「もったいない」という言葉を持ちながら食材を捨てる矛盾 土井善晴氏に聞く日本の食の問題点 - 村上 隆則
※この記事は2019年12月11日にBLOGOSで公開されたものです
料理番組や雑誌、レシピ本などで活躍する料理研究家・土井善晴氏。今回は、家庭料理の第一人者でもある同氏に、家庭の中で料理を通じて学べること、現代日本の食が抱える問題点について話を聞いた。
料理して食べることで「自然とつながる」
-- 今回、「いのちを食べて生きる」というテーマで土井先生にお話を伺いたいと思います。この言葉を聞いてどんなことを連想されますか
「命を食べる」ですか。命というのはね、僕は名詞ではなく動詞だと思っているんです。どういうことかというと、それは変わりゆくものだということ。命は常に動いて、一点にとどまることがないでしょう。それが食材であれば、食べる時に命はなくなっています。でも、身体の中に入って、私たちの命をつないでくれる。腸内で微生物の活動を豊かにして、命をつないでくれるわけです。自然界においても、死んだ動植物の体を微生物が腐敗、発酵させて命を作る。ですから、「家庭料理は命を作る仕事」です。
ただ、そういうことを実感するには、自然とつながっていることを実感しないといけないですよね。いまはスーパーでお野菜でもお肉でも買えますが、本来、その先には自然があるわけです。だから、料理を通して、それを感じることが、生きる力を育むことにもなるのではないでしょうか。
-- いまはスーパーに行くと、一年中なんでも買える時代ですよね
スーパーには年がら年中なんでもあると思うでしょう?違うんですよ、本当は年がら年中なんにもなくなってるんです。
本来、日本はヨーロッパに比べたら植物の固有種も多く、それだけ沢山の作物もできる国だったんです。それなのに、いまのスーパーには同じようなものしか並んでないじゃないですか。トマトも茄子もいつでもある。だから人間もその範囲の中でレシピを考えていますよね。
僕も色々レシピを考えますが、あまり見かけないような野菜、たとえば冬瓜のレシピなんて、やっぱり人気が低い。それはみんなが手に入るような野菜じゃないからですよね。そんなふうに、知らない間にどんどん私たちの選択肢は狭められています。これには危うさを感じています。
家庭料理は美味しいものばかりである必要はない
-- 買ってきたものは当然料理して食べるわけですが、そこでも学べることはありますか
もちろんです。いまはすぐに「美味しい」、「美味しくない」ばかりが話題になりますが、家庭料理は美味しいものばかりである必要はありません。美味しくない体験をすれば、いつもとちょっと違うけど、この違いってなんだろうと考える。そしたら、「今日はお母さんが疲れていて、料理する元気がないんやな」と気付いたりする。
また別の日に、子どもが野菜の味がいつもと違うと言ったら、「あんたよくわかるね。これはおばあちゃんが送ってきてくれた野菜やで」とかね。食事は毎日のことですから、そこから得られる情報はものすごい量なんです。ここが外食や外で買ってきた食べ物とは違うところです。
誰かに料理を作ったり、作ってもらったものを食べたりするからこそ、そうした目に見えないものが生まれる。作る方も、味は濃いかなとか、口に合うかなとか、そういうことを気にするじゃないですか。家庭で、料理して食べるという行為から、無意識のうちに無限の経験をしているんです。家庭料理には学習機能が備わっています。
-- TV等に出演された際、土井先生は味付けも、「自分でちょうどいい加減に調整してください」と言いますよね
そうそう。いま、料理は自分でどう感じるかが大事ということを言い続けないとだめだと思っているんです。料理って、同じ料理を作るにしても色んな道があるんですよ。今日はこっちの道を通って、明日はこっちの道を通って、なんだったら前後が逆になっても全然構わない。なのに、日本人はレシピ通りに作りたがる。レシピみたいな不完全なものを設計図だと信じている人が多いですが、そんなわけがない。
食材だって、常に変化してるわけです。生き物を相手にしているんですから、鮮度も変わるでしょう?そうすると、さっきはよかったけどいまは違う、ということが沢山ある。旬だってありますよね。この前はよかったけど今日はどうかなとか。常に変化しながら、「いまちょうどいいものって何?」ということを見つけるのが大事です。
日本と西洋、「食べる」意識の違いは?
-- 食べる、ということについて、日本と海外に違いはありますか?
