桶川ストーカー事件から20年 埼玉県警の怠慢と一人の女子大学生の犠牲 - 小林ゆうこ

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※この記事は2019年12月13日にBLOGOSで公開されたものです

今からちょうど20年前。埼玉県桶川市のJR高崎線・桶川駅西口前で、一人の女性の尊い命が奪われた。いわゆる「桶川ストーカー殺人事件」だ。殺害されたのは、女子大学生の猪野詩織さん。当時まだ21歳だった。

事件を契機として、ストーカー規制法が制定され、マスコミ報道をめぐって取材の在り方が問題提起された。同時に大きな批判を浴びたのが埼玉県警だった。生前の詩織さんのSOSを放置する怠慢に加え、告訴状も改ざん。記者会見では、一人の女性が亡くなっているにもかかわらず、捜査幹部はおよそふさわしくない笑みを見せていた。

20年が経過し、事件はひと段落したように見えるかもしれない。だが、20年の節目に再び遺族と向き合って感じたことがある。未だ事件は終わっていないということだ。

詩織さんの命日をひまわりの種に例え 20年間を生きてきた遺族

「あの頃と全然変わらないでしょ、この部屋」。

母京子さんが、祭壇の前で語った。本当に何も変わっていない。命日でたくさんの供花が祭壇を飾っていたが、詩織さんの遺影と家族写真は、私たちがお邪魔していた当時と寸分も違わない。

20回目の命日となる今年10月26日の夜、筆者は猪野家を訪れた。

当時、ニュース番組『ザ・スクープ』(テレビ朝日)で事件を特集したキャスター・鳥越俊太郎氏と、ディレクター・山路徹氏、書籍版『桶川女子大生ストーカー殺人事件』(鳥越俊太郎と取材班・著、メディアファクトリー)を書いた私、そして編集者の4人で。

部屋には、もうひとつ変わらないものがあった。遺影を取り巻く花だ。ひまわりの花が好きだった詩織さんを偲び、いつからかご両親は最愛の娘さんの亡くなった日を、「ひまわりの種」に例えるようになった。そして、その種を慈しむ思いで生きてきた。

警察は変わったか。ストーカー事件はなくなったのか。報道被害はどうか。いま、ひまわりの花はどれほどの背丈で咲いているだろうか?

父憲一さんが20年を振り返る。

「あの年の詩織は、家族が滅茶苦茶にされてはならないと恐怖と絶望のなかで闘っていた。それを思うと不憫で、20年経ったいまでも胸がえぐられるような気持ちになります。いちばん苦しかったのは娘。我々は生きている限り詩織の無念を晴らしていく。いまも怒りと悔しさを消し去ることはできません」

中傷ビラや騒音嫌がらせ… 常軌を逸した加害に苦しんだ猪野家

事件を振り返りたい。

事件が起きたのは1999年。詩織さんは、元交際相手(当時27)からストーカー被害を受けていた。男は実業家を自称したが、実際に経営していたのは違法風俗店だった。

1月の出会いから3ヶ月経ち、詩織さんが別れを切り出すと豹変したという。「おまえに2000年は迎えられない」「家族がどうなってもいいのか」などと、詩織さんを脅した。

男とその実兄(当時32)が指示した実行犯グルーブによる加害は、初夏から夏へ、そして秋へと季節が変わるごとに激しくなっていった。自宅への乗り込み(6月)、中傷ビラの大量配布(7月)、父の会社への中傷文書送付(8月)、自宅付近での騒音による嫌がらせ(10月)と続いた。未遂に終わったが、拉致・監禁・強姦という計画もあった。

埼玉県警は被害申告を無視 詩織さんのSOSも叶わず事件に

その間、詩織さんとご両親は計8回、被害申告のため埼玉県警上尾警察署を訪れている。7月末に告訴状を提出したが、警察が動く気配はなかった。捜査について、詩織さん自ら電話で確認しても、上尾署はのらりくらりと要領を得ない対応をしたという。絶望と恐怖のなか、「このままでは本当に殺されてしまう」と友人に言った3日後、殺害事件は起きた。

99年10月26日午後0時50分。詩織さんは駅前の自転車置き場で、待ち伏せしていた実行犯(当時34)に胸と脇腹を刺され、出血多量のため亡くなった。

「JR桶川駅西口女子大生路上殺人事件」というのが、当初、捜査本部が掲げた事件名だ。「私が死んだら、犯人はあいつ」と、詩織さんが実名で名指しした「遺言」がなければ、それが「桶川女子大生ストーカー殺人事件」と変わることはなかっただろう。

