【赤木智弘の眼光紙背】安全な他者という神話 - 赤木智弘
※この記事は2010年07月29日にBLOGOSで公開されたものです
児童の登下校を見守る活動に参加していた男性が、その立場を利用して、小学生の女の子を自宅に呼び寄せ、胸を揉んだりキスをしたという強制わいせつ事件に対し、京都地裁で有罪の判決が下されたようだ。(*1)(*2)子供が登下校する時間に街角にたつ「監視隊」。ここ数年の社会不安から、どこの自治体でも見られるようになった。
しかし、何度も言うのも面倒なのだけれども、子供が被害にあうような凶悪犯罪は減り続けており(*3)、多くの人たちが抱く不安には、なんら統計的な根拠はない。
にも関わらず、なぜそうした不安が社会に共有されているのかという点については、マスメディアが子供にまつわる事件を殊更に大きく取り上げ、何日も連続でのべつ幕なしに報じているからだという指摘がある。
かつてであれば子供が殺したり殺されるような犯罪は決して珍しくなく、ニュースで大きく取り上げられる事はなかったが、そうした犯罪が減少し、珍しいものになった結果、現在の子供にまつわる事件は、昔の子供にまつわる事件よりも注目を集めやすいのだという。
ニュースが視聴率を稼ぐためにセンセーショナルな事件を繰り返し報じ、世論を誘導する。最近ではよくある報道のありかたである。
そうした報道に煽られ、現実とまったく関係のない安全安心の文脈から、各地でこうした監視隊が組織され、子供たちの登下校を見守っている。
とはいえ、活動に参加している人たちの多くは、素朴にこうした活動を良い事であると認識し、良い事をしようとして参加している。その多くは地元のお年寄りたちであり、一種のレクリエーションや地域コミュニティーの場として機能している。
だが、こうした空想上の危機の存在を前提としたレクリエーションのありようは、やはりどこかが、ねじれているのである。
安全を守るはずの活動が活発になればなるほど、逆に「危険な他者」の存在を過剰に意識させ、「町の中に危険な人がいるのではないか」という疑心を産み出してしまう。
また、その一方で、危険な他者に対抗しうる「安全な他者」という神話が産み出される。子供にとってみれば、この監視隊の存在は、危険な他者から守ってくれる、絶対に安全なはずの存在だったのだろう。
そんな存在だったからこそ、被害に遭った女の子は、被告の家に一人で上がり込んでしまい、性的被害に遭った。そのショックは性的被害を受けた事はもとより、信じられるはずの存在に裏切られたことも大きいのだろう。
この事件が起きた後に、この監視隊の活動が中止されたという話はない。
記事によれば「見守りは子供の安全を守るために学校や住民で行っており、これからも必要だ」という。
また父親の発言から、監視隊は以前と変わらぬ格好で活動をしているのだろう。
被害に遭った子供に追い討ちをかけるような活動を、何の対応も無しに継続しておいて、どうして「小学生の登下校時の安全を守る」と言えるのだろうか?(*3)
安全安心を守る活動自体が悪いわけではない。
また、それを利用して地域コミュニティーの結束をはかるのもいいだろう。
しかし、こうした問題が起きた時に、それでもそのまま活動を続ける事ができる理由が、私にはさっぱり解らない。
身内の犯罪をよりいっそうの「安全安心の危機」で打ち消そうとしているのか。それとも監視隊が内包する「監視側は善良であるはずだ」という理論の独善性に気づいていないだけなのだろうか?
*1:見守り隊:72歳ボランティア、女児の体触り起訴(毎日新聞)http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100706k0000m040112000c.html
*2:女児は精神不安定に…わいせつ「見守り隊」72歳に有罪判決(産経新聞)http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100722/trl1007221122000-n1.htm
*3:子ども見守り隊(城陽市)http://www.city.joyo.kyoto.jp/living/crime_prevention/city/multipage14
■プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。著書に「「当たり前」をひっぱたく」など。