批評家・佐々木敦が語るあいトリ問題「本質は“正しさ”による他人の否定」 - 島村優
※この記事は2019年11月22日にBLOGOSで公開されたものです
8月に開会し、「表現の不自由展・その後」をめぐる脅迫事件や展示中止を経て、最終盤には全面再開した「あいちトリエンナーレ」。会期中は、表現の自由や政治と芸術の問題から、公費を使った展覧会のあり方まで様々な議論が起こった。「表現の不自由展」問題とは何だったのか、批評家・佐々木敦氏に聞いた。
正しかった「表現の不自由展」の再開
―10月14日に会期を終了した「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由展・その後」の展示中止が様々な議論を呼びました。不自由展の中止から、会期末の全面再開までの一連の流れをどのように見ていましたか?
最初に言っておくと、僕は津田大介とは昔からの知り合いで、彼がどういう人物かをある程度知っていて、今回のような仕事を果たせるだろうという信頼と共感のようなものがもともとあった。だから彼があいトリの芸術監督に就任してからはかなり注目していた。僕は芸術祭はどちらかというと舞台芸術を中心に見ていて、今回は相馬千秋という凄腕のキュレーターがパフォーマンス部門を統括していたので、あいトリ自体にも期待していた。
不自由展については、ちょうど僕が行ったのが開催三日目だったのだけど、その前日から「平和の少女像」が大きな問題になっていて、この日の内に何らかの対応が執られるんじゃないかと言われていた。会場に着いたときにはすでに長い行列が出来ていて、舞台公演の時間との兼ね合いもあって、展示自体は見れなかった。そうしたらやはりその日で不自由展ごと展示が中止されてしまって、非常にもやもやした。会期中にはこの問題のことをよく考えたし、状況の変化や様々な反応を伝えるニュースにも目を通した。会場で展示中止を知った時の感想は「いくらなんでも早過ぎるんじゃないか」ということ。たった三日で展示を中止するというのは大変な大ごとだけど、とにかく至急そうしなければならないほどの電凸や脅迫があったんだろうと思うと、これについては素朴にうんざりだと思った。
この件に関して自分の意見として最初から一貫して言っているのは、芸術的な価値や表現の自由に関するイシューであるよりも以前に、とにかく電凸や脅迫という卑劣な行為をやった者たちがいて、それを促したり許したりするような発言を一部の政治家がすすんで行なったという問題だと思っている。なのに、その後の動きを見ていると、実際には一足飛びに芸術や文化と言った“大文字の問題”に格上げされてしまったように思う。「放火する」という内容のFAXを送ったのがどんな人物で、そこにはどんな動機があり、その後どうなったのか、などはほとんど詳しく報じられないまま、すぐにもっと抽象的な話になってしまった。そのほうがみんな話したいから。webDICEに掲載されたアップリンクの浅井隆さんによるロングインタビューで、津田君はかなり具体的に「組織化された脅迫」の可能性を語っていたけれども、その「組織化」がどんなものなのか、そのようなものが本当に存在したのかも結局明らかになっていない。
―そうしたことよりも、芸術そのものや表現の自由について議論が盛り上がった、と。
ただ、言っておかないといけないのは、会期終了直前であっても「表現の不自由展」の再開は正しかったということ。一日二回のコンピューター抽選で人数も30人と“無理やり感”は拭えないとしても、とにかく再開したという事実を残したことが重要で、脅迫を受けて一度展示を中止しても再び開けることが出来るんだってことを示せた。あのまま再開しないという判断でも良かったのかもしれないけど、そうすると中止したという歴史だけが残る。だから無理にでも再開したのはすごく重要なことだったと考えている。
今後も、どこかの誰かたちが、自分の気に入らない展示や何かを卑劣な方法で中止させることは間違いなく起きる。そういった望ましくない形で展示を中止した時に、どういう対応をするべきかが問われていた。展示中止を決めた大村知事と津田君自身が再開を決めたことも大きな意味を持つ。そのことによって、展示の中止は全く望んでいたことではなかったと遡行的に証明できた。最終日に2人が胴上げをされるなんだか晴れやかなフィナーレになっていたけど、そこまでには並々ならぬ苦労があっただろうし、全展示が復活して最終日を迎えられたのは本当に良かったと思う。