警察は事件前に告訴取り下げを依頼した

上尾署は、詩織さんが相談したストーカー被害について、「男と女の痴話喧嘩」「民事不介入」として、殺害事件が発生するまでまともに取り合わなかった。また、詩織さんが元交際相手を名誉棄損で訴えた告訴状を、捜査義務の伴わない被害届へと勝手に改ざんしていた。そして、事件発生1か月前の9月下旬、捜査員を猪野家に差し向けて、「告訴状の取り下げ」を依頼した。「告訴を取り消したものはさらに告訴をすることはできない」(刑事訴訟法第237条)と伝えないまま、京子さんを説得していた。

捜査する気のなかった警察にとって、詩織さん殺害は起こってはならない事件だった。事件当日の記者会見では、告訴状を受理していた事実は伏せられた。いっぽう、詩織さんの服装については、「黒のミニスカート、長袖黒色上着、黒色ブーツ、グッチの腕時計、プラダのリュック」と、ブランド名までを挙げて説明した。被害者情報をここまで詳細に発表した裏に、警察にとって都合の悪い捜査怠慢という不祥事が隠されていた。

県警のリークに便乗して詩織さんの尊厳を傷つけたマスコミ

週刊誌はこぞって詩織さんを、「ブランド依存症の女子大生」「素顔はキャバクラ嬢」などと書き立て、ワイドショーは詩織さんを風俗業界の相関図にはめ込むような推理を繰り返したが、それらは警察発表を端緒としていた。いわゆるリーク情報に便乗したマスコミも詩織さんの尊厳を傷つけた。

告訴状の取り下げをめぐっては、当時、写真誌『FOCUS』の記者として事件を取材した清水潔氏の著書『桶川ストーカー殺人事件ー遺言』(新潮社刊)に詳しい。事件翌日の10月27日、「(上尾署は)告訴状の取り下げを求めたのか?」と聞く新聞記者に、「やったのはニセ刑事だ」と偽情報を流したのも上尾署側だったという。

「詩織は3度殺された」 加害者に警察、そしてマスコミによって

父憲一さんは次のように語る。

「詩織は3度殺されたと、私は思っています。一度目はストーカーと加害者グループによって。二度目は捜査に動かなかった警察によって。三度目は詩織に関するデマを流し続けたマスコミによって」

そして、こう付け加えた。

「ただ、思い返すと、『FOCUS』の清水記者と『ザ・スクープ』の鳥越さんらの力は大きかった。一連の報道によって、上尾署の捜査怠慢と証拠文書の改ざんが明らかになり、翌年になって国会が動き、異例の速さでストーカー規制法が議員立法された。成立した5月18日は、生きていれば詩織が22歳になる誕生日でした」

真実を追い求め明らかにした2人のジャーナリスト

殺害事件から約2ヶ月経った99年12月、ようやく実行犯グループが殺人容疑で逮捕された(後に、4名には無期懲役から懲役15年の判決が下された)が、その居場所を独自の取材で突き止めたのも、『FOCUS』の清水氏だった。

年が明けて1月、元交際相手と思われる自殺体が北海道の屈斜路湖で発見された。これで事件の真相は闇に葬られたかと思われた矢先、3月からシリーズで特集を組み、調査報道を始めたのが、『ザ・スクープ』の鳥越氏らだった。上尾署の「告訴状の取り下げ依頼はあったか、なかったか」を焦点に質問状を連発した。

埼玉県警からの回答は、当初の「依頼した事実はありません」から、「署員が誤解されるような発言をした」まで二転三転した。そんななか、沈黙を続けていた憲一さんが、番組に初めてコメントを寄せた。「告訴の取り下げ依頼は、間違いなく、ありました」と。

告訴状改ざんを認め謝罪した埼玉県警 事件から5か月が経過していた

20年経ったいま、憲一さんが語る。

「言った言わないというのが問題ではなく、なぜうちの娘が殺されてしまったのか、助けてくださいと言っているのに、なぜ警察は真摯に取り組んでくれなかったのか。そこがいちばんの問題という思いは、当時もいまも、まったく変わらない」

京子さんが、色あせた和紙の束を見せてくれた。放送前、鳥越氏はご両親に毛筆の手紙で出演交渉していた。「男の蛮行を阻止できなかった警察については、このまま何も罰を下されることなく過ごさせる訳には参りません」と、3通目で我が事のように語りかけている。

「こんなに何通も書いていたのか」と、笑いながら鳥越氏が言った。

「事件直後に群がるマスコミや、それを抱え込もうとする警察と対峙する憲一さんに、市民として心を揺さぶられた。ご両親の詩織さんへの愛情と憤りが僕らを動かし、社会を動かす原動力になったと思う」

そんな『ザ・スクープ』に対する視聴者の反響は大きく、事態は急展開した。ちょうど放送直後に開かれた参院予算委員会、埼玉県議会警察常任委員会でもこの問題が取り上げられ、4月6日、埼玉県警は遂に、「埼玉県桶川市における女子大生殺人事件をめぐる調査報告書」を発表。告訴状とその調書を改ざんして被害届に書き換えた事実を認めたのである。

