現代日本は「国と自分の関係を過小にしか感じられなくなった」内田樹氏が語る全共闘運動と政治の季節 - 島村優

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※この記事は2020年03月25日にBLOGOSで公開されたものです

1969年5月13日に行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘の学生が対峙した討論会を映し出すドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が3月20日に公開された。

同作に出演し、時代背景や三島の天皇論について解説しているのが、この討論会の翌年に東京大学に入学した思想家の内田樹氏だ。同氏に討論会の持つ意味や、当時の若者が国家に抱いていたイメージについて聞いた。

クーデターを企て、全共闘学生のリクルートに来た三島

―内田さんご自身も出演されている『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』ですが、改めてこの映画を見て感じたことを教えてください。

この映画に出てくる三島由紀夫はとても魅力的です。何より1000人の学生を相手に1人で立ち向かった胆力は大したものだと思います。1967年から始まった東大闘争の中で、多くの教員が学生の前で問い詰められるようなことがありましたが、そういう状況の中で、きちんと学生に対応するにとどまらず、全共闘の学生を説得して、「自分の味方」にしようというような無謀なことを試みたのは後にも先にも三島由紀夫だけです。三島には自分なら学生たちを説得できるという自信があったんだと思います。それだけでも、いかに三島由紀夫が例外的な人物だったのかがわかると思います。

―文脈を知らないとわかりにくい部分もありますが、この討論会の重要性はどこにあるのでしょうか。

この討論会の時点で、三島は実際に自衛隊を巻き込んだクーデターを起こす計画を腹中に持っていました。三島は楯の会の会員を引き連れて、繰り返し自衛隊のレンジャー部隊の訓練などに参加していましたが、そのときに、陸自の一部幹部たちのうちには「三島先生が立つなら、われわれも続く」というような軽率な発言をした者がいたそうです。言った方は世界的な作家が自衛隊を熱烈に支援してくれることに対する「リップサービス」のつもりだったのでしょうけれど、三島はそれを信じた。

三島は文化的天皇を中心に据えて、自衛隊員から左翼過激派学生まで、プチブル知識人からプロレタリアまでを結集する独特の日本型ファシズムを構想していたのだと思います。だから、自衛隊の蹶起についてある程度の手応えを感じたので、次は左翼学生たちだ、と。この討論会はですから三島は「革命闘士のリクルート」に行ったのだと思います。

―なるほど。単に対決するのではなく。

映像の中で三島は終始機嫌よく見えます。それは別に戦いに行っているからじゃないんです。タイトルには「三島由紀夫vs東大全共闘」とあり、あたかも三島が敵地に乗り込んで行って激しく論争するという図式のようですけれど、実際はまるで違っていた。全共闘の側は論敵を迎えて、これを論破する気構えでいたけれど、三島には学生たちを論破する気なんかなかった。革命戦士を徴募しに来たんですから。

だから、三島の言葉を聞けばわかる通り、学生たちの無知を指摘したり、論理矛盾を衝いたりということを一切していないんです。学生たちの支離滅裂な言い分のうちで、それでももっとも生産的な論点を探し出して、拾い上げ、それについて丁寧に自説を述べている。自分は「語るに足る相手」であるということを学生たちに印象づけている。全共闘と三島ではストラテジーがまったく違っていた。

―全共闘の人たちの議論は非常に抽象的に見えました。

何言っているかわからなかったでしょう?わからなくて当然だと思う。本人たちだって自分が何を言っているのかよくわかっていなかったんですから。僕自身、そういう論法にほとほとうんざりしていましたから。

自衛隊から左翼まで包含した天皇親政の政治革命

―話が戻りますが、自衛隊から左翼までまとめてクーデターを起こそうというのは驚きです。

三島が考えていたのは後醍醐天皇の乱のようなものだったんじゃないでしょうか。建武の新政のときに、後醍醐天皇は楠木正成のような「悪党」や異形異類の宗教者や遊行の民たち「周縁」的な存在を糾合して、共同戦線を形成しました。さまざまなタイプの「秩序にまつろわぬ者」たちを天皇がとりまとめた。三島の天皇親政クーデターというのはそういうイメージだったんじゃないでしょうか。

―三島の天皇論について、内田さんはどのように評価していますか?

三島の天皇論は独特なものだと思います。実際に敗戦後、日本国憲法が制定されてからあと「天皇制はどうあるべきか」について、深みのある国民的議論は行われたことがない。一方には「天皇制廃絶」を主張する左派的な立場があって、他方の「天皇制守護」を主張する右派たちは戦前の天皇制に復古したがっているわけで、現代における天皇制はいかにあるべきかというような論件には興味がない。立憲デモクラシーと天皇制をどう折り合わせて、どう共生させるかというような問題については、右も左も、誰も興味を持たなかった。

天皇制の存否についてのこういう神学的な議論の中にあって、三島の「文化的天皇論」はきわめて特異なものだったと思います。三島は天皇制がいかに日本文化の深層に根ざし、日本人のエートスに浸み込んでいるか、それを強調しました。そして、左右の政治的対立や階級的対立を超克して全日本国民を統合する軸は天皇しかないという議論を展開したわけです。まことにユニークなものだったと思います。

―それまでにはない異質な天皇論だったんですね。

三島はかつての参謀本部が統治の装置として政治利用した天皇ではなく、文化的な統合軸としての天皇を構想した。想像の共同体である国民国家の「クッションの結び目」として天皇をとらえた。ですから、ある意味では、美濃部達吉の天皇機関説の文化的な変奏だとも言えると思います。

