※この記事は2019年12月10日にBLOGOSで公開されたものです

あるきっかけから、日本で1番読まれているという美容がテーマのマンガを読んだ紫原さん。マンガを読んでいくうちに、美容の世界でも努力が称えられるようになったことに気付いたといいます。しかし、努力が重要視される世界には、ある「落し穴」が隠れているのではないか-- 紫原さんの指摘に思わずぎくりとさせられる、今月のコラムです。

「日本で1番読まれている」美容マンガとの出会い

「今、日本で一番読まれている漫画は恐らくこれです」と先日、漫画業界の人から教えてもらったのが『女神降臨』という作品です。恥ずかしながら私は知らなかったんですが『女神降臨』、現在LINEマンガで無料連載されている韓国発の作品で、累計2300万DL(2019年4月時点)というLINEマンガにおいて、月間読者数12ヶ月連続1位(2018年10月~2019年9月の12ヶ月/無料連載タブ)を誇る人気作だそうです。

気になったので読んでみると、その内容は、素顔に自信のなかった主人公がメイクをすることで美女に変身し、アイドル並みの美男子にモテまくるというもの。でも、単に恋愛の話だけでなく、主人公の取り入れるメイクテクニックがかなり具体的に紹介されているのも特徴で、フルカラーというwebマンガの特性をいかして、コスメの色や質感の微妙な違いが細かく表現されています。

この漫画では、当然のことながら主人公のメイクの前後をものすごくわかりやすく「美」と「醜」に描き分けています。であるが故に、この作品、一昔前ならもしかすると、こんなにも受け入れられなかったのではないかと思うのです。というのも20年ほど前、私がティーンエイジャーだった頃はたしかに、作られた美しさは偽物と忌み嫌われていたからです。どんなに努力して美しさを手に入れても、最終的にはそれを、あたかも最初から持って生まれた美しさであるかのように装うことが必要で、だからこそ努力した人ほど、すっぴんを見られることも、美容整形前の顔を見られることも、あってはならない事態と捉えていたように思います。

ところがここ数年、コスメや美容整形についてツイッター上で交わされる話を眺めていると、「美しくなるために努力して偉い」と、もともとなかった美しさを作り上げたプロセスを称える空気が醸成されつつあるように感じます。事実、ネットのインフルエンサーやYouTuberだけでなく、最近では芸能人でさえ、すっぴんやメイクプロセスの動画をアップしたり、美容整形手術を受けたことを打ち明けたりします。そうすることが以前のようにイメージダウンにならなくなっているのです。

「努力を称える」ことが自己責任論につながる?

努力を称える。これって一見良いことのように思われるけれど、実は結構危ない側面も孕んでいると思います。というのも、努力至上主義的な考え方が強まることで、誰かの望まない境遇が、本当はその人にとってどうしようもない環境のせいかもしれないのに、そういった可能性さえすべて無視して「本人の努力が足りないせい」にされてしまう、自己責任論が尚一層強まっていくのではないかと思うのです。

去年の1月に出版された『新・日本の階級社会』(橋本健二著/講談社現代新書)という本によると、格差拡大が始まったのは1980年前後のことであり、以降格差は40年近く是正されることのない中で、富裕層も貧困層も、その世代間の継承性を強め、階層の固定化が進み、日本はもはや格差社会ではなく、「新しい階級社会」とも呼ぶべき状態に陥っているということが書かれています。

さらに驚かされるのは、自己責任論に肯定的な人の割合です。「2015年社会階層と社会移動全国調査」のデータによれば、対象者(20-69歳男女)の過半数が自己責任論に肯定的、さらには貧困層のかなりの人もまた自己責任論を受け入れ、自分の貧困状態を自分の責任と捉えているというのです。

階層が固定化される傾向が強まっている、つまり、努力したって報われない可能性がどんどん強まっていく中で、それでも「努力が足りない」「自分が悪い」と繰り返し自己否定に帰結させる。日本の子どもの自己肯定感は他国に比べて低いと言われていますが、外的要因を一切無視し、あらゆることが自己責任に絡め取られる環境が常態化すれば、そりゃ自己肯定なんてできないに決まっているだろう、と思わざるを得ません。

子どもたちに「人のせいにすること」を教えよう

11/30、日本財団が次のようなレポートを公開しました。

日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査)
https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/pr/2019/20191130-38555.html

これによれば、「自分を大人」、「責任ある社会の一員」と考える日本の若者は約30~40%と他国の3分の1から半数近くに留まり、「自分で国や社会を変えられると思う」人は5人に1人、残る8カ国で最も低い韓国の半数以下、国の将来像に「良くなる」と答えたのはトップの中国(96.2%)の10分の1にとどまったというのです。

私はこの調査結果が、過剰な自己責任論の蔓延と無関係であるようには思えません。自己責任ばかりが追求され、本来あるはずの社会的責任は影を潜めた結果、子どもたちにとって社会の存在そのものが、見えないもの、実態のないものとなっているのではないでしょうか。

実際のところ、私の周りに子どもたちと話してみても、うまくいかないことはすべて自分のせい、自分が悪い、努力ができない自分が劣っていると捉えている子供が少なくないと感じます。

そんな中にあって私達大人は、いい加減子どもたちに「人のせいにすること」を教えなければいけないのではないでしょうか。自分は駄目だと思いそうになったら、自信をなくしそうになったら、それを黙って受け止める前に、自分にそう思わせる力が外から働いているのではないか、疑うことを教えてあげなければいけないのではないかと思います。何しろ人のいい私達が勝手に過剰に自己責任を背負うことで、本当は行政によって施策が打たれ、是正されなければならない格差が、もう40年も放置され、拡大し続けているのです。

そもそも、あらゆることが自分の努力次第でなんとかなるなんて考え方は傲慢だろうとも思います。自分が今どう思っているか、これから先どうなるかなんて、どんなに自分ひとりで決めているように見えてもその実、側にいる人や環境に大きく影響されている、そのことは間違いないのです。「私」ってそもそも、自分で思ってる以上に他人や社会の成分が沢山入り込んで作られているもののはずなのです。努力を手放しで信奉することも、自己責任を負うことも、どちらも他者や外界を無視しているし、その価値を軽視している。そういう意味で、極めてエゴイスティックな考え方だと思うし、善行と思い込むことには大きな落とし穴があるようと思います。

努力をするのも、人の努力を称えることも決して悪いことではないけれど、だからといって必ずしもすべて努力でどうにかなるという幻想をいい加減私達は手放さなければいけないのではないかと思います。人のせいにしないことは、世界に自分しかいないと思いこむこと。人のせいにすることは、世界に他の人もいると認めることです。私達が繋がりの中で生きている、孤独な存在でないことを教えるためにも、子どもたちには、しかるべきときにきちんと、人のせいにすることを、教えていかなければいけないだろうと思います。