梅宮辰夫さんが言い残した「令和の芸能界は…」 - 渡邉裕二
※この記事は2019年12月12日にBLOGOSで公開されたものです
俳優の梅宮辰夫さんがけさ7時40分、神奈川県内の病院で慢性腎不全のため亡くなった。81歳だった。梅宮さんは、この1年半余りの間に2度のがん手術を経験するなど闘病生活を送っていた。その1度目は昨年9月に「前立腺がん」、そして2度目は今年1月に「尿管がん」だった。
「この2つを含め、これまでの人生で6度のがん(他に「睾丸がん」「肺がん」「胃がん」「十二指腸乳頭部がん」)を経験してきた」
梅宮さんは苦笑いしながら話してくれた。
「もちろん、がんと宣告された時は辛かったね。でも、現実と向き合って主治医や家族とじっくり話し合いながら治療方法を選び、これからは病を乗り越えていくしかないからね」
梅宮さんは昨年、都内から神奈川県足柄下郡真鶴町にある別荘に生活の場を移していた。真鶴は、釣り好きだった梅宮さんにとって、ある意味で〝精神的な憩いの場所〟だったのかもしれない。晩年は、真鶴の別荘から県内の病院に通い週3回、4時間にも及ぶ人工透析を受けていた。
そんなこともあり、今年に入ってからは会う機会もなくなり、代わりに携帯電話で連絡を取るようになった。
ただ、その携帯電話も「体調の良い時」に限られており、話したいことがある時は、まずマネジャーに連絡し、梅宮さんに確認を取ってもらっていた。
「今だったら大丈夫のようです」
「透析の終わった直後だったら多少は元気になるので話せるようなので、○分後に電話してください」
表情を確認できない携帯電話での会話というのは正直言って緊張したものだ。
梅宮辰夫さんと交わした会話
今年は、主に取材で3月26日にショーケン(萩原健一)が亡くなった時、そして、平成から令和に変わることについても意見を聞かせていただいた。その時は体調も多少良かったのだろう、驚くほど長時間に渡っての会話となった。そこで今回は「悼む」意味も込めて梅宮さんの言葉を記したいと思う。まずは、ショーケンが亡くなったときのことである。
「ショーケンとは、今年に入ってから(都内の)行きつけの寿司屋で偶然に会ったんだよ。もう何十年になるかな…。本当に久しぶりで、俺は気づかなかったけど、ショーケンの方から『梅宮さんですよね』と声をかけてきてね。で、『まあ、お互い歳を取ったものだよな』って言いながら、ショーケンに『ところで元気だったのか』と聞いたら『元気じゃないですよ』って。ただ、俺も病気がちだし、そんな健康について話したくないしね、体調のことを深く聞くのも嫌だったから『そうか大事にしろよ』『今度、一緒に寿司でも食いに行こうや』言って別れたんだよ」ショーケンとは「前略おふくろ様」での共演からの付き合いだった。「もう45年ぐらいの付き合いになるかな」と言っていたが…。
芸能界が憧れの世界ではなくなった
そして、4月中旬のこと。平成も残り数日という時だった。「芸能界のご意見番」として、芸能界に対しての梅宮さんの一刀両断、意見を聞きたいと思った。すると開口一番。「それね、昭和から平成になった途端に芸能界はつまらなくなったんだよ。憧れなんてものもなくなったね」
「僕は昭和の半ばから、この芸能界という世界を見続けてきたんだけど、平成になった途端に芸能界が遠のいてしまった感じがするんだよ。芸能界というのは本来、特別な世界なわけさ。だから大衆から憧れを抱かれていたわけだ。石原裕次郎や高倉健、菅原文太、それに松方弘樹…、どいつもこいつもみんな素敵な…魅力的な奴らばかりだったよ、カッコよかった。
だから大衆は、そういったスターのいる芸能界に憧れていたわけさ。どんな世界なのか見てみたいと思ったわけだ。それが、平成になったら一般の世界と…普通の世界と何も変わらなくなってしまった。芸能界が特別な、憧れの世界でも何でもなくなってしまったわけだよ。魅力も何もなくなっちまった。俺のような昭和のスターからすると、この平成の芸能界というのは、どんどん意識というか距離が離れてしまうんだな」