国家は法人であり、天皇はその最高機関であり、機関として憲法の定めるルールに従って適切に行動する限り、統治機構は円滑に機能するというのが美濃部の天皇機関説ですが、表面的にはまるで似てないけれど、三島の文化的天皇論はやはり一種の天皇機関説だと思います。天皇は国民を統合し、国民文化を豊饒化する文化的な装置でなければならないというんですから。左右の政治的対立、階級的対立を一回キャンセルして、日本人全員を天皇を介して一つにまとめる。そういう天皇制を構想したのは戦後は三島一人だったと思います。

「政治的」とは個人と国の運命が関わるという妄想

―内田さんは映画の題材となった討論会の1年後に東大に入学しますが、当時の空気はどのようなものでしたか?

僕はこの対決の11ヶ月後に同じ教室に立ったわけですけど、そのときにはもう「祭りの後」のようなしらけた空気でした。70年6月に安保闘争があったので、それまでは小規模のデモや集会はありましたが、1968~69年の熱気はもう潮が引く様に去った後でした。だから「あの東大全共闘はどこに行ってしまったんだ?」というような空疎な気分でしたね。

―「空疎だった」という振り返りになるんですね。

70年6月以降はもう学内的にも、政治日程的にも大きな闘争課題はなくなっていたんです。それまで運動を主導していた無党派の学生たちがやる気をなくして次々と脱落して、党派組織だけが生き残り、それらの過激派セクトがわずかばかりの政治資源を奪い合って陰惨な内ゲバを繰り返す…という末期的な状態でしたから。

入学した後も上級生たちから、わずか11ヶ月前にあったはずの「三島由紀夫vs東大全共闘」のイベントについて聞いたことがありませんでした。僕は予備校にいたときにこのイベントのことを知って、ずいぶん興奮した記憶があるんですけれど、いざ現場に立ってみたら、当時現場にいたはずの学生たちでさえ、「そんな昔のことは忘れたよ」という感じで、それにショックを受けたことを覚えています。

―1969年前後のシリアスな時代の空気はどのように生まれたと思いますか?

世界同時的な激動期でしたから。中国では文化大革命、アメリカでは公民権運動、フランスでは五月革命、ドイツ、イタリアではテロ…と世界中で同時多発的に既存秩序が倒壊してゆく時期でした。日本でも既存秩序が瓦解する地鳴りが聞こえた。それを聞き取った活動家たちが67年に登場してきたと。

彼らも数千人だけで政治革命を起こせると思っていたわけではないでしょう。でも、地下に隠れているマグマの巨大なうねりを感知していた。僕も67年に高校を辞めてしまうわけですけれど、別に自分の力で何か起こそうと思っていたわけじゃありません。とにかく「とんでもないこと」が起きそうなんだから、一人のプレイヤーとして現場に立ちたいと、そう思っていました。

―内田さんはこの時期について「政治の季節」と書いていますが、逆にその後の時代から現代で政治的に生きにくいのはどうしてだと思いますか?

「政治的である」というのは、個人の言動と国の運命の間に相関があるという「妄想」を持つことです。自分一人の決断でこの国のかたちが変わるかも知れないという思い込みを多くの人が共有したときに、社会は「政治的」になる。その逆に、自分が何をしても国のかたちなど変わるはずがないという虚無感、無力感が支配的な時代は「非政治的」だということになる。僕はそういうふうに定義しています。いずれにせよ、個人のふるまいと国のあり方の間には何らかの相関はあるんです。それを高めに評価するか、低めに評価するかによって、政治性の濃淡は変わる。それは主観の問題です。現代日本では、あまりにも多くの人が共同体と自分の間の関係、リンケージを過小に評価しすぎていると思います。

―なるほど。

もう少し、自分ひとりの行動で国の行方が変わるかも知れないというような考え方をしてもいいんじゃないかと思います。自分ひとりが何をしても、何を言っても、国は少しも変わらないというのは、それ自体きわめて政治的な判断なわけです。それは「現状にイエス」ということですから。台湾でも香港でも韓国でも日本よりはるかに過酷な環境の中で、若者たちは立ち上がって国のかたちを変えている。日本の学生ははるかに自由でありながら、動く気配も見せない。これは外からの政治的抑圧が強いからではなく、学生たちの「自分は無力だ」という主観的な決めつけの帰結です。

―この映画で見ることができる若者たちの姿を通して、そうしたことを考えるきっかけになるかもしれませんね。最後に、この映画の楽しむ見方があれば教えてください。

僕は三島と同時代に生きていたの。彼の文学作品はこの人の実際の顔と声とセットで読んでいました。三島は映画に出たり、裸の写真を見せたり、「週刊プレイボーイ」にエッセイ書いたり、ずいぶんと俗っぽいところのある人物だったんですけど、死んだ後は、そういう「俗な三島」のイメージは薄れましたね。この映画を見ると、三島由紀夫のそういう「多面性」がわかるんじゃないかな。

大きな声でよく笑う人でした。この討論会ではとりわけ豪放磊落で闊達、清濁併せ吞むという「器の大きな人間」であることをアピールしています。クーデターのメンバーをリクルートするために来ていて、「この人となら一緒に死んでもいい」と思わせることが目的での登壇ですから。いま、そんな目的で人前に立って話をする人なんか見る機会ないですから、ぜひそこに注目して映画を見てほしいと思います。