた頃は、「もう、別にいいや」と思っていたと思います。そのほうがラクでしたから(苦笑)。
決勝再試合、9回ツーアウトで、バッターはマー君。
その初球は、スライダーが少し高く入ってしまいます。それをマー君が思いきって振ってきて、ファウル。2球目、今度はスライダーが低めのストライクからボールゾーンへ落ちて、またも振ってきて空振り。これでツーストライクと追い込みました。3球目はスライダーがやや内側に低くいって、ファウル。マー君はとにかく積極的に振ってきます。
そして4球目、僕はストレートを投げました。球速は147キロです。延長15回を含んだ4連投で、すべてひとりで投げてきて、この夏の945球目......そのストレートのスピード表示が147キロだったことで、甲子園はどよめきました。
ただ、僕にとってあの147キロは投げられて当然の1球でした。正直、もっと出ているんじゃないかと思ったほどです。そのくらい、ピッチャーとして研ぎ澄まされた感覚がありました。
ワンボール、ツーストライクとなっての5球目、(キャッチャーの)白川(英聖)のサインはストレートでした。でも僕は首を振った。真っすぐで決めたい気持ちはありましたが、スライダーのほうが打ちとれると思ったんです。そうしたらアウトローを狙ったスライダーが高く抜けて、インハイへ甘く入りました。そのボールをマー君がマン振りして、これもファウルです。その直後、白川がマウンドへ飛んできました。「力入ってるよ、力抜いて、丁寧に」って。あの時の白川、よく勝ち急がずにマウンドへ来てくれたと思います。
ボールを丁寧にこねて、帽子をかぶり直して、ロージンを手にとって、落ち着いてから仕切り直します。続く6球目、またもスライダーが真ん中付近へいってしまいましたが、これもマー君が当ててきて、三塁線へファウル。
そして7球目、サインはストレート。今度は僕も頷きました。アウトコースに144キロ、マー君が振ってきて......この時、バットにかすっていたんじゃないかと思います。それを白川が捕って、三振、試合終了。
ガッツポーズのイメージは松坂大輔ついに夏の甲子園、優勝です。
優勝の瞬間、僕はクルッと回ったんですが、あの時、センター方向に向かってガッツポーズしたのは松坂(大輔)さんのイメージでした。でも、じつは「もしアウトカウントを間違えてガッツポーズしていたら恥ずかしいじゃん」と思っていたんですけどね(笑)。松坂さんの時にはあっという間にみんなが集まってきた印象があったのに、「あれっ、まだ来ないぞ」って。
僕がずっと目指してきたのは1998年の夏、横浜高校が甲子園で優勝した時の松坂さんです。だからエンディングはああいうガッツポーズしかあり得ませんでした。松坂さんと......あと、漫画『MAJOR』(満田拓也作)の茂野吾郎とも同じイメージだったんです(笑)。
『MAJOR』でも吾郎の亡くなったお父さんが打ったライトへのホームランを、最後、自分でも打つじゃないですか。もうかなりの方にバレているとは思いますが(笑)、僕って若干のロマンチストなんですよ。それこそ『MAJOR』を読んで、最初は野球部もなかった弱小の聖秀学院が、吾郎が入部してあの強い海堂高校を追い詰めるくらいまで強くなったじゃないですか。
僕がつくったストーリーは、群馬の片田舎から出てきた生意気な野球少年が東京の早実に入ってエースになって、強い相手に勝って、甲子園で優勝する。そうやって勝手に『MAJOR』みたいな下克上のストーリーをつくっていたんです。
あの夏、(日大)三高に延長で勝って甲子園に出られた。その後も強い相手に勝って、決勝まで勝ち進んだ。これはストーリーどおりだ、レールに乗っちゃってる、もうストーリーはできあがっているんだと、本気でそう考えていました。だから延長になっても再試合になっても「準優勝は絶対にあり得ない。優勝するのは自分たちだ」と決めてかかっていたんです。
最後、マー君から三振をとった144キロも、自分では150キロを投げたつもりだったんですよね。144キロだったと聞いて、やっぱり疲れてたんだなと思いました(笑)。あの一球は120パーセントの力を使えば、アドレナリンも出ていたし、甲子園での自分のマックス(149キロ)は超えられるんじゃないかなと思っていました。
高校野球のエースには、誰よりも負けん気が強くて、自分が先頭に立って突っ走るイメージがあります。キャプテンじゃないけどキャプテンみたいな感じ。だから僕も自分のなかでいろいろなドラマを勝手につくって、ピッチングで表現する。頑張って頑張って、ヘトヘトになって苦しんで、それでも最終的には自分が勝つ......それがエースであり、松坂さんであり、茂野吾郎なんです。
夏の甲子園をイメージすると、マウンドに立っている自分がバックネットの観客席をふわっと見てる感じが思い浮かびます。青臭い緑の匂いがして、自分にとっては甲子園イコール緑、という感じです。で、緑のイメージのネット裏は静かなのに、アルプススタンドは騒がしくて、景色が全然違う。目の前は緑なんだけど、右斜め後ろは白で、聞こえてくるのは『紺碧の空』で......そっか、そういえば決勝は僕ら、3塁側でしたね。
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早実は夏の甲子園で優勝し、斎藤佑樹は優勝投手となった。しかしこの年の斎藤はただの優勝投手ではなかった。「ハンカチ王子」と呼ばれた斎藤は甲子園が終わると、日本でもっとも顔と名前を知られたスーパースターに祭り上げられたのだ。彼を取り巻く世界は、一夜にして変わってしまった。
(次回に続く)