「自分の正しさ」を理由に他人を阻害する
―表現の不自由展を批判する側からは「芸術が政治的主張の場になっている」という指摘が上がっていました。
その見方には二つの層があって、一つは芸術と政治はどういう風に関われるのか、関わるべきなのかということ、そしてもう一つは政治的な主張やイデオロギーの問題。僕は芸術を擁護する立場なので、政治的なプロパガンダをしたいが故に芸術を使うというのは、(政治的な立場が)左であれ右であれ本当にくだらないことだと思っている。政治的なことは重要だけど、芸術的なことも同じくらい重要だ。だから、どちらかがどちらかを使役する側になるのは良くないし、そもそも自分の政治的信条を伝えるためだけに芸術をやるなんてのは芸術家ではなく運動家だよね。
ただ、その一方で、あらゆる芸術や表現は、作った本人がそう思っていなくても政治的な側面を帯びてしまう可能性があるし、実際に帯びている。そのように機能しうることは否定できない。だから作った側が「そんなつもりじゃなかった」と言っても、政治的な受け取り方をする人は必ず出てくることは防げない。だから、芸術と政治が無関係だとはやはり言えない。
―今回は「平和の少女像」と「遠近を抱えてPartⅡ」という作品が批判にさらされていました。
今言ったように、作品というものは発表されたあとは一人歩きして、作者が思ってもいなかったことを語ってしまうことがあるし、誤解も含めてどのように読まれるかわからないということは認めないといけないけれど、今回に関しては、苛烈に批判している側のほとんどは全然作品のことを知らないし、見てもいない。つまりはいわゆる炎上案件で、誰かが「こんなひどいことが行われてるぞ」と着火したせいで広がっていった。
だから、あの少女像は慰安婦像じゃないんだということは完全に無視されたし、「天皇死ね」とか書いて壁に貼ったわけではないのに、ほとんどそんな風に受け取られてしまった。一つの作品は、いろいろ複雑なレイヤーで成り立っていて、それをある一つのメッセージに還元すること自体が暴力的で、やってはならないことなんだけど、実際には一元的に受け取った人たちが大勢で電凸してくる、と。それを防ぐ具体的方法が乏しかったせいでああなったわけで、作品を理解する気もない人たちに丁寧に説明しようとしても向こうは最初から聞く気がない。電凸した人たちにとっては、最初からそういう問題じゃないから。
―作品が実際にどういう意図かは二の次なんですね。
だから僕は一貫して、これは芸術や思想の問題じゃないんだと言い続けてきたんです。思想的な問題にすると、芸術祭からあっという間に離脱して、慰安婦や歴史認識といった問題にスライドしてしまう。あるいは芸術性の価値判断の問題や言論の自由や表現の自由といった議論に行ってしまう。もちろん、そうしたことはすごく重要なのだけど、あいトリの件の本質はもっと“しょうもない”ことだったと僕は思っている。
慰安婦問題や過去の清算については様々な考え方があって、僕はいわゆる「ネトウヨ」と言われる人たちの信条を一概に否定するつもりもない。僕とは考えが異なるけれど、そういう風に考えたり、考えたいと思ったりする人が存在するという事実は動かせないわけだから。今回のようなイシューに限らず、自分とは考え方が違う人はどこかに必ずいるわけで、そのこと自体は認めないといけない。それが言論の自由なんだから。
でも、「言論の自由」「表現の自由」を理由に、他人の同様の自由を、自分とは内容や趣旨が違うからと言って阻害して良いと考えることは問題だと思う。それは一線を踏み越えている。自分が保障されている自由を他人に対しては認めないというのなら、逆にその人は自分の自由を否定されても仕方ないと思わないといけない。でも多くの場合、他人の権利を否定する人間は自分の権利はものすごく強く主張する。そういう非対称的な関係がある。
―自分が持つ自由の権利は主張する一方で、相手には同じような権利を認めない。その理由はどんなものだと考えていますか?
