「情が移った子グマを手にかけ、生きるのも辛かった」鉄砲を手放そうとした福島県唯一のマタギが語った″命をとる意味″ - 清水駿貴
※この記事は2019年11月20日にBLOGOSで公開されたものです
四方を山に囲まれ、豪雪地帯としても知られる福島県金山町。猪俣昭夫さん(69)は長年、猟銃を手に山に入り込み、野生動物と向き合って来た。東北などには昔ながらの手法で狩猟をする「マタギ」文化が今も残り、猪俣さんは福島県で唯一のマタギだ。かつて、誤ってクマを撃ち殺してしまった。その子グマ2頭を保護し、その後に自ら殺めた経験がある。「生きるのも辛かった。マタギをやめようと思った」。苦悶の末、猪俣さんは再び猟銃を手に取り、そして今も動物と向き合い続けている。
◼️かつてはタブーだった女性の入山 解禁の背景には失われるマタギの文化と自然破壊
マタギとは、古くから東北地方などで狩猟を生業とする人々のこと。猪俣さんはマタギを次のように説明する。「動物全体の数や自然の状態、この動物を今獲っていいのか、そして、山や自然に及ぼす影響はどういうものかを考えながら、自然を見つめる人間のこと」。動物を獲ることを第一に考える一般の猟師とマタギの大きな違いはその点にあるという。
マタギが減少するにつれて、これまで培われてきた猟法や文化は絶滅の危機にある。猪俣さんは自らの名刺に「マタギ」の文字を印刷している。一人でも多くの人にマタギ文化への興味を持って欲しい――。そんな願いからだ。
マタギの世界はかつて、極めて閉鎖的だったという。女人禁制や狩場となる山には一般人を立ち入らせないといった排他的な面も多くあった。「今の時代、そんなことを言っていてはどうしようもない。代々受け継がれてきた自然や動物と向き合うマタギの考え方を広めるためには全部とっぱらわないと」。猪俣さんは見学したいという声があれば、女性でも山に入ってもらっている。
その背景には強い危機感がある。「多くの人が山に入って、自然を見て、感じてもらわなければどうしようもないくらい、日本の自然は大変なことになっている」
◼️当初は「命」について考える余裕などなかった
猟を始めた頃は、マタギについて深く考えてはいなかった。初めて猟銃を手に取ったのは1973年、23歳のとき。猟をしていた父親が山にマツタケを採りに行った後、行方が分からなくなった。猪俣さんは職場があった茨城県から故郷の金山町に戻って実家を継ぐことを決意。消防士として働きながら、幼いころから父親に連れて行ってもらったことを思い出し、猟を始めた。父親は翌年、山中に遺体で見つかった。
マタギの集まる近くの集落に通い、技術や文化を教わった。当初は獲物を獲れる喜びを感じるだけで、命や自然について深く考える余裕はなかった。町で最大の獲物はクマだ。ところが、巣穴を教えてもらっても姿を見ることすらできない日々が続いた。
マタギとして腕が上がり、動物と向き合うなかで次第に命の尊さを考えるようになった。そんなとき、高級品として売買されてきた毛皮などが売れなくなり、マタギは職業としては成立しないようになった。高齢化が拍車をかけ、マタギの数は激減。自然の調整役を担ってきたマタギが途絶えつつあることに危機感を抱くようになった。
命を奪うこと。それがどういうことか、猪俣さんにあらためて考えさせるような出来事が起きた。猟を始めて約8年、35歳のとき。猪俣さんは自分に懐いた子グマ2頭を自ら手にかけた。
◼️毛布に潜り込んでくる子グマたち 命を奪った先に待っていた苦悩
きっかけは1頭の親グマを誤って撃ち殺してしまったこと。子を持つクマを獲ることはマタギの掟で許されない。次の代のマタギに獲物を残すためであり、自然のバランスを保つためでもある。
猪俣さんはその日、大きな岩場が点在する場所で猟をしていた。岩の間から獲物が見えたため、銃を撃ち、狙撃されたクマは崖の下に転落した。
約1メートル離れた場所から子グマ2頭が姿を現し、猪俣さんは自分が撃ったのが親グマだと気付いた。放っておくこともできず、子グマ2頭を家に連れて帰った。
ダンボールに毛布を敷いて、急ごしらえの寝床を作った。子グマたちは夜になると、寒いのか寂しいのか、猪俣さんの布団に移動して毛布と猪俣さんの間に潜り込んでくる。2頭の暖かさに情が移る。同時に切なさもこみ上げた。
