タコ足の名手、ファースト松原誠は「悪送球するなら低めにしてくれ!」
「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第27回 松原誠・前編 (シリーズ記事一覧>>)
記憶に残る「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。かつて大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の4番に座り、最晩年には巨人でもいぶし銀のプレーを見せた松原誠さんが、言及されることの少ない一塁守備についても詳しく語っていた。
送球を受ける際に見せる大股開きの"タコ足"が人気だった松原さんは、捕手から一塁手に転向した際に守備を極めようと技術を磨いてきた。それなのに、ファーストの名手と言われながら一度もゴールデン・グラブ賞を受賞することなく現役を終えた事情とは......。
ファースト松原誠の名人芸「タコ足」キャッチ(写真・Sports Nippon)
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松原誠さんに会いに行ったのは2017年5月。きっかけはその前年のゴールデン・グラブ賞、セ・リーグ一塁手部門にDeNAのホセ・ロペスが選ばれたことだった。DeNAの前身球団=大洋で一塁の名手だった松原さんは、その受賞についてどう見ているのか、と思ったのだ。
ロペスは巨人時代の13年にもゴールデン・グラブ賞を受賞。メジャー通算9年で1036試合に出場して92本塁打、480打点の実績がある一方、主に二塁を守っていた。それだけに、機敏なミットさばきをはじめ一塁守備には一定の評価がある。実際、13年も16年も守備率はリーグトップだった。しかしながら、リーグを代表する名手と言えるのかどうか。
もちろん、ロペスの受賞に文句をつけるつもりはない。今に始まったことではないが、他の内野手に比べて高度な守備力を要求されない一塁手は、どうしても打撃優先になりがちだ。本職からの転向が目立ち、助っ人が守るケースも多いために名手が生まれにくい。現に2010年のゴールデン・グラブ賞、セ・リーグ一塁手部門が〈該当者なし〉となったのは象徴的だ。
その点、松原さんも本職からの転向だった、埼玉・飯能高時代は強肩強打の大型捕手だったが、大洋入団2年目の1963年、当時の監督・三原脩(元・巨人)から打力を生かすべく転向を命じられた。
この経緯自体はよくあることなのだが、松原さんが違ったのは、一塁守備を極めようと努めたことだ。特に、野手からの送球を受ける際に両脚をペタリと地面につける"大股開き"は、アウトの確率を高めると同時に売り物になった。その名手の目に、今の一塁手はどう映っているのだろう。
ただ、名手でありながら、松原さんはゴールデン・グラブ賞(72年〜85年はダイヤモンドグラブ賞)を獲得していない。なぜなら当時、セ・リーグの一塁手部門は巨人・王貞治の牙城。賞が創設された72年から現役を引退する80年まで、9年連続で王が獲り続けた。松原さんはプロ20年目、巨人に移籍した81年限りで引退しているから、どんな思いで王を見ていたのか。
しかも、松原さんは通算2095安打、331本塁打、1180打点を記録した強打者なのに、打撃部門のタイトルを一度も獲っていない。74年と78年にリーグ最多安打を記録したものの、表彰対象となったのは94年からで、一塁手のベストナインも王の牙城だった。
2000安打を達成した選手のうち、記録のタイトルも、記者投票による表彰もないのは松原さんだけ、という事実を僕はこれまで知らずにいた。知らなかったぶん、その野球人生に興味を持たずにいられなかった。
神奈川・横浜市にあるJR根岸線の駅からバスに乗って約10分。約束の10時前に指定された停留所に着くと、松原さん自ら車で迎えに来てくれていた。高台の住宅地にあるご自宅に到着すると、リモコンで車庫の扉を開けながら言った。
「この家は25歳のときから住んでるんです。僕は6人きょうだいの末っ子で、ちっちゃい頃に父親が亡くなってまして、家が貧しくて」
経済的な理由から、憧れていた東京六大学での野球は断念。早くプロに入って母親を楽にさせたいという一心で、最も熱心に誘われた大洋に62年に入団した。レギュラーになって5年目の69年にこの二階建ての家を購入し、母親と一緒に住んだという。50年ほど前に建造された住宅ながら、モダンなデザインのコンクリート造りだった。
カウンターキッチンがよく似合う広々としたリビングルーム。初めて松原さんと面と向かうと、資料にあった〈184cm〉という数字以上に大きく見えた。白いシャツに藍色のジーンズを合わせた細身のスタイルは、年齢をまったく感じさせない。
名刺を交換して間もなく、「どうぞ、どんどん、仕事、いきましょうや」と快活にうながされた。ある文献に〈積極性だけは人一倍〉とあったことを思い出しつつ、僕は取材主旨を説明し、ロペスのゴールデン・グラブ賞の話を持ち出した。
「ロペスって、今のベイスターズのロペス? うーん......。あの賞はけっこう打撃で獲るからね。僕が現役のときは、王さんと比べてオレのほうがうまいって、ずっと思ってたんです。これは自分の評価であって、他の人はわかりませんよ」
ゴールデン・グラブ賞の一塁手部門は、打撃優先の評価になる部分がある──。松原さんもそう認識していて、ロペスの受賞も同様と見なしているようだ。それにしても、王の守備力に対するストレートな思いは、想像を超えるものだった。