これは右翼だけじゃなく左翼も同じなんだけど、それは自分(たち)が絶対的に正しいと思っているからなんだよね。こちらが正しいと信じているが故に、同じ考えを全員が抱くべきだと思う。だから同じ考えを持ってない人や、違う考えを持っている人を「間違っている」と決めつけてしまう。そう考えたくなることは理解できるし、それが自分の考えに責任と自信を持っているということなのかもしれないけど、自分の考えを保ち続けるためにこそ、自分の考えに常に疑いを持っていなければならないし。対立する考えを持っている同士がそうであるべきだと僕は思っている。
しかし、自分にとっての正義の正しさを保ち続けるために、「正しくないもの」に牙を剥かないといられない、という心の動きがあるのだと思う。これが今回の問題の本質で、電凸をきっかけに右翼と左翼の対立構造みたいなものばかりがクローズアップされたけど、本当はそれ以前にもっと重要なことがある。それは自分と違う考え、自分とは反対の考えに耳を貸すということ。
他者への想像力が持ちにくくなった日本的理由
―佐々木さんは少し前にも「自分の自由が相手の自由に優先するような考え方をしている人が多い」といった内容のツイートをしていました。
芸術のことだけに限らず、日本人は他人のことを考えられなくなってきていると思う。自分と自分の延長線上にある小さい関係性、家族とか、親しい友だちとか、利害で繋がっている人をすごく大事にする。逆に言うと、そういった近しい人間と、それ以外の他者をかなりはっきりと分けている。だから裏返しで、他人の不幸には無関心だったり、場合によっては喜びになったりする。
自分と無関係な他者に対して、何かを考えたり慮ったり、どんなことができるのか考えたりすることはすごく重要で、それは人間の持ち得る重要な美徳の一つだと僕は思っているけど、それが崩れていっているように見える。でも、仕方ないよな、って思うこともあって、自分が明日をも知れぬ身なのに他人のことなんて考えられないよ、というのも理解できなくはない。だからやっぱり社会の問題で経済の問題だし、日本という国の問題なんだと思う。
―他者への想像力を持ちづらくなったのはいつ頃からの変化だと思いますか?
どちらかというと、大半の人間はほうっておけば自分のことしか考えないと思う。極端な悪人とか利己的な人間ではなくても、自分や自分の周りが大事なのはごく普通のこと。他者への想像力は広い意味での学習や教育によって育まれるものだと思う。だから書物や芸術との出会いが重要だし、家庭環境や学校教育も重要。それらが全部、今の日本では崩れていっている。
他人のことを考えられない、セルフィッシュな人は昔からいた。ただ、今、そういう人が見えやすくなった理由の一つは、やはりインターネット、SNSだと思う。独善的な意見や差別的な考えを持っている人は昔からいたと思うけど、学校や社会生活のなかで、そうではない考えに晒され、正されることで変わってゆくということがあった。ところがSNSによって、以前は出会えなかった、歪んだ考えを持った者同士が出会えるようになった。すると自分一人だったのが「我ら」になる。偏った考えは、人から「おかしい」と言われ続けたら、よほど強い性格じゃないと持ち続けられない。でも「その通り」と言われ続けていたら、自分だけじゃないんだ、我々こそ正しいんだという励みや支えになる。インターネットという公的空間で、昔だったら憚られるような意見をどんどん言えるようになる。だからネット以後のこの20年くらいで、こういう状況になったという見方はできると思う。
―もう一つ、インターネットやSNS以外の理由はなんでしょうか。
“特殊日本”的なことで言うと、圧倒的に「3.11」だよね。未曾有の天災と人災が起きて、人それぞれに事情があると思うんだけど、あのとき、被災地に取り残された人たちがまだ沢山いた一方で、たとえば東京でもより安全な場所に逃げた人たちがいた。逃げたいと自分が思ったなら逃げればいいだけだけど、逃げたほうもある種のやましさを感じていて、なぜ自分が逃げるのか言い訳をしないといけないみたいな空気があった。僕は逃げたことよりそういう言い訳が好きではなかった。