携帯電話を通しての会話ではあったが、梅宮さんは一気に斬りまくった。
梅宮さんは1958年に東映ニューフェイスとしてデビュー。以来、映画やテレビドラマなど数百本に出演してきた。中でも「夜の青春シリーズ」や「不良番長シリーズ」「帝王シリーズ」「仁義なき戦いシリーズ」などは代表作の一つで、60年から70年代にかけて東映の黄金期を担ってきた。
しかし、5年前の2014年に高倉健さんや菅原文太さんらが逝き、2年前の17年には〝昭和の2大スター〟と言われ続けてきた〝相棒〟の松方弘樹さん、さらには渡瀬恒彦さんらも帰らぬ人となった。
特に松方さんとは、映画「仁義なき戦い」(1973年)などでの共演もあるが、釣り仲間でもあり「遊び」も共にしてきた盟友だっただけにショックも大きかった。「弘樹も含め、仲間が一人づつ自分から去っていくのは、これは仕方がないことだよ。だけど精神的には辛いことだった」
芸能界は消滅するしかない
そう言うと続けて、芸能界については「残念だけど消滅していくね!」。根拠の一つは「芸能界が素人ばかりになって、大衆から見て憧れの世界ではなくなってしまった」こと。
芸能界というのは「大衆から常に憧れる世界でならなければならない」というのが持論だった梅宮さんにとって〝平成〟という時代の芸能界は歯がゆさだけが残った。「もう〝令和〟の芸能界なんかには期待していない。俺のいた芸能界からは、もっともっと距離が離れていくだろうな」
さらに「今さら懐かしむわけじゃないけどね」としながらも「今とは比べられないほど個性的で、しかも格好のいい素敵な映画スターが多かった。そんな時代のことを語ると古いって言われるかもしれないけど、これは、やっぱり映画からテレビの時代になっちゃったのかもしれないね。ほとんどの俳優というか芸能人が、それこそテレビCMのために存在しているようになっちゃったってことだよ。みんな商品の宣伝のために出ている…それこそ薬品とか化粧品とかね、もちろん、それが悪いって言っているわけじゃないけど、宣伝ばかりやっているような、そんな連中がゴロゴロしてきちゃってね、本当、つまらない世界になっちゃったってことなんだよ、そうとは思わないか?」
「ここまで誰からも特別視されなくなった芸能界が〝令和〟になったからって良く変わるわけがないだろう。僕に言わせたら、そんな芸能界は消滅するしかないってことなんだよ」
一昨年のこと。芸歴60周年、そして80歳になった梅宮さんの節目の企画としてアルバムを出そうと提案したところ「面白いね」と企画に乗ってきた。しかも、梅宮さんは選曲から参加し「生きているうちに、元気なうちに出来ることはやっていきたい」と意欲を見せていた。
過去のアルバム「不良番長」の中から「番長シャロック」「番外地ブルース」「旅姿3人男」、さらに「夜遊びの帝王」の中から「夜は俺のもの」「男泣かせの霧が降る」「不良番長『すっとび野郎』」など全13曲を歌い切ったが、レコーディングは28年ぶりだった。それが、梅宮さんにとっては「平成時代の遺作」になったような気がする。そして令和…。
「僕はね、芸能界を最後まで見極めたいと思っているんだよ。それはね、今の芸能界が、どのように終わって行くかってことを、もう、これから何年生きられるかわからないけど見極めなければならない。俺もあの世に行った時、高倉健や菅原文太、もちろん松方弘樹に報告しなきゃいけない。『〝令和〟になって残念ながら…』ってね。それが生き残った者の役割だと思っているんだよ」
そうつぶやいていた〝昭和の生き残りスター〟梅宮さんも逝ってしまった。
なお、葬儀は14日に密葬を執り行うとしているが、お別れ会などの予定はないという。