「で、実際には王さんがずっと獲った。打撃で負けてるんだと気づいても、意地があるから、なんでオレのとこに来ないんだ? と。だから僕の夢は、必死こいて1回獲って、『こんなもんいらん!』と突き返すこと。拒否してやろうと楽しみにしてました。でも、とうとう来なかった。やっぱり、そういう邪(よこしま)な考えは持つもんじゃないですね」
穏やかな苦笑が顔に広がる。タイトルや表彰は選手の勲章といわれ、受賞拒否などまず考えられないわけだが、松原さんは実行しようとしていた。僕自身、現役当時の勇姿を記憶しているが、それはベテランの域に達した頃だったからか、大人しくて紳士的な選手だと決めつけていた。内面には、ラジカルなまでの批判精神があったようだ。
「選ぶ基準が純粋に守備じゃないですから、そういう頭になりますよ。逆に、基準を守備だけにするとしたら、僕が知ってるなかでは衣笠がうまかったね。一塁手のいちばんの仕事は悪送球の処理ですから。その点では衣笠がトップクラスだった」
衣笠祥雄(元・広島)も、松原さんと同様に捕手からの転向だった。そこで一軍デビュー時から一塁だった駒田徳広(元・巨人ほか)の名を挙げると、「体が硬いわりにはハンドリングが柔らかくて上手だった」と評価してくれた。それはさておき、「いちばんの仕事は悪送球の処理」という表現はとても納得がいく。転向したとき、三原監督からこう言われたという。
「マツよ、キャッチャーいっぱいいるから、悪いけどファーストへ行こうか。バッティング生かして、そのほうがいいよ。それでマツ、一塁手がいちばん大切なのは悪送球の処理。次に、一、二塁間の打球、出るか引っ込むか。あとはランナー一塁でライト線に打球が飛んだら、カットマンが入るからそのカバーリングに行く。この3つだけだから」
一塁に限らず、三原監督は各ポジションの仕事を明確に把握していた。6年連続最下位だった大洋を就任1年目の60年に日本一に導いた知将、その頭脳の働きの鋭さを、松原さんは一塁転向のときに初めて感じた。
悪送球の処理能力を高めるための練習は、捕手のマスクと防具を付けた状態でノックを繰り返し受けるというもの。ショートバウンドにハーフバウンド、さまざまな悪送球が短い距離からのノックで再現された。自信をつけた松原さんは、のちにチームの野手たちに願い出た。
「ショートの山下大輔にもしょっちゅう言ってました。『悪送球するんなら絶対、低いボール。高いのは捕りようがないけど、低いのはなんとかするから』って」
遊撃手部門で歴代最多の8度、ダイヤモンドクラブ賞に輝いた山下も、松原さんの捕球にだいぶ助けられていたようだ。一方、当時の一塁手の定義は「いちばん下手なヤツがなる。そのかわり、バッティングはちょっといい」だったという。表現はともかくとして、定義は今とあまり変わらないのでは?
「いやいや、今は全然、違うでしょう。いちばん大切なポジションと言ってもいいんじゃないですか? 内野の要のショート、セカンドよりも球数を多く扱うわけですから」
名一塁手が少ない今、松原さんのような名手がいる内野陣は確実に守備力が向上するだろう。では、一塁手の存在がさほど重視されていない時代、松原さんはなぜ一塁守備を磨き上げ、"大股開き"を身につけるに至ったのか。
「いろいろ考えて、あるとき室内練習場で、一塁ベースからファーストミットまでの長さを測ったことがあります。そしたら、"大股開き"よりも、左膝を立てた姿勢のほうが7センチ長かった。大股開きのほうがわずかに短いんです。でも、膝を立てる姿勢は体が前へ行くから体が浮きやすくて、ベースについた足が離れやすい。
その点、大股開きなら両方に押す形になるんで絶対に足が離れない。いくら7センチ分、早く捕れてもセーフになったら意味ないですからね。それで間一髪のときは両脚を地面につけたんで、『タコ足』とも言われて人気になったんです」
間一髪でやる"大股開き"の"タコ足"は、素早く着地しないと意味がない。もともとの体の柔らかさがあってできたことだが、常に腰に負担がかかった。上背はあった松原さんだが、もともと足腰は弱く、疲れやすく、それも捕手を断念した一因だった。
「僕は足もチームでいちばん遅かったし、腕力も握力もなかったけど、野球に対するセンスみたいなものはちっちゃい頃からあったような気がします。例えば、悪送球の処理なんかでも瞬間的な判断力が必要になりますけど、それもやっぱりセンスでしょう。なぜそんな話をするかというと、僕は高校時代から変化球を打つのがうまかったからなんです」
突然、守備から打撃の話につながった。普通は「真っすぐしか打てない」となるところ、松原さんの場合は体力的に速球に対応しづらく、そのかわり、カーブはじめ変化球を苦にしなかった。とはいえ、速球を打てなければ打撃は成り立たない。
1年目から一軍で34試合に出場した松原さんだったが伸び悩み、初めて100試合を超えた65年も打率2割4分台の6本塁打。すると同年オフ、三原監督は岩本堯(たかし)打撃コーチに「こいつを2年で4番を打てるようにしろ」と命じた。松原さんは休みなしに岩本家に通うことになり、オフもシーズン中もマンツーマン指導を受ける日々が始まった。
「岩本さんには基本を教わりました。立ち方、手の位置、バランス......。正直に言ってしまえば、基本というのは面白くない、つまんないんですよ。でも、これだけバットを振るんだ、練習はこんなにやるんだ、ということを教えてくれて、それはありがたかった」
66年は練習の成果が出て、自身初の規定打席到達で打率.294、10本塁打、56打点。4番での出場も増え、初めてオールスターに出場した。翌67年は助っ人のディック・スチュアートが一塁に入ったため三塁、外野も守り、打率2割4分台も14本塁打。本格的に三塁を守った68年は28本塁打と前年比で倍増し、翌69年は開幕から4番を打った。
(後編につづく)