理由なんて単に「怖いから逃げる」でいいと思うんだけど、「自分だけ逃げやがって」とか非難する人も出てくるから、逃げることの正当性を編み出さなくてはいけなくなった。あのときに僕が見たもっとも典型的な「言い訳」は、実際に安全かどうかよりも、とにかく自分の気持ちが堪えられないから、というものだった。他人と比較して自分がどうなのか、ではなく、ただ自分の気分の問題。たとえばああいうことが自己と他者をナチュラルに線引きする考えの温床になっている気がしている。SNSと「3.11」、この二つが重なったことで、今のような状況に繋がっていったんじゃないか。
アイロニカルで複雑なことができるのが芸術
―今回は、展示に反対する人からは「公共施設で開催しているのに」「公的な資金をもらってるのに」という主張も見られました。
むしろ日本やアメリカなんかが異例なんだけど、先進国においては文化にかかわる公的な予算は大多数の人が納得するような思想的背景を持つものに使わないといけない、という考え自体がすごく珍しいものだと思う。あえて芸術的な価値の話をすれば、どんな芸術であっても存在すること自体はありだというのは、どれだけマイナーだったり特殊だったりする表現であっても基本的に認められて然るべしじゃないか。文化行政としては、たくさんの人が喜ぶものを大切にするよりも、きちんと守らないと絶滅危惧種になってしまう表現を守ることも重要な役割だと思う。でも、日本ではそのようになっていない。
お金の話でクレームが入る背景には、まず90年代後半以降に出てきた自己責任論があって、それからずっと景気が悪いから余裕がなくなって自分に廻ってこないお金の使い道が気になるということがあると思う。芸術以外でも、福祉とか老人介護とか、いろんな領域で「そういうことにお金を出すな」「自分たちの税金を使うな」とか言う人がいるけど、それと同じこと。だけど、大多数の人がわからないからと言って「税金を使うとは何事だ」と言うのは本当に野蛮な主張であって、そんなことすら大手を振って言えるようになってしまったのが今の日本なんだよね。でも、素朴にわからないのは、「そんなことにお金を使うな」と怒る人は、もっとひどいいろんなことにもっと多くのお金が使われてることはどう思ってるんだろう。なんでそっちは言わないんだろう、って思う。
―言えない相手には言えない分、言える時は強く主張してしまう。
それから、日本人の良くないこととして、多数決を重視しすぎることの問題があると思う。10人の人が見て8人がわからなかったら全くダメなのか、ということ。日本では多数決の原理がすごく絶対的な選別として機能している。そして多数決で負けた側のことは考慮されない。そうなると人数が多い方についた方が得だから、そのように行動する人たちが増えていって、余計にアンバランスが極まっていく。多数決はひとつのシステムでしかないんだけど、そういう思考を強く持っている人が多いよね。
芸術とされている作品が、わかりやすい政治的なメッセージに還元されて、観た人の反応がイエスかノーかで二つに分かれるのって、どうかと思う。芸術はもっとひねくれたことができる。例えば、今回のあいトリにも出品していた小泉明郎というアーティストがいるけど、彼の少し前の作品で「夢の儀礼─帝国は今日も歌う」という映像作品がある。これは反天皇制運動のデモを捉えた映像作品なんだけど、何がすごいかというと、作者の立場がよくわからないことなんだよね。もしかして右翼の人なのかなとも思うし、右翼だとしても単なる右翼じゃない、左翼だとしても単なる左翼じゃないな、という。そこがすごくアイロニカルに出来ている。
観る人が極端な思想を持っていると受け取り方が180度変わっちゃうかもしれないし、観る者の考えを照らし出すように巧妙に作られている。本当にクレバーな作品で、芸術にはああいうことができるのだと感心させられる。1か0か、勝ちか負けか、敵か味方か、ではなく、世界の複雑さを表現できるのが芸術なのだと思う。多様性を認められない人は物事を二項対立に持って行きやすいし、わかりやすい分、それに引っ張られる人も多いけど、だからこそ小泉さんのようなやり方が意味を持つんだと思う。自分が信じているものの“あやふやさ”を再帰的に突きつけられるような作品のあり方。だからもっと複雑にならないといけない。アートだけではなく、人間の振る舞いでもそうだと思うし、僕自身は希望はまだ捨てていない。
「芸術って役に立つんですか?」への応答
―アイロニカルな複雑さが理解されにくくなっている状況がある一方で、わかりやすいものや役に立つものが評価される面もあると思います。「芸術は何のためになるのか」「どんな風に役立つのか」と聞かれたら、なんと答えますか?