猪俣さんは子グマたちを保護してもらおうと、さまざまな動物園に電話をかけたが、当時はクマが飽和状態。引き取り手は見つからなかった。しかし、ずっと育て続けることは現実的に不可能だ。山に戻したところで、親のいない子グマ2頭が生き残ることができないのは目に見えている。
「無責任に山に放り出すことはできない」
連れ帰ってから約2週間後、猪俣さんは自らの手で2頭の命を絶った。
「そのときの思いがあまりに辛すぎて鉄砲をやめるべかなと思った」。猪俣さんはそう振り返る。雪が溶けた春先のことだった。「生きるのもつらい。マタギもやめよう」。猟の期間が終わっても、猪俣さんは落ち込んでばかりいた。
それでも、秋になると猪俣さんは再び猟銃を手にした。「数少ないマタギの自分がクマを撃つことをやめたら、クマのことを考える人間がいなくなってしまう。それは結果的に不幸なクマを増やすことにつながる」。そんな使命感が胸から消えなかった。自然界のバランスが狂い、増えたクマが人の恐怖心を煽り、単なる駆除の対象となることだけは防がないといけないと思った。
◼️恐怖心が引き起こす"駆除" 「そこに命を考える余裕はない」
猪俣さんが恐れていた事態が起こりつつある。かつては積雪地帯である東北地方で姿が見られなかったイノシシなどが北上し、農作物への被害が起きるようになった。イノシシによる被害を伝える新聞は、マタギなどの狩猟者の減少やニホンオオカミの絶滅など要因はさまざまだと報じている。山と人家の緩衝地帯であった里山が失われたことで、クマが人の住むエリアに姿を見せることが多くなった。
人間と野生動物との接触が増えると、思わぬ事故が起きる。クマが人を怪我させることが続くと、人々の恐怖心が煽られ、「とにかく狩ってしまえ」と過剰反応を引き起こす。猪俣さんは「そこに命の大切さを感じる余裕はない」と話す。
「クマは多様性のある日本の森や山を作ってくれた動物。しかし、ニホンオオカミのように人間の恐怖心が引き金となって絶滅させられるような事態になることをものすごく心配している。クマの悪いところばっかり報道されて、自然のことをよく知らない人が、危ない動物だと思ってしまう。だからこそ、人家近くに出てくる増えすぎたクマを俺らが獲って、調整して、人間に危害が加えられないくらいの数で維持しないといけない」
猪俣さんが「クマを守るために撃つ」と口にすると、「守りたいなら何もせずに放っておいたほうがいい」と反論されるという。猪俣さんはそうした意見を否定する。
「何もしないと人々の恐怖心を煽るくらいクマが増え続けて、命をただ無駄に奪うという結果になってしまう。有害鳥獣=悪と人間が決めつけて駆除するというのは、あまりにクマがかわいそう。ちゃんと生きてもらうためにクマを獲るんです」
◼️「自分の命ってやつも同時に、強く感じて、奪った動物の命の分も生きていかなきゃなんねんだ」
猪俣さんが主演のドキュメンタリー映画が公開されたことや、講演会を続けてきたことによって、少しずつマタギの生き方や考え方に興味を持つ人が増えはじめているという。昨年、埼玉県から地域おこし協力隊として金山町に来た、八須友磨さん(27)が、猪俣さんのもとに弟子入りした。
八須さんの目の前で、獲物の仕留め方を初めて実演して見せた時のことだ。自然や動物が好きだという八須さんの目から涙がこぼれた。それを見た猪俣さんは命についてこう説いたという。
「俺ら人間がこうやって生きていくには、他の動物、魚でも野菜でも、ほかの命を食わねえと自分の命を繋いでいくことはできねえのさ。スーパーの肉売り場でパックに入った肉だと、命を直接感じることはねえと思うけど、それだって、もともとは命があったわけだ。その命を自分の手でとるようになると、亡くなった動物を目の前に、命をより強く感じるようになる。そうやって自分の命ってやつも同時に、強く感じて、ちゃんと自分は生きていることを意識して、その動物の分も生きてかなきゃなんねんだ」
野生動物の命を奪うことを一部の人から批判されることもある。それでも、猪俣さんには強い信念がある。「本来、人間とは命を食べないと自分の命をつなげない動物。その命をとるという行為や、それについて深く考えることは、ものすごく大事なことだ」。