その理由について、後(00年9月)に浦和地裁から出された判決(虚偽有印公文書作成・同行使被告事件、上尾署員3名に有罪)の主文には、「捜査しない事実を隠すために、告訴を被害届に捏造改ざんした」と、記されている。

調査報告書を公表したあの4月初旬、埼玉県警は懲戒免職の3人を含む15人への処分を発表した。記者会見した埼玉県警察本部の西村浩司本部長は、冒頭、深々と頭を下げて謝罪した。「仮に名誉棄損事件の捜査が全うされていれば、そのような結果は避けられた可能性もあると考えると、痛恨の極みでございます」と。

夕方、猪野さん宅を訪れた本部長は、遺影の前で合掌してからご両親に深々と頭を下げ、「申し訳なかった」と涙ながらに謝罪したという。事件発生から5カ月以上が経過していた。

謝罪は一転 調査報告書を否定し保身に走る埼玉県警

ところが、話はここで終わらない。2000年、ご両親が埼玉県(警察)を訴えて国家賠償訴訟を起こすと、あの調査報告書などなかったかのような攻勢に出たのである。

曰く、「被害者家族には危機感がなかった。元々それがあれば、娘を友人宅や親戚宅に預けるはずだが、それも行なっていない」と。被害者(原告)側への非難はそこにとどまらなかった。事件後に捜査協力のため提出した証拠品を利用して、亡き詩織さんへの人格攻撃を繰り広げた。2003年に出された判決は、「警察の捜査怠慢については認めるが、捜査怠慢と殺害に因果関係はない」というものだった。

憲一さんは言う。

「判決は信じられない内容でしたね。虚偽有印公文書作成罪などで上尾署の署員に有罪判決が出ているのに、その調査報告書を平然と否定したのには驚きました。判決が出る少し前に、西村本部長は警察署協議会代表会議で、あの調査報告書は警察庁が書けと言ったから不確かなことを書いたという発言をしています。相変わらずの自己保身で、また警察への信頼は裏切られたと痛切に感じました」

なくならぬストーカー事件 詩織さんの姿を社会で共有すべき

国家賠償訴訟の裁判傍聴を続けた私は、『虚誕 警察につくられた桶川ストーカー殺人事件』(鳥越俊太郎氏と共著、岩波書店刊)を書いた。法廷ではいくつかの新事実が明らかになったが、そのひとつに、「もうひとつの告訴改ざん」がある。詩織さんが7月末に提出した告訴状と供述調書には、上尾署が「告訴」という文字を縦の二重線で消し、「届出」と書き直した部分が2箇所ある。

ところが、うち1箇所は、その「届出」にさらに二重線が引かれ、「告訴」に改ざんされていた。殺害事件後の12月末、事件の捜査を担当する刑事一課長の指示で、捜査員が書き戻したものだった。課長は言ったという。「告訴出ているんだから、ここ、やっぱり届出じゃまずいよ。告訴に直してよ」

詩織さんが殺害されてなお、告訴状を自在に改ざんしていたとは、その変わらない保身ぶりと辻褄合わせには驚かされるばかりだ。憲一さんの言葉を借りれば、3回殺された詩織さんは、その戦いの証までを警察に踏みにじられた。ストーカー規制法が成立する前夜、警察内部でまかり通っていた告訴軽視の実態を見る思いがしたものだ。

あれから20年。憲一さんは各方面からの講演依頼に応え、ストーカー事件の再発防止を訴えている。ストーカー規制法検討委員会の委員も務めた。京子さんは、全国犯罪被害者の会(昨年解散)で活動を続け、犯罪被害者等基本法の制定などに尽力した。いっぽう、警察にはストーカー対策専門の部署ができて取り組みは進み、ストーカー規制法は改正を重ねたが、現実にはストーカーによる凶悪事件はなくなっていない。被害者と遺族に対するメディアスクラムもまた…。

今年11月24日、ストーカー規制法は施行から19年を迎えた。もうすぐ2020年となる、この年末に思う。市民の目の届かない警察組織は腐敗する。いっぽう、警察への相談は被害者にとっての生命を繋ぐ綱であり、魂からの叫びだ。ストーカー規制法が改正を重ねるなか、ストーカー心理は生命を狙うまでエスカレートするという桶川事件の教訓を、私たちはいま改めて共有するべきではないだろうか。そして、警察とメディアを含めた、ストーカーの加害を抑制する社会のありようが求められている。

詩織さんが警察を信じて必死に訴えた姿を思うとき、そのまっすぐな決意がいつか報われ、ひまわりが大輪の花を咲かせることを祈らずにいられない。これを、桶川事件から20年目の「あとがき」としたい。

小林ゆうこ:北海道出身。雑誌の契約記者を経て、フリーライター。芸能、社会文化、女性問題など幅広く執筆。著書に『「小さい人」を救えない国ニッポン』(ポプラ社)など。