少し前にTwitterで「芸術というのは、何かを考えはじめるためのもの、思考を起動するもの」とかって言ったんだけど、これはジル・ドゥルーズが哲学に関して言ってたことを言い換えただけなんだよね。哲学と芸術って僕にとってはほとんど同じもので、考えてもみなかったことを考えるためのきっかけになる。もちろん、そうして考えてしまったことに意味があると思えるかどうかはまた別のハードルがあるのだけど。
「芸術なんて何の役に立つんだ」といった物言いに対する答え方は二つあって、まずは有用性とか利用価値しか考えていなかったらむしろ人間は滅ぶよ、ということ。またそれ以前に、みんなとにかく役に立つかどうかを気にし過ぎじゃないかな。経験ってそういうものじゃないでしょう。後から思えば、あのことが役に立った、あの作品が自分をじわじわと変えていった、などというのが経験なのであって、なのにタイムマシンのように自分がやろうとしていることの有用性ばかり先回りして考えてしまう。それは結果として自分の可能性を縮減していることだと思う。
もう一つの答え方としては「本当にそれって役に立ってないですか?」ということ。役には立たないと思うかもしれないけど、ただ単に面白いって思えただけでも「役に立った」ってカウントしていいんだと僕は思っている。
―面白いだけで、それは何かではありますね。
どう役立つのかを先に知りたがるって話だけど、やっぱり余裕がないんだと思う。結局、身も蓋もないけれど、やっぱり日本の景気が90年代終わりからほとんど改善してないことが全ての土台になっているんだよね。精神的な意味でも物質的な意味でも、余裕がない。余裕がないからお金の使い道が気になるし、他人のことも考えられなくなる。そして自分にすぐ役に立つかどうかを重視する。それはある意味では仕方ないことかもしれない。でもそこを変えないと余計に未来はない。
芸術が役に立つかどうかは人それぞれかもしれない。でも何のために生まれてきたのかって言ったら、働いてお金を稼いで生活を維持して死ぬまで生きるためだけじゃないよね。物質的な喜びだけじゃなく、もっと単純に嬉しいとか、気持ちが上がるとか、生まれてきて良かった、と思えるような喜びがあっていいわけで。でも、そうではなく、単に実用的なことや功利主義的なことばかり何かによって考えさせられているのが現状。でも、それはまやかしであって、むしろ人にそう思わせることで利を貪っている何ものかがあるのだと僕は思う。他人をねたんだり羨んだりするよりも、そういう見えない仕組みに対して疑問を抱いてほしいと思う。そして、そういうことに気づかせてくれるのも芸術や文化の重要な効用の一つだと僕は思っている。
―そうですね。ところで佐々木さんのような批評家が、このように実際に起きていることについて語ると、意外に思う人もいそうです。
個人的なことで言うと、僕はおおよそ「役に立たない」と思われるようなことについて書いたり教えたりしてきたんですよ。それに、少なくともある時期までは、アクチュアルなことや時局に即した発言をあまり表明しないようにしていた。自分はそれぞれの作品や作家を論じるのであって、それを含むジャンルやシーンを云々することさえ自分に対して禁欲していた。
ただ、そこは時代の変化や自分自身が年齢を重ねてきたことで、だんだん変わってきたとも思う。人にはそれぞれ役割や能力がある。僕にできること、やってきたことは、芸術文化について考えたことを書くこと、喋ること、それを教える、伝えること。そうしたなかで、たぶん自分がいちばん重要だと考えてきたのは「理解」だと思う。人間にとってもっとも大切なのは「理解」。
理解に比べたら共感なんて簡単だ。でも共感はたやすく反感に変わる。好き嫌いも同じ。それよりはるかに重要で、だから難しいのが理解。何かを理解することと、理解したことに賛同するのは別問題だから、自分と全然違う考えだって、理解したうえではじめて「ここは同じだけどここは違う」などと言うことが可能になる。理解への努力をするということは、芸術文化の作品や表現においてもきわめて重要なことだと思う。
―なるほど。
だから自分は「理解」のためにいろいろしてきたんだと思っている。批評家ってのは単に名乗ってきただけで、というか僕にとって「批評」とは「理解」ということなんだよね。しかも自分は常に、いろんなジャンルの批評家の「もう一人」だと思ってきた。もしかしたらいてもいなくてもいいのかもしれないけど、たまたま自分という存在がいることによって何らかの可能性を示すことができる、というような。だから多数決では絶対負けるし、存在価値がないと言われても仕方ないし、ディストピアになったら真っ先に粛清されるんじゃないかと思う。でも、そういう人間だってそれなりに生きて来て、何かしらのことがやってこれたという事実、「いろんな人がいたうえでの、もう一人」がいられたということが、日本社会の過去数十年の豊かさだったのだと思う。今後、そういう豊かさが更に失われていってしまったら、僕のような「多数決で負ける」人間には日本に居場所がなくなるだろう。僕自身はもうトシだからなんとでもなるけれど、暗澹たる気持ちになることばかりなのも確か。そういうことを今回のあいトリの件でも考えさせられたし、それはどうにかしなければ、と思っている。実際には、目の前の一つ一つを相手にしていくしかないわけですが。
プロフィール
佐々木敦
1964年生まれ。批評家。音楽レーベルHEADZ主宰。文学、音楽、演劇、芸術ほかジャンルを越境した批評活動を行う。『批評時空間』『シチュエーションズ』『新しい小説のために』『アートートロジー』『ニッポンの思想』など著書多数。近刊に『この映画を視ているのは誰か?』『私は小説である』など。