西洋人は、ナイフとフォークとお皿で食べますよね。あれはナイフとフォークとまな板で食べてるんですよ。中世の頃は木の板だったのが、磁器に進化したんです。彼らは肉を切って塩を振って少し他のソースと絡めて食べる。切るといっても自分にとってちょうどいい大きさに切るんですよね。だから、ただ「料理を食べる」といっても、実際は調理に近いことをしている。日本は最近、「おもてなし」とかいって、食べる時も受け身でしょう。「今日はどんなことをしてくれるかな」とか、そらあかんでと。
-- では、日本人の食べ方はどのようなものだったのでしょうか
日本人は昔から、「自然」「食べ物」「料理人」「食べる人」の関係性に情緒を見出してきました。2月くらいにふきのとうが出てきたら「あ、もうふきのとうがあったんや」と思うし、雪の下にあるタケノコを掘ってきて、薄切りにして出したら「寒い中ありがとう。もうすぐ春が来るんやなあ」と思うでしょう。それが日本人の食べ方ですよ。かつては食事を通じて、季節の移り変わりなど、色んなことを想像していたんですね。
-- いまはそういう想像力が失われてしまった?
いまは野菜を食べるにしても一年中同じものを使ってますからね。やはり、「今日、このタイミングだからこそ」というものを出さないと、感激がないじゃないですか。
毎日食べるご飯だって、炊きたてなんて一瞬なのに、最近は2時間も3時間も保温しておいて、「炊きたての味」なんて言ったりしますが、本来なら一瞬のことを、ずっと味わおうなんておこがましいですよね。炊けたご飯をおひつに入れて、時間が経つにつれ温度が変わっていって、朝には冷ご飯になる、その時々の美味しさがあるんです。そういう経験を、いまの人たちはどんどん捨ててしまっているように思います。
「もったいない」と言いながら食材を捨てる日本人
いま、食べ物も捨てるばっかりですよね。この数十年で日本人は自然のいいところだけ、自分に都合のいいものしか食べなくなりました。魚も野菜も傷付いたものや、規格に合わないものはどんどん捨ててしまって、いいところしか食べない国民になってしまっています。姿のいいものというのは、昔はごちそうだったのに、いまは当たり前になっている。
もしかすると、日本人は「もったいない」という言葉を持っているのに世界一「もったいない」ことをしている矛盾した国民と言えるかもしれません。一汁一菜を実践すれば、食べられるゴミを捨てることはなくなります。野菜は余ったら刻んでみそ汁に入れたらいいんですよ。十分美味しいですから。
-- 自分で食べる分には、多少見栄えが悪くて適当でも、美味しければいいですからね
自分で食べる時は適当でいいんです。でも、適当の中にこそクリエイションはある。だからかつて母親は即興で「いまあるもの」を上手に食べる凄腕のクリエイターだったんです。
もちろん、誰かが食べるという時には相手のことを考えてととのえたほうがいい。僕は今朝、自分が食べるみそ汁に揚げた卵を入れましたけど、それは自分が食べるからやるんであって、人には「やってくれるな」と言いますよ。ただそこから「これはうまい」という経験があったりするじゃないですか。それが未来に生きてくるんですよ。
料理は「Don't think, feel.」でうまくいく
-- 最後に、「料理って難しそうだな」と思っている人にアドバイスはありますか
そら、「Don't think, feel.」やで。とにかく感じることと、失敗を恐れるなということですね。頭で考えなくても、「綺麗やな」とか「美味しそうやな」思った時は調理もうまくいっていますから。
サンマを焼いて焼き目が付いて、「美味しそうやな」と思ったら、ちゃんと火が入ってます。「美味しそう」と、火の入りが一致するんです。天ぷらで「いい音」がしてるなと思ったら、適温。これがチュッとか、なんにも音がしなかったら低すぎるわけです。家庭料理を食べてきた人には、その感覚が自分の中にありますから。
まあ、自分で食べる分には勝手に作って勝手に食べたらいいんやから、切り方なんてどうでもよくて、大きさが揃わなかったりしてもいいんです。ガリガリするものと柔らかいものと、混ざっててもいいです。どっちも美味しいですから。それで、もしできるなら、いまの季節しかない素材を使ってみる。そうやって料理しながら、素材という自然に直に触れて、楽しんでもらいたいですね。
プロフィール
土井善晴(どい・よしはる):料理研究家。1957年生まれ。大阪市出身。日本の家庭料理の第一人者であった料理研究家・土井勝氏の次男として生まれる。スイス、フランスでフランス料理を学び、帰国後に大阪の老舗料理店「味吉兆」で修業。土井勝料理学校勤務を経て、「おいしいもの研究所」設立。テレビ朝日系「おかずのクッキング」、Eテレ「きょうの料理」などテレビ出演多数。近著に『土井善晴の素材のレシピ』(テレビ朝日)、『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)など。